幻の東京オリンピック、1964年の「平和の行進」

日本の歴史

2020年新型コロナウィルスさえなければ、「第32回東京オリンピック競技大会」は予定とおり行われていました。

誰が想像したでしょう、“COVID-19”の世界的蔓延に伴いWHO(世界保健機関)はパンデミックを宣言し、凄まじい勢いで地球全体に広がっていきました。

現在もその勢いは止まらず、1日に100万人単位で増え続けていて、ヨーロッパでは2回目のロックダウンも引き起こしています。

56年ぶりに開催される予定だった東京オリンピック・パラリンピックも延期になり、2021年に規模を縮小して行われる予定ですが、果たして本当に実現できるのか、誰もが思うところだと思います。

日本も開催国として、感染拡大を何とか食い止めなければならないのですが、季節が秋になり気温が下がり始めた矢先に、感染者が急増し第3波が襲いかかってきました。

この信じがたい現実を目の当たりにしている私たちですが、もっと苦しんでいるのはオリンピック・パラリンピックの選手たちだと感じています。

青春や人生のすべてを、このオリンピックやパラリンピックの舞台にかけてきたアスリートたちは、その夢が遠のいた瞬間、何を思っただろうか、そう考えると私では想像もできないと感じています。

しかし、東京オリンピックが中止もしくは延期になったのは、今回が初めてではありません。

NHK大河ドラマを見た方はご存知だと思いますが、「いだてん」の中で描かれた選手や関係者のオリンピックに対する熱意は半端ではありませんでした。

今回は、第二次世界大戦で消滅した東京オリンピックの出来事、また1964年の開催にこぎつけるまでの選手や関係者の並々ならぬ努力を抜粋して書いていきます。

また、コロナ禍で1年延期された東京オリンピック、是が非でも実現させてほしい、そんな気持ちの名で記事を書いてみました。

スポンサーリンク

1940年幻の東京オリンピック

今から80年前、アジアで初めて東京オリンピックが開催される予定でした。しかし時代がそうはさせてくれませんでした。

日本が、そして世界が戦争へと突き進んでいく中、平和の祭典は激流の中で中止へと追い込まれました。

そして、オリンピックに青春のすべてをかけてきた若者たちが、戦争へと駆り出されたのですね。

1940年大会東京オリンピック誘致の経緯

東京オリンピックの招致案は、1912年(昭和4)に国際陸連のジークフリード・エドストレーム会長が来日した時に生まれています。

日本学生陸上競技連合会長の山本忠興(やまもとただおき)氏との会談の席で、「可能性はかなり低いはなしだが」と前置きしたうえで、1940年第12回オリンピック競技大会を日本で行ったらどうかという声があったことを、エドストレーム会長が打ち明けたことにあります。

それを聞いた永田秀次郎(ながたひでじろう)氏が、翌年の東京市長選挙で当選した後に、東京への招致を打ち出したことで本格的に動き出します。

関東大震災から7年、東京の復興ぶりを内外に示す意図があったとされています。しかしながらこの頃の日本国民には「オリンピック」という言葉は浸透しておらず、東京市議会の議員が「オリンピックて何か、新しいサイダーか」と尋ね返したという話も残っています。

この時、立候補した国は東京・ローマ・ヘルシンキの3都市、中でもこの時代の大国として大きな影響力を示していたイタリアの首都ローマは手強く、ほぼ東京は勝ち目がないといわれていました。

当時、日本のIOC委員は「加納治五郎」と「岸清一」、柔道で世界的に名の知れた加納氏は、1933年(昭和8)のIOCウィーン総会や翌年のアテネ総会に出席して、公式、非公式にオリンピックの日本開催を訴え続けました。

岸清一氏の本職は弁護士ですが、大日本体育協会の会長という重責を担う立場でした。

1932年(昭和7)、岸氏は開催中のロサンゼルス大会について昭和天皇に進講をする機会がありました。

オリンピックの日本招致についても言及し、ライバルのローマの存在が大きいこと、日本の競技施設が整備されていない現状、そして日本がアメリカから距離的に離れているという地理的条件の不利を挙げて、実際にはオリンピックの招致は難しいと述べていたとのことです。

しかしながら、その岸清一氏が急死し、代わって伯爵の副島道正(そえじまみちまさ)氏がIOC委員になりました。

そのころに日本のIOC委員を3名に増やすことになったので、もう一人の枠に杉村陽太郎(すぎむらようたろう)氏を起用。

杉村氏はこの当時ヨーロッパに駐在していた外交官であり、また、スポーツマンとしても有名でした。

東京大学在学中に、大阪の南港かに神戸の魚崎まで、初めて行われた長距離遠泳で優勝した実績を持ち、おまけに柔道は六段の腕前、ヨーロッパに柔道を普及させ「柔道大使」と呼ばれていました。

その杉村氏がイタリアに駐在したため、副島氏と2人でムッソリーニ首相に掛け合うことにしました。

会見時に副島氏が体調不良で倒れたため、杉村氏1人で会見し訴えたところ、ムッソリーニ首相は1940年が日本にとって建国2600年という特別な年であることを理解し、さらには副島が病を押して訴えようとしたことに感動し、ローマは辞退すると述べたということです。

ある意味どこまで本当なのかはわかりませんが、本当だとしたらファシズム体制をいち早く立ち上げたムッソリーニが、後の三国同盟に関する政治的な取引を前提に、日本に対して敬意を図ったとも考えられますね。

ただこのことがIOCに知れて、日本に対して大きな不快感を示したことで、杉村氏が責任を取ってIOC委員を辞任。

これによりIOCの怒りは収まり、ベルリンオリンピック直前に開かれたIOC総会で、第12回オリンピック競技大会の開催地が東京に決まりました。

第12回東京オリンピック競技大会、中止

第12回東京オリンピック競技大会が決まった半年後の1937年7月に「盧溝橋事件」が勃発。当初は早期に解決するはずでしたが、戦線は次第に中国全土に広がっていきました。

日本軍は上海・南京・武漢など主要都市を占領するものの、戦線は膠着状態。こうなると引くに引けない泥沼へと踏み込んでいきました。

このことが日本国内の情勢を大きく変革した出来事となり、戦火の拡大が一途をたどるに連れて、国内でも急速に戦時色が強まっていきました。

「国民精神総動員運動」が始まり、消費節約が促され、風俗の取り締まりが強化されるなど、統制国家の波は国民生活に大きな影響を及ぼし始めます。

学生の長髪や女性のパーマなどは禁止となり、ダンスホールの閉鎖、贅沢品の販売禁止、国民服の着用など、庶民の暮らしを圧迫していきました。

その中で浮上したのがオリンピックの返上論。

「国家の一大事にスポーツなんてとんでもない」、「この事業のために国家予算がどれだけ浪費さるのか」という意見が出され、返上論が本格化していきました。

そのことが具体化したきっかけは、陸軍が馬術競技から撤退を表明したことでした。

ロサンゼルス大会の馬術で優勝した西竹一氏らをオリンピックに派遣するわけにはいかないといだしたのです。

さらには衆議院予算委員会で、河野一郎氏が近衛文麿(このえふみまろ)首相にオリンピック返上に関する質問を行いました。

その質疑のやり取りを見ていてどう思ったのかと問われて、内閣書記官長の風見昭(かざみあきら)氏が「時局によってオリンピックの開催は困難」と発言したことによって、急速に返上論が現実味を帯びてきます。

それでも松澤や斎藤ら水泳関係者は、返上論など関係なし、ひたすら選手の強化に励んでいたとのことです。

東京オリンピック競技大会まで残り2年、1938年3月には、兵庫県の甲子園室内プールに26名の男子前抜選手を集めて斎藤氏が指導を行っています。

松澤氏も現場に足を運び、女子選抜選手らの合同練習で指導を行っています。

その一方で松澤氏は、プールの設置などハード面の整備をすることで練習環境を整え、水泳の裾野を広げようとしていました。

それを象徴する施設のひとつが、東京大学本郷キャンパスに今も残る室内プールですね。

現在でも東大の水泳部はここで練習を行っており、水槽は改修されていますが、飛び込み台やプールの形状はその当時のままだということです。

このように自国開催向けて、現場の選手や指導者は努力を続けていました。しかしながら日中戦争は徐々に激しさを増していきました。

近衛内閣の和平工作もうまくいかず、戦火は漢口や徐州にまで及び総力戦の様相を見せ始めました。

鉄材が不足しだし、競技場建設も難しくなってきている中、東京市のオリンピック関係費の起債許可も危ぶまれる事態となっていきました。

そして1938年(昭和13)7月14日、ついに東京オリンピック競技大会の中止が決まってしまいました。

スポンサーリンク

1964年、東京オリンピック開催

1931年から始まった15年戦争は、時代の波に翻弄されて、多くのアスリートたちの命を奪ってしまいました。

ロサンゼルスとベルリンで開催されたオリンピックでは、日本の近代スポーツが大きく花開いた大会でした。

しかし、その選手のほとんどがこの15年戦争の犠牲となり、帰らぬ人となってしまったのです。

自国で更なる大きな花をさせるはずだった1940年の東京オリンピック競技大会、多くのアスリートたちが、残念ながらその夢がかなうことがなかったのです。

史上最高の水泳日本代表をつくった男、「松澤一鶴」

2019年(平成31)4月、JSPOとJOCの新しい本部ビルとして、国立競技場の近くに「ジャパン・スポーツ・オリンピック・スクエア」が完成しました。

各競技団体がそちらに移転した後、「岸記念体育会館」は解体され80年の歴史に幕を閉じています。

「岸記念体育会館」とは、渋谷にあった当時の東京オリンピックと縁の深いビルです。名称に「岸」とついていますが、これは加納治五郎が1911年(明治44)に設立した「大日本体育協会(現在の日本スポーツ協会)」の第二代会長「岸清一」のことです。

IOC委員も務めた岸は、「日本の近代スポーツの父」とも呼ばれている人物です。その岸清一氏の遺言による寄付で神田駿河台に建設されたのが、昭和15年に完成した「岸記念体育会館」でした。

そして戦後に開催された東京オリンピックの年、1964年に会館は渋谷区に移転、日本スポーツ協会(JSPO)や日本オリンピック委員会(JOC)をはじめとして、多くの競技団体がこのビルに本部を置きました。

いわいる「日本スポーツ界の総本山」的なところだったわけですね。

各競技団体の移転が移転作業が始まっていた2018年(平成30)11月、岸記念体育会館に入っていた日本水泳連盟の資料庫から10冊以上の古い手帳が発見されています。

書かれた時期は昭和初期の1930年代、当時の練習スケージュールやメモが書き込まれていた手帳です。

例えば1932年(昭和7)の手帳には、ロサンゼルスオリンピックに向けて水泳の代表チームが実施した21日間の合宿関する記述で、選手・役員32名の動向、コンディション、記録、練習課題、健康状態などが克明に記録されていました。

その年の6月の記録には、「オリンピック水泳練習日誌」と題して、ロサンゼルスに向かう「龍田丸」の船上で行われた練習のことが書き留められています。

毎日の天気、気温、水温、練習メニュー、選手たちの状態が欠かさず書かれていました。

このロサンゼルスオリンピックでは、日本水泳は男子6種目の内5種目で金メダルを獲得し、海外のメディアでは「日本は世界水泳界に革命を起こした」とまで言われています。

発見された手帳は、当時の日本代表チーム「松澤一鶴」が書いたものでした。後の1964年の東京オリンピックで閉会式の責任者を務め「平和の行進」を仕掛けた張本人だったのです。

松澤氏は戦争で多くの教え子たちを亡くしています。戦前から人生の大半を競泳日本のために捧げ、数多くのメダリストたちを輩出させた立役者でした。

しかし、戦争は彼から選手たちの命、そしてスポーツそのものを奪い取ったわけですね。

松澤一鶴は、日本が戦争へと突き進んでいく中でも、選手一人ひとりと向き合い、スポーツを守っていこうと戦いぬいた代表的な人物でした。

そして、最後に仕掛けた「平和の行進」が現在のオリンピック閉会式の常識になっているということです。

スポンサーリンク

戦後、いち早く動いた日本の水泳陣たちの偉業

1931年の柳条湖事件から始まった日本の15年戦争は、ベルリンオリンピックの翌年の「盧溝橋事件」で中国との全面戦争に突入しました。

東京オリンピックが開催されるはずだった年の翌年(1941)12月に、アメリカやイギリスを相手に全面的な太平洋戦争へと突き進んでいきます。

結末はご存知のとおり、1945年(昭和20)8月6日に広島、9日には長崎に人類史上初めてB29から投下された原子爆弾(リトルボーイ)、一瞬にして約20万人もの命が奪われました。

日本は「無条件降伏」を受諾、8月15日(現在の終戦記念日)に、ラジオから昭和天皇の「終戦」の放送が流されました。

戦後、日本水上競技連盟が「日本水泳連盟」と改称されて復活したのは、終戦からわずか2カ月半後の10月31日でした。

戦時中は国際水泳連盟理事会において日本の加盟資格は停止されていましたが、松澤氏の尽力によって日本は国際水泳連盟への復帰を果たし、日本の競技団体の中では最も早く世界の仲間入りを果たしました。

水泳で日本の復興を切り開くべく、松澤たちは日本各地の水連と情報交換や講演会を開き、素質のあねスイマーたちを発掘に努めました。

そんな活動から生まれたのが「フジヤマのトビウオ」こと「古橋廣之進」、もう一人は古橋のライバル「橋爪史郎」でした。

二人は同じ日本大学の水泳部で凌ぎを削り、1948年のロンドンオリンピックに向けた国内選考では、2人とも代表に内定、競う合うように記録を伸ばしており、オリンピック男子自由形での金メダル争いになるのを確実視されていました。

しかし、敗戦国の日本とドイツはオリンピックへの参加は認められませんでした。

その中で松澤たちはおとなしく屈辱に耐えたわけではなく、ロサンゼルス大会の水泳競技と同じ日程と同じ時間に合わせて、神宮プールで日本選手権を開催しました。

その大会の記録が凄まじい、私もこのタイムを見て驚きました。

まず、400メートル自由形では、ロンドンオリンピックの金メダリスト、ウィリアム・スミス(アメリカ)のタイムが「4分41秒」だったのに対し、日本選手権で優勝した古橋は「4分33秒」でした。

また、1500メートル自由形では、金メダリストのジェームス・マックレーン(アメリカ)のタイムが「19分18秒5」だったのに対し、古橋は「18分37秒0」、橋爪も「18分37秒8」とはるかに上回っていたのです。

このことは海外の報道がこぞって世界に流したため、アメリカの水泳監督だったキッパス氏が知るところとなり、「日本が参加しないロンドンオリンピックは意味がない」とまでも言わせました。

ロンドンオリンピックの翌年(1949年)、日本は国際水泳連盟への復帰が認められ、古橋と橋爪を含む6選手が全米選手権に招待されています。

古橋はその大会で、400メートル・800メートル・1500メートルの自由形で世界新記録を樹立しました。

しかし、松澤氏にとってそれで終わりではなかった。戦前で多くの教え子たちを失った思いは尽きることはなく、日本が戦災からの復興を果たし、世界に向けて平和を発信すること、そのチャンスがほかならぬ「東京オリンピック」の舞台でした。

1964年に起きた奇跡、東京オリンピック「平和の行進」

東京オリンピックで起きた「平和の行進」は、松澤氏が仕組んだ戦没アスリートへのメッセージではなかったのか、と言われています。

ただ、これは偶然に起きた出来事として今も定説となって語り継がれています。

松澤氏は戦前、国立競技場で学徒出陣を雨が降りしきる中、スタンドで見ていました。教え子たちが出陣していく姿を言葉なく見守っていたそうです。

松澤氏は東京オリンピックの開会式と閉会式の式典を担当していた責任者でした。その中で東京オリンピックの1年前に行われたプレオリンピックでのエピソードが残っています。

場所は東京オリンピックのメインスタジアムである国立競技場、開会式のリハーサルを行うために多くの大学生が集められました。全員、学生服に学制帽を着用していました。

松澤はスタンドから指示を出し、リハーサルの様子を真剣に眺めていました。

学生たちが競技場内をぐるりと行進し整列する。単なるオリンピックに向けたリハーサルのはずが、学生たちの一糸乱れぬ行為によって現場が異様な雰囲気になったという。

リハーサルが行われていた会場は、1943年(昭和18)10月21日に学徒出陣の壮行会が行われたのと同じ場所、それを見ていた松澤氏は何とも言えない悲しい顔をしていたと関係者は漏らしています。

「学徒出陣のようですね」と松澤に向かっていった関係者の目には、般若のような恐ろしい形相をしていたといいます。

「お前は黙ってろ、軽々しく口に出すもんじゃない。」と言い放ち、みんなが松澤氏の怒気に圧倒され、それ以上は何も言えなかったといいます。

静かにリハーサルを見守る松澤氏の目からは涙がこぼれていました。その日は話すどころか、そばにも近寄れなかったといいます。

後日、松澤氏はこのことをこう語っています。

「学徒出陣のことを思い出していた。自分の大切な教え子たちが戦争のための学徒出陣が行われた同じ場所で、今度は平和の祭典が行われる。

戦争から平和に切り替えることは簡単なことではない。今度の東京オリンピックは戦争と平和が共存している。

どれだけ世界中に、戦争からの復興をアピールできるか。もう日本は戦争をしない国だと示し、世界平和を伝えることが大事だ」

この言葉を読んで思い出したのが「米ソ冷戦時代」、西と東に分かれて、もっと言えば自由資本主義国家と社会主義国家の頂点に立っていたアメリカとソ連、一触即発の真っただ中にあった時代でした。

そして、1964年(昭和39)10月10日、第18回オリンピック競技大会(1964東京オリンピック)は快晴の秋晴れの中で開催されました。

誰もが「世界はひとつ」が実現されているかのような素晴らしい開会式でした。しかしよく見ると中華民国(台湾)の選手は入場してくるが中華人民共和国(中国)の選手はひとりもいない。

南ベトナムの選手はいるが北ベトナムの選手はいない。東西ドイツはひとつになって入場したが北朝鮮は参加できなかった。

松澤氏はその様子を目の当たりにして若干の危機感をもったといいます。

そして開会式から6日後、松澤氏の漠然とした不安が的中しました。オリンピック開催中に、不参加の中国が初の核実験を行ったのです。

そのことを知った松澤氏は、このオリンピックが途端に色褪せて見え、何とも言えない絶望感に満ちた表情が関係者を驚かせたといいます。

その時松澤氏が関係者に言った言葉が印象的でした。

「エケケイリアという言葉をしているか」、松澤氏はそう呼びかけたそうです。

松澤氏によると「エケケイリア」とは、紀元前776年に始まった古代オリンピックにおける休戦協定のことだといった。

「これは国内外のすべての争いごとが禁止される。古代ギリシア人が1200年にわたって守ってきた大切なことだが、なぜいまの人々にはできないのだろうか」。

松澤氏はそう言って嘆いたといいます。

オリンピックも終盤に近づいたある日、10月24日に行われる閉会式の演出について、式典課のスタッフがミーティングを行っていました。

そこで、想定外の意見を口にしてスタッフを驚かせた人物がいました。その人の名は東京オリンピックの記録映画を製作していた「市川崑(いちかわこん)」監督でした。

市川監督はスタッフにこういったといいます。

「できれば、閉会式では堅苦しいものではなく、もっとくだけた、各国選手が互いに打ち解けたような、競技を終えてリラックスした選手の姿を撮りたい。もっと奇想天外でもいいのではないか。そんな演出は考えられないか。」

突然の提案を受けてスタッフの間で緊張感が走ったといいます。スタッフからは「それは反対です。閉会式には天皇陛下も見ておられる中で行われるのです。世界中も注目している、あくまで整然と厳粛に行われるべきです。」

スタッフは市川崑監督に対してそう答えたそうです。

スタッフのほとんどがその意見に賛成でした。しかし閉会式の責任者でもある松澤氏は、そのことに対して一言も口にせず、スタッフの反応を見ていたといいます。

正確にはそれぞれのスタッフがどんな考えでいるのか、そのスタンスを見極めようとしていたのでしょう。

この時の松澤氏の頭の中には、すでにある計画であったとしています。ただ松澤氏と市川氏が結託して事を進めていたかは不明だといいます。

松澤氏の計画は巧妙かつ大胆でした。

閉会式が始まる前、選手たちは入場口の外で国ごとに整列させられています。その列が乱れないように仕切るため、各国選手団間にはロープが張り巡らされていました。

「入場する直前に、国同士を仕切るロープを外し、各国選手が入り交じった状態を作り出し会場に突入させよう」。

松澤氏の計画はこうでした。ごく少数のスタッフで構成されていたこの計画は功を奏しました。

松澤氏に賛同したスタッフが後に語ったその時の気持ちがかかれていました。

「いざその時がちかずくと、これは許されないこと、とんでもないことだと怖くなってきました。みんながリハを重ね、きちんと終わろうとしているのに、その真逆のことをやるんですから。

また、天皇陛下も見ている前でやるんですよ。どうなることかと、心が押しつぶされそうでした。

そしてスタッフは各国選手を仕切る20mのロープをひっかけているポールに、震える手を伸ばした。

そしていまから恐ろしい事をやろうとする気持ちを何とか抑えながら、一気に引き倒したということです。

ロープの「国境」がなくなると見る見るうちに松澤氏の目論見どおりの「融和」が始まったといいます。

選手たちは国を越えてハグをし、肩を組み、手を取り合っている。みんな笑顔に包まれ、興奮した気持ちが高まっている。

選手入場まですでに5分を切っていました。計画を知らないスタッフは驚き、泡をくっていたといいます。

しかし、もうどうにもできない状態になり、選手たちは夕闇が迫る競技場になだれ込んでいきました。

ランニング姿で走り回る黒人選手、音楽隊の前で傘を振って、指揮者を気取る選手もいる。

日の丸をもったまま、様々な国の選手たちに肩車された日本の旗手「福井誠氏」、はこのお祭りの中心を練り歩く神輿のようでした。

この当時放送していたNHKのディレクターが思わず会場に設置されていた10台のカメラ支持を出した。

「これが平和だ、これを描きたかった。目の前の事実をそのままおってくれ」。

アナウンサーも声を貼り続けていた。

「肩を組んだ各国選手団、ここには戦いはありません。緊張もありません。ただあるのは平和だけです。オリンピックは平和であります。見事であります。国境を越え、宗教を越えました。このような美しい姿を見たことがありません。誠に和気あいあい、呉越同舟(ごえつどうしゅ)、和かな風景であります。」

こうやっていまも定番となっているオリンピックの閉会式、奇跡の「平和の行進」が松澤氏を始めごく一部の関係者の手で生まれました。

松澤氏は閉会式から88日後、静かに、そしてこのことを一切語らずこの世を旅立っていったのです。

かかわったスタッフもこのことについては一切語らず、今でも「偶然かつ偶発的に起きた出来事」として語り継がれています。

スポンサーリンク

幻の東京オリンピック、1964年の「平和の行進」、後記

2020年、何度も書きますがこの年は東京でオリンピックが開催される予定でした。しかしコロナの蔓延で、世界中が混乱に渦に巻き込まれ、尊い命が毎日奪われています。

自粛か経済か、どちらを選ぶこともできない現状、未知のウイルスとの闘い、これはある意味戦争と同じのような気がしてなりません。

IOCバッハ会長が来日し、「2021年のオリンピックは必ず行う、中止という選択肢はない」と明言しました。

誰もがそう思っていると思いますが、先が見えないコロナ禍で、オリンピックという大舞台が本当に実現できるのかは、判断しかねます。

しかし、今までこれを目標に人生の大半を費やしてきた選手たち、またこの東京オリンピック開催のために関わってきたスタッフの人たちの努力は無駄ではありません。

敗戦から立ち上がった日本の復興を世界に示した、1964年の東京オリンピック、今度もコロナから打ち勝った日本の底力を示していただきたい、その気持ちでいっぱいです。

参考資料 1964年東京オリンピックwikipedia
NHK大河ドラマ「いだてん」wikipedia、参考本
スポーツ史研究
TOKYOオリンピック物語
オリンピック101の謎
幻のオリンピック

ご機会があればお寄りいただければ幸いです。今日は最後までお読みいただきありがとうございました。

※旅好きブログです。私が旅をした記事や観光関連の記事を載せています。見てくださいね!

タイトルとURLをコピーしました