ウィルスとは、コロナ禍で考えさせられるこれからの生き方

生活記事

2021年1月、相変わらずコロナ禍にいます。収束という言葉が無になるほど毎日数字が更新されている。

このような世界的蔓延を去年の今頃には誰もが想像しなかっただろうし、世界最高と言われる「富岳」でも予想はできなかったのではないでしょうか。

約1年が経過した今、新型コロナウィルスが人間に対して投げかけた問いかけがなんであるのか、色々と考えてみましたが私としてはまったく答えが出てきませんでした。

このブログでも書いていますが、歴史上、今までに日本中を恐怖に陥れた細菌や自然の驚異、先代の人々は一体どうしてそれらを乗り越えてきたかを考えると、人間に宿る生命力の強さと、心理的に受ける自然界の恐怖から受ける人間の弱さが見えてきます。

あくまでも独り言として、そして何も不定しない見地から、この先のコロナ時代の生き方を考えてみたい、新しい年を迎えてそういう気持ちが込み上げてきました。

2020年の大晦日、東京では1300人越え、全国の感染者は4000人を超えてしまいました。無症状や軽症者が多いとはいえ、毎日100人近くの方がコロナで亡くなっています。

11月に発表したグーグルの予想を上回る勢いで増えている現状、2021年はどうなるのか、不安だけが残る新年を迎えた現状を、そして「with corona」という言葉に秘められた本当の意味合いを考えて、あくまでも私論ということで進めていきたいと思います。

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ウィルスは人間と同じ生命体?

ウィルスは人間と同じ生命体の一部であると考えます。ただしウィルスは人間のように、自分の意思で実走したり飛行したりできません。

 

あくまでもウィルスは人間が培養し、人間によって運ばれるということです。

 

コロナに限らずウィルスのことを調べていたら、思いのほか生物学者「福岡伸一」氏が語っていた言葉が印象的でした。

 

それは「ウィルスは生命の環の一部」だと表現しています。

 

要するに、ウィルスは人間を攻撃しているわけでもないし、人間は当たり前のようにどのウィルスも受け入れ、さらには積極的に受け入れているといわれています。

 

どういうことかというと、人間の細胞にはウィルスが感染しやすいように、あらかじめレセプターが用意されています。

 

ウィルスがそこに着地すると、わざわざ細胞内への侵入を手助けする仕組みまであると書かれています。

 

コロナウィルスが数千万人規模で世界的に広がったということは、人間がそれだけお互いに往来し、交差して接触した当然の出来事であるとしています。

 

これはコロナだけではなく感染病というのは、人が運び人に移すことによって増殖を繰り返していくという原理的な要素であって特別なものでもありません。

 

だからこそ「密」という言葉ができ「不要不急」という言葉が使われる由縁になっていると私は考えます。

 

福岡氏によると、例えば1年前、コロナの感染が始まった時、世界中の人々が一斉に他者との交流を一切遮断し、完全な自己隔離を行っていれば、2週間でコロナは消えてなくなっていたといいます。

 

感染していない人はもちろんそのまま、感染した人はその間、免疫系がウィルスと戦いウィルスを破壊して回復。

 

ごく一部の人が不幸にもウィルスとの戦いに敗れて亡くなりますが、同時にウィルスも死滅してしまいます。

 

当たり前のことですが、これが地球上で実行されていれば短期間でコロナを克服できたであろうし、2020年東京オリンピックも予定とおり開催されていたでしょう。

 

しかしながら、こんなことは現実的には不可能であることはわかっています。

 

日本のみならず、世界は人が動かないと、もっと言えば誰かが働いていないと成り立ちません。

 

このブログにも書いていますが、「コレラ騒動、日本中を恐怖に陥れたコロリショック」というタイトルで江戸時代に広がった感染症を紹介しています。

 

鎖国政策の中で唯一海外に開かれた長崎、そこから持ち込まれた「コレラ」は人の往来によって日本全国に広がっていきました。

 

多くの人が亡くなり、多くの人が恐怖におののいた時代でした。

 

ただ違ったのは人口の分布、そして交通機関の未発達、最後は多くの人々が亡くなったために経済が成り立たなくなり、人々が巣ごもりを長期間にわたって行ったために収束に向かったということです。

 

また現代とは違い、当時の日本は中央集権主義の封建社会でした。その中での出来事ですから人々の考え方も変わってきます。

 

当然、江戸時代に特効薬どころか医療体制なんて、現代から言えば無に等しいぐらいないはずです。

 

それでも収束したのはコレラの殺傷能力がコロナに比べてはるかに高かったこと、何百万もの人々の命と引き換えにコレラも同時に死滅していったのです。

 

これを現代に置き換えてみると、医療技術ははるかに進歩し、病原体の正体もすぐに発見できる世の中になっています。

しかし、人々の往来は激しく、人口密度も300年前とは比べ物にならないぐらい増えています。ウィルスは人によって運ばれ、子孫を残すために次々と人に感染していきます。

 

もっと詳しく言えば人が人に移しているということです。ウィルスは自分自身で狙い撃ちしているわけではありません。

 

それを考えると今のままでは「収束」という言葉はあり得ないということでですが、他の細菌同様、人間と共存していくしか方法がないのでは、という答えにおのずとなっていくでしょう。

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ウィルスは自分でありいつもそばにいるということ

 

ではなぜ人間に害を与えることしかしないように思えるウィルスが、長い生命の歴史の中で存在してきたのか。

 

もちろん、ウィルスは人間と同じ生命体ではありません。

 

生物学者から言わせると「生命体のかけら」と表現しています。これはDNAもしくはRNAがタンパク質や脂肪の殻の中に入ったもので、単なる物質的な粒子と位置付けているものです。

 

ここから少しウィルスとは何なのか、ということを書いていきます。

 

私も素人であり、科学者ではありません。大まかに生物学者たちが長い歴史の中で研究してきた、また、多くの犠牲を払って得た現代の知識理論を少し紹介していきます。

 

ウィルスは単純な構造であり、ウイルスは元々私たち人間のゲノムの一部だとしています。

 

それがたまたま外へ飛び出していき、その欠片が環境をさまよう内に変化していき、また戻ってきて、ちょっと悪さをしているのがウィルスであるということです。

 

極論から言えばウィルスの起源は私たちのような生命体自身ということになります。

 

そしてウィルスは遺伝子情報を個体から個体へ、さらには種から種へ、水平に運ぶという機能を担っています。これが生命の進化に有益な促進作用をもたらしているわけです。

 

だからこそウィルスは今も存在し、人間も含めてすべての生命体がそれを素直に受け入れていることになります。

 

結論から言えば「ウィルスは生命の環の一部であり、自然の一部」としているわけです。

 

また、素人にもわかりやすく理解してもらうために「腸内細菌」を例にしてウィルスを表現しているので、そのことも紹介しておきます。

 

近年注目されている「腸内細菌」ですが、私たちの消化管内に生息し、身体の細胞の数の数倍の規模で消化管に生息し、動的平衡を繰り返しています。

 

ウンチの成分のかなりの部分は腸内細菌の死骸と、自分自身の消化管細胞の死骸です。ようするに人間の体内で絶えず破壊しつつ、さらに新しく作り直されているとされています。

 

以前は、腸内細菌はただそこに寄生して栄養を掠め取っているのだと考えられていましたが、最新の研究では、腸内細菌が積極的に人間の健康に寄与していることがわかっているとしています。

 

これがどういうことかというと、腸内細菌が消化管から人間の免疫システムに刺激を与え、免疫系の調整に関わっているということです。

 

書かれているデーターの中に、アトピーやアレルギーは腸内細菌の乱れによって起こりやすくなるということも言っているのです。

 

さらには、研究者のなかには、この腸内細菌がホルモンのバランスなどに作用し、人間の心理状態やムードにまで影響を及ぼすと指摘している人もいるということです。

 

同じことがウィルスにも言える可能性があるということですね。

 

だからこそウィルスもまた、私たちの身体という自然を取り巻く、相補的・利他的な存在かもしれないといっているんです。

 

ウィルスも長い目で見ると、集団に免疫を与えたり、人口を調整したり、あるいは社会全体を調整し、地球規模ですべてを支配していると考えても過言ではないでしょう。

 

だからこそすべての人々が、ウィルスというものが人間にとって駆除する害虫ではなく、細胞の一部であり、逃れたくても逃れられないものと考えなければいけないかもしれません。

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歴史が語る、やはり共存するしかない

 

歴史的に見ても、日本史や世界史問わず感染病の歴史というのは繰り返されてきました。これは地球上に人間という生物が誕生した時からの歴史でもあります。

 

古き時代の人々はウィルスも細菌の存在も判明していなかった頃でも、人々は感染症の病気が存在することを知っていました。

 

それは「ミアズマ」と言われたそうです。

 

では「ミヤズマ」とは何を意味するのか、あくまでも日本語に翻訳された言葉としてですが、「瘴気」と訳されています。

 

つまり「悪い空気」という意味です。

 

これに触れると病気になると考えられてきたわけですね。

 

「ミヤズマ」は湿気が淀んだ場所や貧民窟などに集まっているとされ、人々はできるだけそのような場所には近づかないようにしていたといいます。

 

このような迷信的な考え方は19世紀末まで、日本を始め世界でも信じられていました。

 

しかしながらウィルスの存在が解明された現代でもそういう迷信的なことが一層されているとは言えないところがあります。

 

これは私的考えですが、ウィルスの発生源が「夜の街」や「観光地」にあるという言い方に代わっているだけで、過去の言い回しと何も変わっていないということです。

 

結局のところ、場所は関係ないということになります。ウィルスは人によって運ばれ人によって培養されていきます。

 

人が動き、人が集まればどんなに感染対策をした場所でも、一人がウィルスを保有していると感染するということです。

 

だから居酒屋だからとか、バーやクラブ、旅館ホテルという特定な場所ではないということです。ただ、人が集まれば感染する確率はおのずと上がっていくのは当たり前ということです。

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ウィルスとは、コロナ禍で考えさせられるこれからの生き方のまとめ

 

明確な答えが出ない、ということが今の現状でしょう。

 

とぜんのことながら経済というものは人が動いてこそ成り立っています。経済が衰退すれば人々の暮らしも窮地に陥ります。

 

だからこそ政府も「with corona」という言葉を使っているのですが、共存していくしかない、という結論に達すると思います。

 

今年の冬は、インフルエンザが極端に抑えられています。これは人々がマスクを日常的に着用し、できるだけ密にならない行動をとっている証ともいえるでしょう。

 

このインフルエンザも少し前までは未知のウィルスでした。研究が進み、ワクチン開発が行われて、ほとんどの人が感染しても亡くなることはありません。

 

それでも毎年、高齢者を中心に何百人もの方がインフルエンザで亡くなっていることは現実です。

 

コロナウィルスもいずれインフルエンザレベルにまでになるでしょう。ただいまは、インフルエンザよりも殺傷能力が高いのは事実です。

 

これから先、何年たっても変わらないと思います。ワクチンがすべての人に効果があると考えるのは危険であり、インフルエンザワクチンもいまだに100%ではありません。

 

最後にコロナウィルスに感染しないように心がけることが、自分を守る術ですが、もし感染してしまっても、私は内なる自然としての自分の身体の精妙さと強靭さを信じたいと思っています。

 

ご機会があればお寄りいただければ幸いです。今日は最後までお読みいただきありがとうございました。

※※旅好きブログです。私が旅をした記事や観光関連の記事を載せています。見てくださいね!

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