鎖国とは、わかりやすく説明、徳川幕府の対外政策

日本の歴史

日本の歴史の中で、幕末維新期というのは、戦国時代とともに人気が高い時代ではないかと思います。

私も幕末維新に関してはとても興味があり、考古学とともに長年の間趣味として、各資料を拝見させていただいていました。

その中で感じたことは特定の団体や人物に注目が注がれていて、グローバルな観点が欠落しているような気がしてなりません。

例えば幕末に至っては、新選組や海援隊、坂本龍馬や土方歳三、そして西郷隆盛や吉田松陰などが挙げられます。

もちろん幕末に活躍し維新の引き金となった人物ばかりで、あまりにも有名ですが、幕末史の描かれ方は何かにつけて国内での対立構造を際立たせた叙述が大半を占めています。

例えば、薩摩藩と長州藩、幕府と薩長とか、また官軍と会津藩といった具合です。

確かにどの幕末書においても、ペリー来航を幕末の起点として大きく取り上げ、通商条約が不平等であったことを強調しています。

また、その後の日本が海外からの植民地化の危機に扮していたことはあまり取り上げられていませんでした。

さらには、幕末の日本に大きな影響を与えた、イギリスやフランスといった海外の動向は、薩長両藩との武力衝突である薩英戦争や下関戦争(馬関戦争)といった、わずかなレベルの記述に過ぎないのです。

今回は幕末史を、世界史の中でグローバル的な観点から見ていき、海外との対立、交渉史をメインにおいて「鎖国政策とは」というタイトルで、できるだけわかりやすく、そして詳しく説明していきます。

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徳川政権のグローバル観点

 

これまでの歴史書は、日本が開国をもたらした存在としてペリー来航を高く評価し、そこから幕末史の記述をスタートすることが多かったと思います。

実際に学校で教えている日本史も試験に出てくる幕末史の答えもすべてここからスタートしているといっても過言ではないでしょう。

しかし、日本人のそれまでの対外政策や世界観の理解なくして鎖国から開国への重要性やその意義はわからないと考えています。

徳川幕府が形成した世界観、また国際秩序がどのようなものであったか、またそれがどのように形成されていったのか、これが原点となります。

そして対外方針であった鎖国政策が、時代とともにどのように変化してペリー来航に至ったのかを詳しく説明していきます。

また、和親条約では函館・下田が開港されたとしていますが、実際には開港しておらず、通商条約の締結によって開港したこと、さらには、通商条約の段階では必ずしも不平等ではなく、その後の薩長両藩による対外戦争によって不平等にされたこと、これらの点にも注書していきたいと思います。

一般的な日本史の中では、大きな出来事しか表記しておらず、そこに至るまでの線の繋がりが無く、本当の意味での理解ができなかったことが多くあります。

「鎖国」という出来事は誰もが知っていることですが、なぜ鎖国したのか、またその当時の日本人のグローバル観点はどういうものだったのかを知ることが大変重要になってきます。

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幕末以前の日本人の世界観

幕末は欧米列強による通商条約の締結要求によって始まりました。

その幕末、日本人は世界をどのように見ていたのか、その問の答えとなるのは幕末に至るまでの日本人の世界観がどのようなものであったのかを知りることが大切です。

幕末の段階まで、日本人は我が国を世界の中でどのように位置づけ、そして世界とどのように付き合っていたかを知る必要があります。

日本は東アジアに位置するため、どうしても中国との関係を意識せざるを得ない状態でした。これは古代から現代に至るまで普遍的な事実だと思います。

中国は20世紀の初めまで、国土の広さや人口の多さ、さらには強大な武力で周辺諸国を圧倒してきました。

中国を世界の中で最も文化が卓越した中央の地とする考え方が、中国にも周辺諸国にも生まれたのは不思議なことではありません。

中国が一番優れているとする考え方であり、これが「華夷思想(かいしそう)」と呼ばれているものです。百科事典やネットでも検索すればすぐに出てくるので、詳しいことは書きません。

一方で中国は周辺諸国を「夷狄(いてき)」と呼んでいました。

「夷狄」とは中国にとって野蛮な民族を指しますが、もちろん日本も夷狄のひとつであり、朝鮮などとともに「東夷(とうい)」と呼ばれていました。

よく邪馬台国を知るときに「東夷伝」と聞くことがあると思いますが、まさにこの言葉です。

華夷思想に基づく国際秩序は「冊封(さくほう)」と呼ばれていました。

冊封とは、中国皇帝が東アジアの夷狄諸国の君主と君臣関係を結ぶことを意味します。中国は冊封した国々の宗主国として、東アジアに君臨しました。

また、中国皇帝に対して、冊封された夷狄の国王らが貢物を捧げ、皇帝側がその何十倍もの恩賜を与える仕組みを「朝貢」といいました。

中国は王朝が興亡を繰り返してきたため、その都度、冊封から逃れようとする夷狄諸国が現れました。

例えば、朝鮮やベトナムそして日本もそうでした。その際にこれらの国は、中国帝国にならって疑似的な小中華帝国の形成を目指しました。

古代から日本は中国の冊封政策下にあったため、少なくとも7世紀後半、天武・持統期後半あたりには華夷思想に基づく小中華帝国に変わっていったと思われます。

しかしながら、小中華帝国「日本」の成立条件としては、本物の中国帝国からの独立が必要となるわけですが、いわいる日本の天皇に対する朝貢国をもつことが必須条件でした。

その矛先は最も近い隣国である朝鮮へと向かったわけです。地理的にいっても当然だろうと思います。

こうして朝鮮への侵攻が続けられてきたわけですね。

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鎖国政策と華夷思想、どのように形成したか

ここからは幕末までに至る江戸氏時代前期に、日本の華夷思想はどのように形成されていったのか、対外政策である「鎖国」との関係を詳しく書いて行こうと思います。

徳川家康は当初、明(中国)との貿易を期待していましたが、日明関係は対等な関係と考えて、日本が7世紀後半に離脱した中国帝国が形成する伝統的な「冊封体制」に今さら復帰するつもりはありませんでした。

慶長15年(1610)、家康は明に対して自らを「日本国主」と名乗る書簡を送り、国交回復を求めたのです。

その書簡の中には、「日本を統一して9年が経過し、その影響は朝鮮・ベトナム・タイ・フィリピン・カンボジアやヨーロッパ諸国にも及んでいる」と明言し、しかも、これらの国は日本に朝貢しているかのように書かれていました。

これは、日本の明に対する対等性や自立を意識した書簡であったことは間違いありません。

しかし明も寛永21年(1644)に滅亡し、もともと夷狄であった「女真族」によって「清」が建国されました。

強国であった清国誕生により東アジア周辺は再編を余儀なくされましたが、その中で徳川将軍家は清に対抗する現実的な日本型華夷思想の創出を迫られたわけです。

徳川将軍家を中心とする日本独特の華夷思想を、または華夷国家というものを形成するにあたって問題となったのが天皇の存在でした。

征夷大将軍は天皇から授けられた職位であり、序列としては天皇の下位でしかありません。しかし軍事政権である徳川幕府は、武力を背景にして天皇を抑え、事実上、国家の頂点に君臨しています。

一方で、朝廷の存在を否定するわけではなく、権威の象徴として天皇を位置づけ、幕府の将軍家や譜代大名が朝廷の天皇や摂関家を抱え込み、そこに権力を集中させた統治機構を確立していました。

つまり、幕府だけに権力が集中したように見えるものの、幕府は朝廷と一体になって日本を支配しており、朝廷も幕府を支持して支配階級を構成していたわけです。

さらに、将軍家は対外的には、日本を代表する「大君」という称号を創作して臨みました。

「大君」の存在によって、天皇は外国から見えない存在に仕立てられたわけです。そのため将軍家は内外から事実上の日本の統治者とみなされたのです。

よって江戸時代の日本型華夷思想には天皇ではなく「大君」のための朝貢国が必要とされました。

当時、東アジアの対外政策の主流は海禁でした。

海禁とは、私的な海外渡航や海上貿易を禁止したもので、朝貢貿易のみ認めるというものです。

日本の場合は、明・清という中国帝国が形成する冊封体制外に日本を位置づけ、徳川幕府は海禁の一形態ともいえる「鎖国」政策を採用しました。

ここでいう「鎖国」とは、日本人の海外渡航・帰国を厳禁とし、外国船を追い払うことを骨格としており、キリスト教を徹底的に排除しました。

しかし、当時の日本人にとって、これらの行為は幕末に唱えていた「攘夷(じょうい)」とは違うものでした。

つまり、鎖国が完成する17世紀前半まで日本は世界と通商していたし、鎖国はこれを廃止した対外方針の変更に過ぎず、日本を神国として捉えて、外国人を忌み嫌い排除の対象とする攘夷という考え方には至っていませんでした。

「攘夷」というのは、単なる外国船の排除行為を指すのではなく、政治的な対外思想を伴うことを言います。

この「鎖国」という新しい対外政策は、外国船の排除を肯定しており、これがもとで次第に外国を夷狄と捉える排外思想が生まれていきます。

最終的には国学や水戸学を経て、鎖国は攘夷へと進化して、幕末日本に大きな影響を与えたということですね。

しかしながら江戸時代は太平の世、外国との接触も限られていたのでいつの間にか鎖国をしている実感が多くの日本人にはありませんでした。

その鎖国概念が呼び戻されたのが、老中松平定信の対外政策でした。

これは、北方からロシアの南下政策があり、寛政4年(1792)にラクスマンが正式なロシア使節として根室に来航したことが契機となります。

それに続く、文化元年(1804)のレザノフの長崎来航を踏まえ、幕府は改めて「鎖国」は祖法、つまり先祖代々引き継がれてきた日本古来の国是(こくぜ)(国の方針)であることを宣言したものになります。

いわゆる、これが大々的に示された日本独自の海禁政策「鎖国」を外交戦略として、国際的にも表明した瞬間となるわけです。

では、徳川幕府は江戸時代を通じて、一体どのような冊封と鎖国を両立させたのか。

鎖国していたからといって日本が世界から孤立できるわけがありません。

幕府は外に向かって4つの窓口を設けました。

(オランダ・中国は長崎会所、琉球は薩摩藩経由、朝鮮は対馬藩経由、アイヌは松前藩経由)

幕府は薩摩藩を介して琉球を事実上冊封体制下に置き、また、琉球に準ずるものとしてアイヌを位置づけ、朝鮮とは国家として対等にも関わらず、朝貢国として意識的に遇しました。

こうして徳川幕府は「日本型華夷思想」を独自に生み出しそして実行していき、メンツを保つことになります。

こうやって徳川幕府は、独自の対外的な政治政策「鎖国」という理論を展開し、幕末に至る約260年の歴史を刻むこととなったわけです。

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徳川幕府の「鎖国」とは、まとめ

実際の鎖国の制度上の完成は3代将軍「徳川家光」、寛永16年(1639)7月の南蛮(ポルトガル)船来航禁止令にさかのぼります。

この禁止令の内容は「これ以降はポルトガル船を厳禁し、それでも万が一再来航した際には、船は破壊し乗組員は全員処刑する」といったことが書かれています。

ところが将軍職が家光から家綱に引き継がれてから3年後、承応(じょうおう)3年(1654)5月に「南蛮船取計方之事(なんばんせんとりはからいかたのこと)」が布告されました。

基本は家光の遺訓を守るとしていますが、内容はかなり改変され緩やかなものになっています。

これによると、南蛮船が入港して、何を申し立ててきたとしても、追い返すことを要求しています。

しかし、攻撃されない場合は、こちらも攻撃しないこと、追跡は不要であることも沙汰されています。

問答無用に打ち払おうとした家光の鎖国令に見られた初期の鎖国政策からはかなり緩和されていることがわかります。

外国船に対して強硬な態度を取ったのは家光一代限りの15年間で、一時的なものだったことがわかります。

その後も同じで徳川幕府における「鎖国政策」は、攻撃されなければこちらからは手出しはしない。

また、日本人の海外渡航・帰国を禁止し、必ずしも武力は用いないものの、外国船は追い払うことでした。

鎖国が完成してから150年、日本は鎖国をしていることすら忘れてしまうほど、ほぼ平穏な時代が続きました。

つまり、世界史的に見て何らかの影響を受けたり与えたりしない、まさにそこから離絶したところに置かれていたのでしょう。

今日は最後までお読みいただきありがとうございました。またご機会があればお寄りいただければ幸いです。

※※旅好きブログです。私が旅をした記事や観光関連の記事を載せています。見てくださいね!

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