シーボルト事件とは、国外に持ち出そうとした品物

日本の歴史

江戸時代後期の文政年間の事件としてあまりにも有名ですが、オランダ商館付の医師として来日した「フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト」少し長い名前ですが、いわゆる当時の幕府政策の中で、国禁とされていた日本地図等を国外に持ち出そうとして発覚した事件のことを言います。

近世の歴史の中で、資料等がそれなりにと載っているにも関わらず、このシーボルト事件に関しては、意外に真相がはっきりしていない部分が多いとされています。

実際にシーボルトが国外に持ち出そうとした品物は1000点以上にも及び、発覚した当時の事件としては多くの幕府関係者が関わっていたこともあり、大騒ぎとなりましたが、事件の真相すべてが明らかにはされず、闇に葬られた部分もあるといわれています。

近年、シーボルトが持ち出そうとして果たせなかったという地図が、シーボルトの子孫であるドイツのフォン・ブランデンシュタイン・ツェッペリン家で発見されました。

実際に写してしっかりと持ち出していたんですね。

その地図は「カナ書き伊能特別小図」というもので、国立国会図書館に秘蔵されているものと同じであるということがわかり、話題を呼びました。

今回はこのシーボルト事件取り上げて書いてみますが、資料的には数多くの文献が存在しており、ネットでも一部は見ることができます。

その中で、総合的にわかりやすくまとめて、シーボルト事件とはどういうものだったのかを記していきます。

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シーボルトとは

シーボルトは、1796年2月17日にドイツのヴュルツブルクという町で、医学者の家に生まれています。

幼いころからよく勉強し成績も優秀であったみたいですが、好奇心も大せいで国内のみならず海外にも目を向けて色々なことを調べていたといわれています。

その後、ヴュルツブルク大学医学部に入学し、医学や動物学・植物学・民族学などを学んだとされています。

医学だけではなく、自然界のことや民族についても勉強し興味をもったということは、このころからすでに世界に向けて夢を抱いていたのかもしれません。

実際にシーボルトは、江戸参府時に街道筋にある各温泉に立ち寄り、温泉の成分や効能を調べていたという事実があり、長崎街道の「嬉野温泉」などはその中でも極めて有名ですよね。

さて、シーボルトは大学を卒業したあと、近くの町で医者として働いていましたが、見知らぬ国の自然を勉強したくて、そのころ世界中で貿易をしていたオランダの陸軍軍医となっています。
シーボルトは、オランダの命令で日本へ行くことになり、それもただの医者としてだけではなく日本との貿易のために日本のことについて調べるようにも命じられていたということです。

ただ、これはスパイ行為とよく言われていますが、実際にはそこまで強い要請ではなかったのではないかと推測されます。

多分シーボルトの好奇心がそうさせた部分もあり、日本という国を知りたくて資料集めに没頭したのではないでしょうか。

シーボルトは、1823年8月11日 (文政6年7月6日)に、長崎へ到着しています。日本に上陸した当時の年齢は27歳です。
そのころ日本に来た外国人は、原則出島から出られませんでしたが、シーボルトはすぐれた医者ということで、長崎の町に出て病人を診察することを特別に許されています。

そして長崎に来た翌年に、長崎の鳴滝(なるたき)という場所で家を構え、「鳴滝塾」を開き日本各地から集まってきた医者たちに医学などを教えています。

ここで教えを請うた人たちは、後の日本医学に大きな功績を与えており、後進国であった日本に大きな功績をもたらしています。

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シーボルト事件とは

いわゆるシーボルト事件で、いちばん問題になったのは伊能忠敬の「大日本沿岸輿地全図」のほか、「蝦夷図」などの地図類でした。

幕府天文方兼書物奉行の「高橋景保(たかはしかげやす)」は文政9年(1826)、江戸参府のシーボルトと会見をした際、クルーゼルシュテルンの「世界周航記」を譲り受けたとされています。

この当時高橋は、地理学上の最大の課題であったカラフト東海岸の正確な状況を知ることにあったとされます。

この問題については、間宮林蔵が文化5年(1808)にいわゆる間宮海峡の存在を確認していますが、クルーゼルシュテルンは、その3年前に海峡の奥深くまで航海しているということがわかっています。

高橋は「世界周航記」を読めば課題は達成されるとわかっていたので、彼が禁制とわかっている地図類と交換してまでこれを手に入れたかったと思うことは、学問のへの情熱ゆえのことだったのかもしれません。

この交換取引に一度は拒否したされているシーボルトでしたが、高橋の熱意に打たれ、貴重品の交換に至ったとされています。

実際にシーボルトも日本の総合的な研究に一生を捧げようと考えていたみたいで、高橋が提供する地図は日本を知る上での最高の資料となったわけですね。

それから3年目の文政11年、この「シーボルト事件」が発覚します。

まず江戸で高橋に嫌疑がかかり、内偵が進みます。そして8月、長崎に停泊中のオランダ船が台風で破損し、修理を余儀なくされました。

この船はオランダ領ジャワ島へ出航予定でしたが、この中にシーボルトが帰国する荷物も積みこまれていました。

オランダ船は修理の際、入港船の扱いを受け、積み荷を検査され、シーボルトの荷物から多くの禁制品発見されました。

江戸における高橋景保の嫌疑は決定的となり、10月10日に逮捕され、翌年に高橋は獄死しています。

殺されたのか、もしくは病死なのか、それとも自殺なのか、詳細ははっきりとはしていません。

11月には幕吏(ばくし)が長崎に出張し、シーボルトに対して尋問が始まりました。

幕府役人の関心は地図を没収することにありましたが、事件が発覚してから地図没収まで数日の余裕があったので、シーボルトはこの間に持ち出そうとした地図を複写したものと思います。

また、実際にはカラフト図」や「蝦夷小図」などは、役人の厳しい追及から逃れたのではないかと考えられています。

奥医師(眼科)の「土生玄碩(はぶげんせき)」は瞳を開く薬をもらった礼として、将軍家より拝領の葵の紋のついた小袖をシーボルトに贈りました。

(奥医師とは、江戸幕府の直属の医師のことです。若年寄配下に属しており、おもに将軍とその家族の診療に携わる医師を表します。)

たかが衣類1枚ではありましたが、やはり葵の御紋がついた衣類、幕府方の役人は地図よりもよほど貴重なものと考えた役にもいて、玄碩は奥医師の座を取り上げられてしまい、幽閉の重い処分も課されました。

定かではありませんが、ある記録書には、玄碩は葵の紋の小袖をシーボルトに贈るとき、すでに死を覚悟していたと書かれていたとのことです。

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シーボルトの荷物から幕吏が長崎で没収した品物

これもすべてが書かれているわけではありません。実際に見つけきれずに海外に持ち出されたものを数多く存在します。

実際に幕吏がとこまで調べたのかが問題ですが、その繊細な部分の資料が残っていないのが現状です。

逆に見て見ぬふりをして見逃したのかもしれません。いろいろと憶測は存在しますが、今回はわかっているものだけを書いてゆきます。

地図のほかに幕吏が長崎でシーボルトから没収したものは次の通りです。

●江戸名所絵 ●装束図式 ●脇座 ●刀 ●丸鏡 ●古銭 ●桶狭間合戦略記 ●桶狭間古跡記●無間之鐘由来記 ●厨子入りの仏像 ●花路一覧之図 ●道中独案内図 ●錺馬の雛(かざりうまのひな) ●ひな人形 ●和州芳野山景勝図 ●公家の絵 ●具足人形 ●錺道具刀(かざりどうぐかたな) ●薙刀(なぎなた) ●楊弓と矢 ●天狗面 ●錦絵

実際には1000点以上と言われているので、これだけではないと思います。国禁ではないものもかなり含まれているので、ある意味幕吏は目を瞑ったのかもしれませんね。

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シーボルト事件はどうして発覚したのか

最近になり、シーボルト事件を取り上げたNHKの番組があり、私もそれを見ましたが、正直あまり正確とは言えませんでした。

特に間宮林蔵が密告したという説が一般的に広まっていますが、これを密告というのには厳しすぎると感じています。

文政11年3月、江戸の高橋景保宛てにシーボルトから1つの包みが届いています。この包みを取り次いだのは、オランダ大通詞の吉雄権之助でした。

包みの中には高橋宛ての書簡とプラネタリウム・マレー語辞書、そして間宮林蔵宛の木綿一反と書簡が入っていました。

書簡はオランダ語で書かれていて、内容は間宮の北海探検に敬意を表したものであったとされています。

高橋が間宮宛の木綿と書簡を届けてやったところ、間宮はこれを役人に届けてしまったのです。

この当時は外国人との私的な交流は禁じられているのですから、それを自ら自白したのと同じだということです。

しかし、高橋もわかっていたはずなのに、あえてシーボルトから届いた包みのことを隠さないばかりか、同封の間宮宛ての書簡と木綿を届けています。

人間の器量の相違ということをつくづくと感じさせられる行動ですが、このことがいずれ罰を受けるという恐ろしさは2人とも同じであったはずです。

それを越えて、間宮はシーボルトに勇敢な探検家として称されたことを高橋とともに喜び、かつ秘密にしておくことができなかったのでしょう。

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シーボルト事件とは、まとめ

シーボルトはその後幕吏からの長い取り調べを受け、しばらくの間長崎の自宅で軟禁状態で過ごし、国外追放処分となり、オランダへと帰っていきます。

オランダに帰国したシーボルトは日本についての本格的な資料研究書である日本(ニッポン)や、日本の植物・動物を紹介する日本植物誌(にほんしょくぶつし)』『日本動物誌(にほんどうぶつし)などを書いて出版しています。

その植物の中には、日本で結ばれた楠本たきの名前が付けられています。シーボルトはたきを「オタクサ」と呼んでいたといいます。

シーボルトは、はじめてみる美しい花(アジサイ)に出会い、その花に愛する人の名をとり 「ヒドランゲア・オタクサ」と名づけ、『日本植物誌』に掲載しました。

また、日本の植物を栽培し、ヨーロッパに普及させました。

シーボルトとたきの間に生まれた子ども(イネ)、日本で最初の女性医師(産科医)であることもあまりにも有名ですね。

さて、このシーボルトの行動がスパイ行為なのかは実際にはわかっていません。シーボルトは日本という国を愛していたことは確かです。

また、ヨーロッパ諸国とは違う異文化の国に大いに夢を抱いたことも間違いありません。

その証拠にシーボルトが日本を追放されて30年後、国外追放がとかれ、1859年(安政6)、ふたたび日本に行くことを自ら望み、来日しています。

長崎に到着したシーボルトは、なつかしい鳴滝に住み、昔の門人たちや娘・いねたちと交流しながら日本研究を続けました。

また、幕府にまねかれて、江戸でヨーロッパの学問を教えています。

3年後に日本を去り、1866年10月18日、ドイツのミュンヘンで70歳で亡くなりました。

今日は最後までお読みいただきありがとうございました。またご機会があればお寄りいただければ幸いです。

※※旅好きブログです。私が旅をした記事や観光関連の記事を載せています。見てくださいね!

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