宗像大社と宗像三女神、神道祭祀の誕生

日本の歴史

神々への祭りと、その舞台となる神社の起源は、いつごろまでさかのぼるか、その答えは確定的な説はありません。

宗教のように確定した教祖、教典が存在しない神道は、教団としての組織化が弱く、宗教としての認識も少ないのが現状です。

毎年大勢の方が神社へ初詣に行くと思いますが、「あなたの宗教は」と問いかけても「神道」と答える方はほとんどいません。

長い間、神社に信仰を寄せてきた日本人は、神域の社殿とともに、樹木に包まれたその自然の景観も含めて信仰の対象としてきました。

だからこそ日本の人々は、宗教理念というよりも日本人の精神文化の基礎といっても過言ではない位置に神社を位置付けているのではと考えます。

実際に八幡さま、お伊勢さん、天神さま、お稲荷さん、いろいろな呼び方がありますよね。

地域に根付き、親しまれてきた全国に鎮座する神々は、生業と生活に深く関係して、多様な信仰が展開されています。

神社と神道は不離一体の関係にあり、神道の歴史は神社の歴史でもあるんですね。

「古代祭場」という言葉を聞いたことがあると思います。

日本の神社は8万以上あるといれていますが、その中でも古代祭場がある神社は数少ないですよね。

神社の原型は山であり、石であり、水であり、そして降臨の地とされている一定の敷地でした。

古代の律令期以降から次第に神の形を表すものとして社殿が建てられ、現在の形となっています。

今回は数少ない古代祭場を持つ、世界遺産でもある宗像大社と、信仰の対象となっている宗像三女を記していきます。

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宗像大社の宗像三女神

『古事記』上巻、建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)は、母伊邪那美命(いざなみのみこと)の死を悲しむあまり、父伊邪那岐命(いざなみのみこと)から追放され、姉の天照大神(あまてらすおおみかみ)に会うために高天原に昇る。

これは日本神話の中でも最も有名な一説、「天石屋戸(あめのいわやと)」の序章部分ですね。

高天原に昇った須佐之男命は、邪心なきことを明らかにするために天照大神との間で「天の安川の誓約(あめのやすかわのうけい)」を行います。

天照大神は須佐之男命から剣をもらい、それを噛んで狭霧を吹きます。その霧から誕生した神が宗像三女神です。

三女神の名前は、

多紀理毘売命(たきりひめのみこと)、またの名を奥津島比売命(おきつしまひめのみこと)
市寸島比売命(いつきしまひめのみこと)、またの名を狭依毘売命(さよりびめのみこと)
田岐都比売命(たぎつひめのみこと)

多紀理毘売命は奥津宮(沖ノ島)に、市寸島比売命は中津宮(大島)に、田岐都比売命は辺津宮(宗像市田島)に、胸形(むなかた)の君(きみ)が祭るとする、とあります。

『日本書紀』神代巻本書では、三女神の名前は、田心姫(たごりひめ)、湍津姫(たぎつひめ)、市杵島姫(いつきしまひめ)、の順で記載されており、田心姫は一書では「田霧姫」と表記されています。

多紀理毘売命(田心姫・田霧姫)は霧を、田岐都比売命(湍津姫)は水の流れの速さを神格化しており、市寸島比売命(市杵島姫)は神を斎(いつ)き祭る女性を神格化しているといわれています。

『古事記』・『日本書紀』が編纂された8世紀、この三女神は、皇祖神である天照大神と弟の須佐之男命との誓約(うけい)の中で誕生し、当時の郡領胸形の君が祭る神々とされていたのです。

また、『日本書紀』神代巻本書には、「汝三の神(いましみはしらのかみ)、道の中に降り居して、天孫を助け奉り、天孫の為に祭られよ」とあり、さらに一書には「今、海の北の道の中に居す。道主貴(みちぬしのむち)と日(もう)す。」と記され、この三女神は航海の守護神としても信仰されていたことが示されています。

(一書とは、日本書紀の文章の中によく出てくる言葉で、現代の意味では別紙参照という意味です。多分、日本書紀を編纂する時に参考にした書物があったと推測できます。古事記もしくは風土記等)

そして、多紀理毘売命が祭られている沖ノ島こそ、4世紀以来、現代まで続いた宗像沖ノ島祭祀遺跡が所在する場所ということです。

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沖ノ島と祭祀遺跡

宗像大社奥津宮が鎮座する沖ノ島は、九州本土の宗像大社辺津宮から北北西約60kmの海上、玄界灘に浮かぶ絶海の狐島です。

島の大きさは、周囲約4km、東西に約1km、南北に約500mで、島の中央には標高243.1mの一ノ岳を最高峰として、4つの峰が東西に連なっています。

沖ノ島は周囲を絶壁に囲まれ、船が付けれる場所は南西の一角に限られています。そこから急斜面の細い参道をたどっていき、標高85mほど登ると平坦な部分に到着します。

ここに古来より信仰の対象とされている巨大な磐座群(いわくらぐん)と祭祀遺跡が残されています。

磐座は14個の巨石で構成され、南北約125m、東西約81mの範囲に分布していますが、磐座には高さ10mにも達する巨石が含まれていて、磐座群の南端の巨石は、現在の奥津宮社殿を挟むようにそびえたっています。

この磐座の上と周辺には23ヶ所の祭祀遺跡が確認されていて、時代によって少しずつ場所をかえていた形跡もあるということですね。

昭和29年から昭和46年までに3回の発掘調査が行われていますが、磐座周辺から膨大な遺物が出土し、平成18年、約8万点の出土遺物き「沖ノ島神宝」として国宝に一括指定されています。

沖ノ島の祭祀遺跡は、発掘調査の結果、4世紀後半ごろに成立し、10世紀初頭まで祭祀が継続して行われていたことが確認されており、祭祀の形態は次の通りです。

① 岩上祭祀 ② 岩陰祭祀 ③ 半岩陰半露天祭祀 ④ 露天祭祀

このように4段階で変わっていったことが判明しています。

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祭祀遺跡の成立、岩上祭祀

沖ノ島、磐座遺跡群図

沖ノ島、磐座遺跡群図

上記の写真は沖ノ島磐座遺跡群の配置図です。

沖ノ島祭祀遺跡の最も古い段階の祭祀は、図面左下の、磐座群内で最も標高が高いI号巨石周辺の岩上で行われており、16号、17号、18号、19号の各遺跡がこれに該当します。

中でも17号遺跡からは、大量の遺物が出土したといいます。

画像中央上あたりですが、倣製鏡(ぼうせいきょう)、中国鏡を模倣して日本列島内でつくられた鏡ですが、大型鏡を含む銅鏡21面を含む勾玉や鉄製刀剣、棗玉類(なつめだま)、碧玉製車輪石等多数の遺物が出土しています。

16号遺跡からは、径20.5cm、倣製の三角縁三神三獣鏡、径3cmの素文雛型鏡(そもんひながたきょう)など、石釧(いしくしろ)、銅、鉄釧、棗玉、菅玉、鉄製の刀、剣、矛、鏃(やじり)、が主度しています。

また、18号遺跡からは舶載鏡(はくさいきょう)という、中国製の輸入鏡ですが、こういったものも出土しています。

岩上祭祀の特徴は、遺物からもわかるように当時としては貴重な品々であった銅鏡や鉄製の武器、工具類、宝器として扱われた車輪石などの実物が、神への奉献品、祭器として大量に使われている点にあるといわれています。

出土した遺物の内容は、古墳時代前期、4世紀後半の大和周辺の古墳副葬品と共通し、おそらく大和政権によって、4世紀後半に沖ノ島祭祀が開始されたものと考えられています。

多分、その背景には、この時期に始まったとされる朝鮮半島との交渉があったのではないのでしょうか、そのように考えるのが妥当だと思いますね。

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岩陰祭祀、華麗な奉献品

5世紀後半から6世紀代には、祭祀は巨石上を離れ、岩陰へと移動するとともに、磐座群のほぼ全域に祭祀の場が広がっていたことがわかっています。

4号、6号から13号、15号、22号、23号の12遺跡が該当します。

いずれも岩陰に祭具が奉献された形で出土し、岩陰が斜面となっている6号と22号遺跡では石組と土砂で祭壇を築き、巨石自体を祭祀の対象としています。

祭具には岩上祭祀から引き継いだ銅鏡類、滑石製の剣形、子持勾玉、鉄製の刀雛形などのほか、7号遺跡から金銅製の馬具、武器では甲冑、鏃(やじり)、胡籙金具(ころくかなぐ)、刀剣、盾の金具、装身具では、金製指輪、8号遺跡からはペルシャ産カットグラスなどが出土しています。

また、7号遺跡から出土した鉄剣と刀は、水晶と石英製の三輪玉(みわだま)を伴っており、玉纏太刀(たままきのたち)のような装飾が施された刀剣であったといわれています。

この岩陰祭祀からは、朝鮮半島との関係が大きく推定できる豪華な馬具類、金製の指輪や金銅製・銀製の釧などの装身具、そして武器武具には飾り太刀や剣、何といってもペルシャ製のカットグラス、やはりシルクロードを意識してしまうのではと考えます。

新しい神観の形、半岩陰・半露天祭祀

7世紀には、祭祀は岩陰からしだいに離れ、半岩陰・半露天の形へと変化していきます。

この段階の祭祀の特徴を表しているのは5号遺跡から出土したものだとされています。

最も目を引くのは金銅製の雛形類で、五絃琴、紡織具類、横櫛、人形、鐸、壺や杯などの容器類、儀鏡と思われる円盤類があり、中でも紡織類は7世紀ごろの沖ノ島祭祀を特徴つけるものであり、麻の繊維を裂くたたり(繊維を裂く道具の意味)、繊維を紡ぐ紡錘(つむ)、糸を巻き付けるかせい、糸を入れるおけ、機織り具の一部である刀杼(とうじょ)とちきりが出土しています。

この他5号遺跡からは中国製の金銅製竜頭、唐三彩の壺が出土しており、7世紀に成立した唐王朝など、中国大陸との交流をうかがわせています。

また、む5号遺跡では、それ以前の祭祀にはなかった、須恵器大壺と器台のセット、須恵器の高杯や長頭瓶がまとまって出土しています。

これの器に食物や酒を盛り、神へと捧げたと考えられており、須恵器を多く使用する8世紀以降の祭祀と類似あり方が認められたといいます。

半岩陰・半露天祭祀時代、7世紀には、岩陰祭祀で捧げられていた華麗な馬具、鏃(やじり)、胡籙金具(ころくかなぐ)に加えて、琴と紡織具が明確に確認でき、これらの品々は伊勢神宮の神宝類と共通しているといわれています。

このことは沖ノ島の神に対し、神宮に祭られる天照大神と同じ機織りをする女神としての神格が、6世紀から7世紀にかけて次第に定着していったことを表しているでしょう。

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露天祭祀、律令時代の変化

8世紀、奈良時代に入ると祭祀の場は磐座群から離れて露天祭祀の形へと変化し、沖ノ島祭祀遺跡の最終段階を迎えます。

この遺跡を代表するのは画像左下あたりになりますが、A号巨石の南西約50mの地点に残された1号遺跡で、小さな谷を隔てて巨大な磐座群を見渡すかのように存在しています。

祭祀跡は東へと緩やかに傾斜する斜面にあり、東西9m、南北10mの範囲から、土器と滑石製形代が折り重るように多量に出土したといいます。

遺跡の南東側には大小の岩が並べられ、祭場を区画したものと考えられています。

宗像大社辺津宮の古代祭場も、本殿から登ること約5分、高台に鎮座しており、この沖ノ島露天祭祀遺跡の様子と似ているのではないかと思います。

発掘調査を見ていると、祭祀用雛形などの金属製品283点、滑石製模造品や玉類が1356点、土器・陶器類が841点という膨大な数の遺物が出土しています。

半岩陰・半露天祭祀以来の伝統を持つ紡織用具や金銅製雛形、銅製鐸状品、鉄製の雛形刀子、鉄鎌の他、新たに唐式の八角鏡、鏡の雛形と思われる銅製と鉄製の円板、銅製舟形、金銅鈴、皇朝銭(富寿神宝)が加わっています。

滑石製模造品には、扁平に退化した勾玉と子持勾玉、臼玉、有孔円板、無孔円板がある他、人形や馬形、舟形が新たに加わり、模造品の中心となっています。

そして露天祭祀の大きな特徴は、多量に出土した土器、陶器類だといいます。

その多くは須恵器で、杯、鉢、高杯、蓋(ふた)、椀(わん)、といった供膳品を中心に、小壺、甕(かめ)と器台、粘土の塊を手でひねって作った祭事用土器などが出土しています。

陶器では奈良三彩の古小壺が11点出土しています。明らかに畿内から持ち込まれたもので、1号遺跡が畿内と密接に関わっていた国家の祭祀であったことを表しているといわれています。

この1号遺跡は、出土した土器の形や皇朝銭の存在により、8世紀から9世紀にかけて営まれてきたことが判明しています。

その時代は、まさに『延喜式』が編纂される直前の時代であり、そこから見える祭祀の様子は『延喜式』に「名神大社」と記された神への律令国家祭祀の姿を具体化していたのかもしれません。

1号遺跡は、10世紀初頭に終息しますが、その背景には遣唐使の廃止という対外的な変化があったと考えられていて、その後の大規模な祭祀は確認されていないということです。

これは、古墳時代前期の4世紀以来、大和王権が行ってきた、朝鮮半島や中国大陸との海外交渉の終焉であり、それとみっせつに関係した宗像大社沖津宮の古代祭祀の終焉であったのかもしれません。

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宗像大社と宗像三女神、神道祭祀の誕生のまとめ

宗像大社辺津宮、古代祭場「高宮」

宗像大社辺津宮、古代祭場「高宮」

神道というのは他の宗教とは違い、まさに自然を神を融合させた目に見えない道祖体のようだと感じます。

その神道の原点といえるものが、神々が降臨し、そのご神体となる自然が宿ったものであり、それを形にして奉納した場所が古代祭場でしょう。

まさに宗像大社沖津宮や、奈良にある三輪山麓の大神神社の古代祭祀遺跡などはそれに該当する場所だと感じます。

宗像大社沖津宮は世界遺産に登録されてから以降、一般の人は渡航できなくなり、これから先もこの古代祭場は、多分見ることができないでしょう。

第三宮(沖津宮)

第三宮(沖津宮)

現在は宗像市の辺津宮敷地内に第二宮(中津宮)、第三宮(沖津宮)があり、お参りすることができます。

また古代祭場「高宮」も見ていただきたい祭祀場です。出土した遺物は敷地内にある「神宝館(展示資料館)」にて一部見ることができます。

宮地嶽神社の光の道もいいのですが、宗像大社も見どころが満載です。是非お寄りくださればと思います。

さて、約1000年以上の間、沖ノ島は静かな眠りにつき、その間も宗像大社辺津宮から派遣される神官によって、おぼそかな祭祀は続けられ、現代に守り続けられています。

まさに「神宿る島」、宗像大社沖津宮、数少ない神道の原点となる古代祭場、いつまでも守り続けていかなくてはなりません。

今日は最後までお読みいただきありがとうございました。またご機会があればお寄りいただければ幸いです。

※※旅好きブログです。私が旅をした記事や観光関連の記事を載せています。見てくださいね!

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