門司港の歴史、ここから発展を遂げた日本産業の奇跡

日本の歴史

門司港と言えば北九州市の観光の中核である「門司港レトロ」が頭に浮かびます。産業遺産を基盤に展開される日本の観光施設の中でも、トップクラスの集客率を誇っている観光地ですよね。

関門海峡を挟んで展開される海峡観光も人気で、歴史好きの方であれば、必見の価値がある建物や史跡が多く残り、近代史の日本の発展を支えた人たちを多く排出した地でもあるわけです。

過去の歴史は古く、古代から交通の要所であった関門海峡は、政治的にも大きな要となる場所であったことは過去の資料にも多く残されています。

時に要塞拠点となり、源氏と平家の最終決戦の場所としても語られ、近代では長州藩を主体とした「馬関戦争」でも紛争の場所となっています。

近代化の波が押し寄せると、要所であった門司は急ピッチで開発されるようになり、土木建設が進み、人口が増え、工場や企業ビル、民家が増え続け、それに伴って労働力や資材などが集積されていきました。

銀行、商社が興り、大手の支店も置かれて、海外貿易の玄関口として大きく栄えていきました。

実際に東京・大阪の首都圏や大都市圏ではなかった門司がなぜここまで急激に発展を遂げたのか、また門司港はどのような歴史の中で形成されていったのかを掻い摘んでご紹介していきます。

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古代から注目されていた関門海峡、それを見渡せた門司港

下関市火の山から見た関門海峡

下関市火の山から見た関門海峡と門司港

「門司」という名称は、中国の古書「門関トハ司門、司関」と書かれている通り、入り口を管理、または取り締まる場所の意味を含んでいます。

本州と九州を結ぶ玄関口であり、海から見れば背後に瀬戸内海方面を抱える周防灘と、福岡や日本海方面に通じる響灘との出入り口です。

この地形は古代から国防的にも大きな意味をもち、政治・軍事・交通などの各面で、大きな影響力を持つとされていました。

古代では4世紀のころ、熊襲(くまそ)征伐の途中、筑前香椎宮で亡くなったとされる日本武尊(ヤマトタケル)の二子である仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)の妻である「神功皇后(じんぐうこうごう)」が三韓征伐として朝鮮に出兵したときに、門司を通過した、と江戸の紀行記『名所方角抄』に記されています。

歴史的背景から見れば、この神功皇后は関門海峡を通る前に愛媛の道後温泉に寄っていることが伝説として残されていますが、瀬戸内から関門海峡に入り、響灘に抜けていったということでしょう。

だとすれば、7世紀の遣隋使や9世紀までの遣唐使もこの海峡を通過しているということになるはずです。

和布刈神社

関門橋の真下に鎮座する和布刈神社

門司港の関門大橋の真下に鎮座する「和布刈神社(めかりじんじゃ)」がありますが、ここの伝承として「創建、仲哀天皇9年(西暦200年)」という記述が残されています。

御祭神は、天照大神の荒魂「撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめ)」。

別称「瀬織津姫」という月の女神であり、穢れを祓う禊の神さま、潮の満ち引きを司る「導きの神さま」とも言われています。

海峡の守護神として崇敬を集め、足利尊氏や大内義弘、また仁保常陸介などによる諸社殿の修築造営が伝えられている神社です。

現社殿は明和4年(1767)小倉藩主小笠原忠総の創建によるものですが、古代の歴史というもはあくまでも伝承であり、非現実的な出来事から生まれたことが多く、あくまでも伝説として扱った方がいいでしょう。

いずれにせよ歴史は古く、近くにある「甲宗八幡宮(こうそうはちまぐう)」の創建は820年で、神功皇后、その子の応仁天皇を祀っており、古くから鎮座されていたことは間違いないと考えます。

8世紀に生まれた『万葉集』からは「門司」を歌った言葉は見つかりませんが、九州の防人などの歌からすると、往来の要所であり当時から重要視されていたことがうかがえます。

ただ、8世紀ごろとされている銅付札の木簡に「豊前門司」の文字があり、当時の政府にあたる大政官の布告は、公私の船の通過にあたって過所(過書・関所手形・通航許可書)を確認する機関があったこが示されています。

さて、大宝律令(701年)、奈良時代の律令制国家のころには、東海道をはじめ、九州の西海道などの全国の七官道ができ、この頃から海上交通とは別に陸路で回れる街道の始まりが示され始めます。

平安初期の制度を決めた『延喜式(924年)』によると、豊前国駅馬が田川・到津・築城・宇佐などとともに「杜埼(もりさき)」という地名が記されており、今の門司の小森江、または小倉南区の合馬(おうま)ではないかとされています。

いわゆる九州に入ってからの街道筋の始まりがこの門司にあると考えますが、江戸時代に九州で最も栄えた長崎街道、また豊臣秀吉も通った唐津街道、さらには古代邪馬台国からあったとされる小倉街道(小倉から大分)、そういった今でいう道が整備されていったのでしょう。

律令制の時代から鎌倉時代までは、九州一円は太宰府が統括していましたが、その中で門司は豊前国司のもとにおかれていました。

関税を徴収し、国防の任務を果たすことから重要視されていたことは確かで、北九州市の中心である小倉よりも重要視された地域で、12世紀(平安中期)ごろには小倉も含めて門司六カ郷と呼ばれていました。

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中世時代の門司は要塞拠点

馬関戦争に使われた大砲レプリカ

馬関戦争に使われた大砲レプリカ

みなさんもご存知のとおり源氏と平家の最終決戦地「壇ノ浦の闘い」、1185年に起こった日本で初めてとされる海上合戦が火蓋を切りました。

その後門司は鎌倉幕府の元に置かれ、下総(しもうさ)氏が統治しましたが、のちに下総氏は門司氏と名乗るようになります。

この13世紀ごろには日本史でも有名な「モンゴルの来襲(文永・弘安の役」があり、この関門海峡は防衛拠点とされています。

門司氏は和布刈神社の背後にある古城山に築いた門司城を中心に、5つの支城を築き門司半島を防衛拠点の要塞化を図りました。

室町時代にはいると豊前・長門などの山口から福岡北部を支配した大内氏が抑えて、周辺の水路を確保し、現山口市を中心に栄えた大内時代が到来します。

16世紀中ごろに大内氏が滅びると、毛利氏が九州進出の橋頭を築こうとして、東九州から勢力を伸ばしていた大友氏との争いを重ねました。

さらに戦国時代に入ると、豊臣秀吉が薩摩制圧のために九州に出兵した際、さらには朝鮮出兵の渡海にあたって門司をその拠点としました。

関ケ原以降、徳川政権時代には豊臣方に加担した毛利氏は追われ、豊前・小倉などは細川氏の領地となり、細川氏が熊本に転付後は小笠原氏が支配し、明治維新まで続くことになります。

こうして、軍事要塞起点として古代から近代に至るまで重要拠点として置かれた門司は、陸海の関所となり、町が栄えるというよりも政治的拠点としての重要性を重んじた地域であったことがわかります。

近代、急成長の門司

近代門司港の夜明けは正直そんなに古くはありません。つまり1889年に特別貿易港に指定、門司の築港が着工され、その前年には九州鉄道発足し近代化の波が一気に押し寄せます。

明治の初期ごろまでの門司は、漁村中心で小さな村が点在する田舎町だったとされています。

この頃は現在の太刀浦(門司半島の先端付近)コンテナターミナル付近が北前船などに使われた田野浦港が栄えており、下関(彦島)との往来のための現在の門司駅がある大里付近の大里港、さらに小倉港付近が港として栄えており、現在の門司港付近はきわめてひなびた地域でした。

1889年前までの門司港付近の産業は、清酒場と醤油場が各1ヶ所、製塩所が6ヶ所、それに伴って塩田が広がっていた地域でした。

人口で見ると、1860年が門司・田野浦・小森江を合わせても2338人、1884年(明治17)が2795人、そして1889年(明治22)の特別貿易港に指定された年は570戸・3060人でした。

それが4年後の1893年には8000人以上となり、発展のきっかけとなった1889年から10年後には2万人以上に膨れ上がり、いかに急激に発展を遂げていったかがわかります。

その後も人口は増え続け1900年代に入ると約4万人にまで膨れ上がっていて、1916年の第一次世界大戦や1931年の昭和恐慌時には若干の減少がみられるものの、1930年以降になると約13万人をこえる人口増加がみられ、いかに急激な発展と産業の増加が行われたかがわかります。

昭和の時代は太平洋戦争で10万人を下回っていますが、終戦後すぐに戦地からの復員や朝鮮戦争による産業拡大もあり次第に増加し、1965年には16万人を越える人口を有し、名実ともに九州の玄関口としての産業と貿易の一大拠点の町となりました。

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日本の産業革命とも言うべき人材を輩出した門司

関門海峡ミュージアム内の大正レトロ通り

関門海峡ミュージアム内の大正レトロ通り

日本銀行が1893年に下関、1898年に門司に支店をひらいたのも、この地の発展を予測したもので、その裁断を受けるように各銀行が次々と支店や出張所を開いています。

銀行ができるということは、それだけ多様な企業や産業が進出し発展している証拠であって、貿易港として栄えはじめた門司の発展をさらに加速させたのでしょう。

さて、明治から大正にかけて日本の最大貿易商社に発展した鈴木商店の興亡を紹介しておきます。

鈴木商店は明治初期の創業で本店は神戸でした。発展を見越した鈴木商店は門司に進出し、日清戦争から第一次世界大戦前後にかけて、台湾樟脳、樟脳油(セルロイド・無煙火薬・防虫・医薬などに使用されたもの)の販売権を握って発展していきます。

製鉄・煙草・製粉・製糖・ビール・レザーなどの工業部門や貿易部門では海外支店網を広げて海運や海上保険業にも進出しました。

戦時下の1917年(大正6)には年商16億円で三井物産を大きくしのぎ、直系・傍系は約100社近くもあったということです。

門司とのかかわりも深く、1907年(明治40)には門司支店を開設し、企業拡大を本格的に開始します。

手がけたのは、大里製糖所(1904年開業、後の大日本製糖に売却)、大里製粉所(1911年操業開始、後に日本製粉と合併)、大里製塩所(1911年操業、後に下関商事に継承)、帝国麦酒(1913年開業、商標はサクラビール、大日本麦酒の後のサッポロビールに吸収、北九州再開発のために大分県日田市に移転現在に至る)。

さらには、大里硝子製造所(1913年開業、帝国麦酒用の瓶を製造)、大里酒精製造所(1913年開業、合併を重ね現ニッカウヰスキー)、日本金属(当初は鈴木商店治金部、後に三井鉱山)、神戸製鋼伸銅工場(1905年に小林製鋼所を買収して設立)、日本地金(1918年開業、後に倒産し1950年に東邦金属として再建)。

これを見ても日本産業の名だたる企業の発生がここにあったかがわかると思います。

しかしながら鈴木商店は、1920年の第一次世界大戦後の不況、1923年の関東大震災、1927年の金融大恐慌の打撃を受けて、深い関係にあった台湾銀行から取引停止の通告を受けて倒産してしまいました。

これが本格的な金融恐慌に繋がり、1929年の世界大恐慌に繋がっていきます。

倒産後、多くの系列会社は他社に吸収されましたが、新たに貿易部門中心に日商株式会社設立し、後にこれが名だたる日商岩井に成長します。

また、帝国人造絹絲(現帝人)、神戸製鋼所、播磨造船所(石川島播磨重工業、IHI)、日本地金、豊年製油(現J-オイルミルズ)などの企業として発展し現在に至っています。

なお、門司で活動し、全国レベルにそして世界的企業として成長した人物として、あまりにも有名な「海賊と呼ばれた男」、出光興産の「出光佐三」、門司運輸から日本の物流企業トップに君臨する「日本通運」の創業者「中野金次郎」、また、運輸の「山九」を創業した「中村精七郎」、鉄道や橋梁(きょうりょう)の「間組」創業し、土木建築に広げていった「間猛馬」らがこの地から世界へ旅立っています。

1914年(大正3)には、門司港入港の汽船トン数は神戸を凌いで全国1位になり、門司市の一等市街地は東京の日比谷公園地価とほぼ同じにはねはがっています。

さらに1917年(大正6)門司港は、米・バナナ・肥料・木材・砂糖・綿花・麦粉・鉱油は西日本第1位の取引地に成長します。

こうしてみると門司の発展は日本の産業革命的な役割を担っており、関門海峡を挟んで下関の発展も著しく、いかにこの海峡が重要視されていたかがわかります。

情報発信拠点となった門司

門司港は新聞発行の前線基地でした。

大阪朝日新聞が発行されたのは、1879年(明治12)1月ですが、朝日新聞は九州では6月に鹿児島に支店を置きました。

西南戦争(1877年)があり、1882年には反日に端を発した朝鮮・壬午事変(じんごじへん)、さらにはインドシナで清仏戦争(1884年)と続き、欧米に遅れをとった日本が軍事的に国際化していく中で、内外の戦況を伝える新聞の需要は高まっていた時期です。

当初の新聞は大阪で印刷し、時間をかけて汽車や船で九州まで運んでいました。

その朝日新聞が下関に委託通信員を置いたのは1886年(明治19)のことですが、1892年(明治25)には門司・桟橋通り(現在の門司港駅付近)に販売中心の社員出張所を設け、その後門司販売局(1899年)が置かれました。

さらに、報道のための門司通信部(1902年)、門司通信局(1924年)と改称を重ね、翌年には門司支局に昇格して、地域向けの「付録九州朝日」「付録長選朝日」を門司で印刷するようになりました。

そして1935年(昭和10)には、門司支局を九州支社に引き上げて朝夕刊の印刷発行を行うなど、九州一円だけではなく、当時植民地化したり、侵出を目指した朝鮮・満州・中国本土といった外地向けに、門司は新聞供給基地として拡大の最先端の役割を担いました。

当時のライバルであった大阪毎日新聞も同様に、1899年(明治32)に門司港に門司支局を開設、1919年(大正8)には関門支局、次いで西部連絡部として朝日新聞に先駆けて日刊付録の「西部毎日」を発行、朝夕刊は朝日と同じ日に発行するなどお互いに競い合っていました。

朝日・毎日の全国紙が進出する以前には、地元発行の「門司新報」が広く読まれていました。1892年(明治25)に門司で発刊された日刊紙で、1938年(昭和13)の廃刊まで50年近く親しまれた新聞でした。

『北九州産業史』に記載されていますが、この地場産業新聞の質は非常に高く評価されていたといわれていて、創刊当初は40万部程度でしたが、1894年の日清戦争報道等で一気に140万部~230万部に達しています。

明治40年代には300万部を維持する大新聞に成長し、地元だけではなく各地方にも配布されていたといいます。

しかしながら全国紙の勢いは凄く、激しい攻勢の前に次第に太刀打ちできなくなり、昭和13年に廃刊に追い込まれました。

しかし、その紙面の記事は門司を始め九州一円の情報を丹念に伝えており、近代史にとって一級の歴史資料となっています。

この記事も一部資料はこの「門司新報」からとっており、この門司港の歴史を知るうえで欠かさない資料となっていることは間違いないでしょう。

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門司港の歴史、ここから発展を遂げた栄光と奇跡、記事後記

門司港駅舎

復元された門司港駅舎

門司港の発展は古代から続く紛争や戦争を切り離して語れないと考えています。

軍事産業の発展、そしてそれに付随する関連貿易の拠点、近代日本史の縮図がこの門司港には見て取れます。

明治維新(1867年)、そして7年後の台湾出兵、その3年後の1877年には内乱の「西南戦争」がありました。

さらには日清戦争(1894~1895年)、日露戦争(1904~1905)、第一次世界大戦(1914~1918年)、と続き大戦が終わると同時にシベリアに出兵(1918~1925)、さらに中国革命の進行を阻むために山東に出兵(1927~1929)し、次第に中国への侵攻に深入りしていきました。

柳条湖事件を機に満州事変起きたのは1931年、盧溝橋事件で日中戦争が拡大したのが1937年、そこから大日本帝国はベトナム・インドシナ地域への転進と、真珠湾攻撃を機にアメリカに宣戦布告を告げ太平洋戦争へと進んでいきました。

悲しいかなこの戦争需要で産業は活性化され、軍事的拠点であり、貿易の拠点でもあった門司は今までにない、日本でも有数の産業基地とし発展していきました。

大陸に近いということもあり、軍事的にも大陸向けの港として栄え、にほんの中でも欠かすことのできない要衝になったということです。

門司港レトロのイルミネーション

門司港レトロのイルミネーション

さて、最後にこの当時の建物が保管され公開されている「門司港レトロ」、大正から昭和の門司港の歴史を再現している「関門海峡ミュージアム」、古代の関門海峡を知ることができる和布刈神社、関門橋のイルミネーションスポットでもある古城山と、見どころがいっぱいあります。

2019年には門司港駅舎が復元され、当時の繁栄した門司港がいかに素晴らしい街だったかを語っています。

一時的にも日本最大の貿易港として栄えた「門司港」、機会がありましたら是非一度見に来てください。

またご機会があればお寄りいただければ幸いです。今日は最後までお読みいただきありがとうございました。

※「門司港レトロ」や「関門海峡ミュージアム」も紹介しています。よかったらこちらのブログもご覧ください。

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