渋沢栄一、NHK大河ドラマに見る日本経済の礎

日本の歴史

NHK大河ドラマ「青天を衝け」、第60作目になるわけですが、「日本経済の父」とよばれてる「渋沢栄一」の生涯を描いています。

ちょうど60作目ということで、NHKは節目と考えているかはわかりませんが、日本の歴史の中で幕末は戦国時代と並び、非常に人気があるといわれている時代です。

歴史ファンでなくても、この時代の人物の名前は少なからずも知っているので、視聴率のことも考慮に入れたうえで、それなりに考えているものと思います。

ただ、驚いたのは「青天を衝け」の後の大河ドラマもすでに決まっているということでした。

2022年は「鎌倉殿の13人」、2023年は「どうする家康」、コロナ禍でスタートが遅れた第60作「青天を衝け」が始まる前に、2年後の作品がオープンになるのは異例ですよね。

大河ドラマの中で60作中、20作が戦国ものだそうです。私も調べたことが無かったので知りませんでしたが、前回の「麒麟がくる」もそうでしたが、確かに多いと感じてはいました。

こうやって過去の大河ドラマを探ると、日本の歴史の中で、時代の節目に活躍した人々を描いていくというのが一つの流れになっているのかもしれません。

2021年2月14日(日)午後8時にスタートした「青天を衝け」、私も記念すべき第1話としてみましたが、今後の展開が非常に楽しみですね。

幕末・明治・大正・昭和に渡り、日本経済の基礎を作り上げた「渋沢栄一」、NHKがどう描くかは別として、今回はあくまでも、歴史資料や渋沢栄一が残した著書などをもとに、生涯を記してみたいと思います。

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渋沢栄一とは、どういう人

知っている方も多いと思いますが、まずは渋沢栄一の人生の概要を記しておきます。

本名は渋沢栄一(1840~1931)、肩書は明治・大正時代の実業家となるでしょう。

生まれは天保11年(1840)、当時の武蔵国(むさしのくに)、現在の埼玉県深谷市の農家に生まれています。

明治維新後、民部・大蔵省に出仕、渡米体験を通して学んだ知識を生かし、新貨条例や国立銀行条例など諸制度改革を行っています。

民間経済界に入ってからは、「道徳経済合一説」を唱え、第一国立銀行をはじめ、王子製紙・日本鉄道など約500社にのぼる会社の設立に携わり、会社の育成に加え、商業会議所・銀行集会所などの経済界の組織づくりに関与しています。

また、社会公共事業にも力を入れ、東京商大(現、一橋大学)などの学校の設立にも多くの力を注いでいます。

江戸時代の終わり、いわいる幕末と言われた時代の日本は、歴史上最大ともいえる混乱に陥っていました。

政治は乱れ、長く続いた徳川幕府の力も鎖国という対外政策の中で、経済的にも技術的にも世界に大きく溝をあけられてしまいます。

渋沢栄一の幼少期は伝記などで、ある程度知ることができますが、好奇心旺盛で活発な子どもだったみたいです。

生まれは農家となっていますが、貧しい農家ではなく、藍玉(あいだま)の製造販売や養蚕業を営んでおり、米や野菜、麦などを手掛けており、経済的には豊かな農家であったことがわかっています。

幼いころから家業を手伝い、勉学にも興味を持ち、論語や日本外史などを学び、10歳ごろからは父と伴に上州や信州へ藍玉を売り歩き、14歳のころからはひとりで藍玉を売り歩き、原料となる藍葉の仕入れにも関わっています。

(※藍玉というのは藍葉を発酵・熟成させた染料、蒅(すくも)を突き固めて固形化したもの)

伝記では若いころから商売の基本を学んだことから、後のヨーロッパ諸国への視察で見た先進国の経済システムや国の諸制度などを理解し吸収できたのではとされています。

また、栄一が18歳の時、安政5年(1858)には惇忠の妹で従妹にあたる尾高千代と結婚しています。

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御用金調達事件、一橋家仕官、人生の転換期

安政4年(1857)17歳になった栄一は、人生の転換期となった御用金調達事件に遭遇します。

ウィキペディアでは16歳となっていますが、他の資料を見ていると17歳時の出来事として書かれているので、今回は17歳としておきます。

栄一は代官から突然の呼び出しがあり、病に臥せっていた父親に代わって出向きましたが、そこで突然「金500両、申し付ける」と命ぜられます。

栄一は「年貢は確実に納めているのに、なぜ巨額の出金を命じるのか」と疑問に思い、しぶる栄一の姿を見て代官は怒鳴り飛ばしたとのことですが、それでも栄一は一歩も譲らなかったといいます。

事の次第に驚いた栄一の父が、翌日、500両を納めて事なきを得ましたが、栄一の心の中には大きな憤りを感じ、世の中の仕組みに深い疑問を持つようになります。

「人が汗水たらして得たお金を役人が威張り散らして取り上げる。そういう世の中は間違っている。変えねばならぬ。」

その後、栄一は江戸へ出ます。

御用金調達事件で感じた世の中の疑問に、「どうすれば世の中を変えられるか」を本気で考えはじめ、さまざまな人物と志を語り合ううちに、栄一は「一橋家」に仕官することになります。

この行動が、その後の渋沢栄一の人生を大きく変えることになっていきます。

(※一橋家とは、田安家・清水家とともに徳川御三家のひとつ。1741年(寛保元年)、将軍吉宗の4男、宗尹(むねただ)が江戸城一橋門内に居住したのに始まる。代々刑部卿・民部卿・兵部卿を称した。賭料10万石を領し、将軍には第11第家斎・第15代慶喜をは輩出している。)

慶応2年(1866)、一橋家の当主、慶喜が第15代将軍となり、渋沢栄一も陸軍奉行支配調役として取り立てらることになります。

ここで慶喜は栄一に重大な任務を与えました。

「我が弟、昭武(あきたけ)のフランス留学に同行し、会計係を務めよ」

そして慶応3年(1867)1月、栄一は日本を出発し、ヨーロッパへと向かいました。

主な目的はパリで行われる万国博覧会のに将軍の名代として出席する昭武の随員としてですが、ヨーロッパ諸国の先進的な産業・諸制度を見聞することも大きな目的でした。

マラッカ海峡・インド洋を経て船は紅海へ進み、ここで栄一は驚くべきものを見てしまいます。当時建設中だった「スエズ運河」でした。

全長160kmに渡って水路を造り、紅海と地中海結び、船が短時間で二つの海を行き来することができ、アジアとヨーロッパ諸国を結ぶ画期的な海の道構想ででした。

その圧倒的な規模の大きさに栄一は衝撃をうけたといいます。

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銀行の仕組みを知り、驚いた渋沢栄一

約3か月の旅を経て一行はフランスのパリへと到着します。ここで栄一が目の当りにしたのは、西洋文明の圧倒的な豊かさでした。

主要の交通機関である馬車や目の前にそびえたつ凱旋門、街並みに続く石造りの建物の数々、「一体どうすればこのような文明を築くことができるのか、その秘密を知るには、姿かたちから西洋人になるしかない」と決意し、栄一は髷(まげ)を切り落としてしまいました。

そしてその姿を写真に収め、日本にいる妻、千代のもとに送りましたが、千代から届いた返事は「髪を切ったあなた様の姿はあさましく、見るのも辛いほどです。どうかもとの姿にお戻りください。」という返事でした。

栄一は、「千代にはわからないのだ、なぜ髪を切って新しい自分に生まれ変わろうとしているのか。西洋文明の本当の素晴らしさは、その外見の下に隠された富を生む仕組みにある。

いつか日本の人々にも、千代にもそれがわかる日が来るだろう。」

そう思ったそうです。

一行の世話役を務めていたフランス人のフリューリ・エラールから、西洋文明の豊かさの源泉というべきものの存在を聞かされます。

その源は「銀行」でした。

もともと銀行家であったフリューリ・エラールは、その仕組みを栄一に詳しく説明してくれました。

「銀行とは、人々からお金を集めて、そのお金を事業に投資し、その事業によって得た儲けを再び人々に還元する。

一人ひとりの持つお金は少なくとも、大勢の人々がお金を出し合えば、巨額の資金が集まり、どんな事業でも行うことができる。

あのスエズ運河も、これと同じような仕組みによってお金を集め、建設資金としているのだ。決して役人が強制して造らせているものではない。」

そう教えられた栄一は「これだ、これならば誰もが進んで出したお金でみんなのためになるものができる。

個人の利益追求が同時に公の利益にもなる。頭ごなしに金を絞りあげようとしたあの代官のやり方に比べ、なんという違いだろうか。」

栄一はそんな思いに駆られたそうです。

慶応4年(1868)5月に徳川昭武のフランス留学が突然中止され、新政府から帰国を命じられます。

栄一たちがヨーロッパに出向いているときに、日本では大変革が生じていました。

将軍慶喜が政権を朝廷に返上し、新しい日本政府が誕生した、いわゆる「大政奉還」でした。

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渋沢栄一、行動を起こす!

明治元年(1868)11月3日、渋沢栄一はおよそ2年ぶりに日本の土を踏みます。しかし、帰国した時にはすでに政権は徳川から明治新政府へと移っていました。

主君の慶喜が静岡にいると知った栄一は、兄に宛てた昭武からの手紙を携え、直ちにそのもとへ向かいます。

駿府にある「宝台院」という寺で、慶喜は謹慎していました。慶喜にお目通りを願った栄一は庫裏(くり)で待つようにと言われました。

※庫裏とは、寺院の僧侶の居住する場所、また寺内の時食を調える、つまり台所も兼ねる場合がある。なお現代では、その多くは僧侶の居住する場所をいうことが多い。

やがて何者かがふすまを開けて入ってきました。お付きの者が呼びに来たのだと思った栄一でしたが、ろうそくの炎に照らし出された人物が、慶喜自身であると知って愕然とします。

栄一はこの時のことを後にこう記しています。

「慶喜様が国難を一身に引き受けられたことは、大いなる犠牲的観念の権化(ごんげ)あると思ふ」

栄一は故郷から妻子を呼び寄せ、慶喜がいる静岡に骨を埋める覚悟をしました。

そして、この地でフランスで知った銀行の仕組みを採り入れた「商法会所」という組織を作ります。

※「商法会所」とは、1868年(明治元年)、商業金融目的として、国内産業の振興・掌握を行う商法司のもとにおかれた機関。

幕藩時代の国産会所を引き継いだ福井藩総会所などや、渋沢栄一が新たに設立を任された静岡藩の商法会所があった。

1869年(明治2年)3月に商法司が廃止され、商法会所も自然消滅した。

静岡で活動を始めた栄一は、フランスで学んだことを実践していきます。

そのことが明治政府にも届き、当時政府の高官だった大隈重信が、新政府に仕えるように栄一に熱心に説得します。この時の心情を栄一はこう語っています。

「慶喜様の恩を受けた者として新政府に仕えるわけにはいかない。」

そういって断る栄一に大隈重信は、「日本のためになる仕事をするのに過去の経歴は関係ない。」栄一はその言葉を意気に感じ、明治2年(1869)には明治新政府に出仕し、今の財務省にあたる「民部省(みんぷしょう)に勤めるようになります。

※民部省とは、明治維新政府において、国内の民政を担当した中央行政官庁。初代民部卿には松平慶永。明治4年(1871)には大蔵省に吸収された。

そして、政府主導の下で行われていた様々な改革の先頭に立ち、鉄道・郵便・製糸工場の立ち上げなど、手がけた事業は2年間で200社に上りました。

銀行条例作成

同時に栄一はかねてからの念願であった銀行をつくる計画に着手します。

「新しくつくる銀行は、人々の信頼に答えるものでなくてはならない。そのためには、まずルールをつくり、それを明確に人々に示すことが必要である。」

この考えのもとで作成されたのが、銀行設立にあたってのルールを記した「国立銀行条例」でした。

※国立銀行条例とは、1872年(明治5年)、殖産興業政策の促進や不換紙幣の整理などを目的に公布。

28条からなり、銀行設立の資本金の6割を政府紙幣で納付、4割を正貨で政府に払い込み、銀行は兌換銀行券(だかんぎんこうけん)を発行するもの。

条例により、第一国立銀行など4行が設立。

国立とは、国の法律にのっとってつくられたという意味で、国有銀行という意味ではありません。

渋沢栄一が目指したのは、国が保証した制度の下で、民間の活力を生かした銀行をつくることでした。

1872年(明治5年)11月15日、条例公布と同時に、栄一は銀行とはいかなるものかをわかりやすく説明する広告を作りました。

この渋沢栄一の呼びかけに応えて集まった株主は71人、その名簿には、三井や小野組のような大商人から、1株だけの市民まで、様々な人々が名を連ねています。

第一国立銀行開業

銀行の設立を目前にして、栄一は政府の役人を辞職します。

これは予算の使い方などをめぐって、政府の高官と対立したことがおもな理由とされています。

3年半の役人生活の間に、栄一は人々の生活を豊かにするという目標を達成するには、役人でいるよりも民間人でいた方がよいということを痛感していたと書いています。

その時に言った言葉が「社会の進歩を指導する原力は政治にあらずして、実業なり。ゆえに実業の消長はこっかの盛衰に関すること最も大なり。」

役人を辞めて2か月後の1873年(明治6年)7月20日、東京・日本橋に最初の銀行「第一国立銀行」が開業しました。

※第一国立銀行とは、1873年(明治6年)、国立銀行条例による最初の国立銀行四行の1つとして、東京日本橋に設立された銀行。

三井・小野組の共同出資で創立。のちに国立銀行満期に伴い、第一銀行に改名。初期洋風建築として注目を浴びた建物は、二代目清水喜助の建築。

建物は5階建てで、下層部が西洋式で上層部が天守閣を模した和式でした。古い日本の社会に新しい西洋の文明が流れ込んできた、当時の世相を鮮明に映し出しています。

いわゆる時代の象徴的な建物となった第一国立銀行ですが、多くの人が物珍しさで足を運びますが、お金を預けたり借りたりしようとはしなかったといいます。

できたばかりの銀行が、果たして存続できるのか、また、銀行自体の意味が少なからずも理解できていなかったと思います。

そういう危惧は、やがて現実のものとなります。第一国立銀行が巨額の融資を行っていた小野組が、突然破綻するという噂が駆け巡りました。

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受難の連続、銀行存続の危機が続く

渋沢栄一がつくった第一国立銀行は、設立早々には破綻の危機にさらされたのか。それは大口融資先の小野組が、破綻する事態に陥ったためでした。

なぜ、小野組が破綻したのか。

その理由は明治新政府による突然の方針転換によるものでした。

明治7年11月、財政危機に陥った政府は、それまでの基準を変更し、小野組に預けていた公金500万円(現在の金額でいえば500億円)を急きょ返還するように命じたのです。

500万円を取り上げられたら小野組は確実に破綻します。そして、第一国立銀行が小野組に融資しているお金も回収不能となり、銀行も破綻してしまいます。

「連鎖倒産を避けるためにも、小野組から資金を回収しなければならない。小野組の資産だけではなく個人的な資産も差し出してもらわざるを得ない。

しかし、今回の破綻は政府の責任で小野組に罪はない。一体どうすればいいのか。」

栄一は悩んだ末に小野組の経営責任者「古河市兵衛」と直談判するしかないと決意し話し合いに臨みました。

そこで古河から差し出されたものは、小野組の資産に加え、古河の個人資産も差し出すというものでした。

古河は後にこう記しています。

「生まれたばかりの銀行をつぶし、日本の将来を台無しにしてはならない。そのためには自分が無一文になってもよい。」

その気持ちを知った栄一は男泣きに泣いたといいます。そして危機を乗り切った栄一は、個人の資産までなげうった古河の気持ちを無にしてはならない、と思い、決意を新たにして経営に取り組みます。

銀行条例の思わぬ罠

一難去ってまた一難、開業から2年後の明治8年、またもや第一国立銀行は存続の危機にさらされます。

銀行の金庫から毎日金貨が流出し、金庫が空になろうとしていました。なぜ、そんなことが起きたのか。

その原因は、栄一がつくった「銀行条例」にありました。

銀行が発行する紙幣は、いつでも同じ価値の金と交換するということを約束する一項があったからです。

先にも記したように、江戸時代末期から明治の初めにかけて、日本経済は混乱していました。市中には様々な機関が場当たり的に発行した信用のほとんどない紙幣が出回っていました。

これではインフレがひどくなるばかりで、健全な経済発展は望めないと考えた栄一は、西洋の先進国が行っていたように、銀行が発行する紙幣を金と交換することによって信用を高め、貨幣価値を安定させようと考えていました。

ところが紙幣と金を交換するという一項には思わぬ罠が潜んでいたわけです。

人々は紙幣を使おうとせずに、次々に金貨に変えてしまっていたのです。しかも為替市場が未整備だった当時、外国よりも安く金を買うことができたので、外国商人が自国の通貨を円に換えて、海外よりも安い値段で金と交換することを連日のように繰り返していました。

金の蓄えはたちまち底を尽き、新たな紙幣発行を取りやめざるを得なくなってしまいました。

開業からわずか2年、栄一がつくった日本で初めての銀行は、こんどこそ存続の危機に立たされます。

銀行条例改正、1年前のことでした。

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渋沢栄一の信念、そして逆転の秘策

開業から2年を迎えた第一国立銀行は、開店休業状態に追い込まれていました。栄一は悩みぬき、銀行条例を改正し金と紙幣の交換をやめる決断をします。

しかし、これだけでは自らつくった銀行条例を不定することになる。紙幣は信用を失い、インフレは激化する、と考えたその時、日本経済の礎を築くための秘策を思いつきました。

この時代政府は、かっての武士たちである士族に、毎年「秩禄(ちつろく)」という一種の年金みたいなものを支払っていました。

それは国家財産の30%にもなっており、財政破綻の一因ともなっていました。また政府は、その秩禄を廃止し、代わりに数年分の債権を発行、その利息を支払うことにするという政策が、始まろうとしていました。

栄一はその再建に目をつけました。

債権をもとに銀行を設立できるように銀行条例を改正すれば、士族たちの持つ債権の運用先ができるとともに、各地に銀行ができて、日本経済が活性化する。

そう考えた栄一は意を決して条例の改正を政府に持ちかけました。しかし、政府の高官たちは難色を示します。

しかし栄一は怯むことはなく、粘り強く交渉をし、最後には大蔵卿である大隈重信を説得し、承認を取り付けました。

そして明治9年(1876)8月1日、国立銀行条例はついに改正されました。

その直後から栄一の目論見どおり、空前の銀行設立ブームが起きます。士族たちは各地域で仲間を募って債権を集め、それを資金として銀行の設立に乗り出しました。

渋沢栄一がつくった第一国立銀行につづけとばかりに、各地の銀行は設立順に番号を屋号としました。

現在残っているのは6行だけですが、明治から変わらず引き継いでいるのは、第四、十六、十八、七十七、百五、百十四の6つですね。

また、八十二銀行は、第十九銀行と六十三銀行が合併してできました。「19+63=82」というわけです。

明治9年の条例改正前までは、東京・横浜・新潟・大阪の4行しかなかった銀行が、改正後3年の間に153を数えるまでに増加しています。

新しく銀行に勤めることになった人のために、幾度となく開かれた講習会の席上で、渋沢栄一が、これだけは忘れないでほしいとして、常に述べていた言葉があります。

「銀行は産業を興すのを助けなければなりません。それが銀行の本分なのです。」

幾たびか襲ってきた銀行存続の危機、そのたびに渋沢栄一は秘策を考え崩壊の危機を乗り切ってきました。

この時できた各地の銀行が、地方に鉄道を行きわたらせ、多くの地場産業の原動力となり、日本経済の礎となったのです。

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まとめ、渋沢栄一が築いた日本経済の礎

NHK大河ドラマ「青天を衝け」は、始まったばかりですが、NHKが一番描きたいのは、渋沢栄一が大人になり、銀行設立までの経緯と、設立後の苦悩、そして境地の屯底から生まれた逆転の発想、ではないかと推測します。

昔、NHKの「その時歴史が動いた」という番組がありましたよね。渋沢栄一の特集があり、私も見た記憶がありますが、番組のほとんどはこの銀行に関するものだったと思います。

大河ドラマが描く「渋沢栄一」の姿はどういう風になるか楽しみですが、正直、あまり大げさに描かないでいただきたいと願ております。

NHKだけではなく、歴史上の人物をドラマ化すると、どうしても色付けを施したがるみたいなので、できるだけ史実に基づき、時代考証も確かなものにしてつくっていただきたいと願います。

さて、日本で最初に銀行を設立した「渋沢栄一」、その後は海運・製紙・保険・製鉄など、ありとあらゆる事業を興し、実に500社もの企業経営にもかかわり、大正5年(1916)に76歳で引退しました。

そういえばこの前ニュースで見ましたが、埼玉県深谷市の生家には、観光客が大勢押し寄せているとのことですが、そこに渋沢栄一の晩年の姿のアンドロイドがあり、人気が爆発しているみたいですね。私もできたらみたいと思っています。

今日は最後までお読みいただきありがとうございました。またご機会があればお寄りいただければ幸いです。

※※旅好きブログです。私が旅をした記事や観光関連の記事を載せています。見てくださいね!

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