湯西川温泉、平家の末裔が語る名湯秘話

温泉開湯ストーリー

栗山七郷という地名言葉があります。湯西川沿いの湯端、高手、花輪、沢口、今渕、石上、湯坂といった集落がそれにあたり、昔から平家の落人の隠れ里という。

湯西川は枯木山(1755m)を水源とする川で、いくつかの澤水を集めて流れ、これらの集落を縫って五十里湖(いかりこ)に注ぐ。

栃木県の温泉と言えばやはり鬼怒川温泉、誰もが知る日本の有名温泉地ですが、そこからさらに山奥に進んだ中にひっそりとたたずむ風流な温泉郷が存在します。

今回は平家伝説が残る湯西川温泉の歴史についてご紹介していきます。

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栗山七郷、平家の伝説秘話

栗山七郷という地名を指す名前がありますが、これについて『日光山志』はつぎのように記しています。

栗山郷は塩谷の郡(こおり)なり、御山内(ごさんない)辺より北の方、如宝山の北裏にあたり、如宝と男体の間なる幽谷を経て、富士見峠という嶮山を越えて行く。

至って山中の村居なれば、畠地とてもわずかに岩石の間を穿(うが)ちて作るゆえ実を結ぶもの少なく、食一年もの貯えなく、男女とも山中に入り、男は鳥獣を猟し、岩茸などを採る。

女も短袴をまとい、妻木をとり、時にしたがいて栃の実、栗の実多ければ、これを拾いて食物の設けとす。

伝えていう、いにしえ平家の余類の隠れしところなり

栗山の伝承によると、七郷の祖は平家一門の平忠実と言われています。その伝説秘話を掻い摘んでご紹介してみましょう。

これは私がこの湯西川温泉を訪れたときに土地のご老人から直接語ってもらった伝承秘話であり、現代にまで語り継がれて来た平家落人の話です。

多分、どの資料を探してもこれに該当する秘話は見当たりません。

相比する伝承はありますが、語り継がれてきたものは素晴らしく、当時の壮絶な平家一門の生活を語っています。

あらかじめ正しておきますが、この文章はあくまでも資料抜粋ではありません。

語ってくれたものをテープに録音し保存していたものをそのまま文章化しています。それを踏まえて読んでいただきたいと思います。

【壇ノ浦の敗戦後忠実はひそかにのがれ、宇都宮の藤原朝綱を頼った。

しかし、宇都宮も安住の地ではなかったので、さらに日光の山地に分け入り、鬼怒川をさかのぼり、鶏頂山にさしかかった。

たまたま同行の女性が男児を分娩した。漂泊の身にとっても、これは慶事であり喜びであった。折からの端午の節句である。

女性たちは片袖を持ち寄り、それで鯉のぼりをつくって男児のすこやかな成長を祈った。

しかし、それが残党狩りの目にふれ、忠実一行は襲撃をうけ、さんざんに打ちのめされた。

忠実は残ったものを引き連れて、鬼怒川の谷奥に逃れたが、備えていた荷物の中の鶏が時の声を上げた。

このため忠実一行はまたも襲われ、多くの伴類を失った。こうしてようやく一ツ石(明神ヶ岳の登山口)にたどりつき、山中に隠家をつくって住んだ。

しかし、水汲みのものが源氏方に発見された。忠実はこれまでと覚悟を決めたが、敵の武将は案に相違してやさしく、忠実らの逃避行に同情し、酒をだしてねぎらった。

酒を酌み交わしたあと、源氏の武将は兵を率いて山を下った。

その後、忠実は隠家を山中から前山に移した。山中の生活とくらべるとずいぶんと楽である。

狭い谷間を耕し、稗、粟、蕎麦、胡麻をつくった。男は山や川へ行き、女は畑作をするという生活が続いた。まずは安堵な日々が続いた。

あるとき、胡麻のとり入れとき、忠実があやまって尖った胡麻の葉先で目を突き片眼を失った。以来、集落では胡麻づくりが禁止となった。

そのほかにも七郷では鯉のぼりをたてないし、鶏も飼わない。これは逃避行の途中で遭遇した悲劇を繰り返えすまいといういましめと、その苦労を忘れまいという心情が禁止の形をとったのだろう。】

これが、平家の末裔が語るこの地の秘話です。

実は私の祖先も平家の落人です。鹿児島県志布志市出身で、志布志の市街地から約30kmほど山に分け入った小さな山郷があります。

ここには祖父に幼いころから言い聞かされていた平家落人の話が残されていて、私の家系もそのうちの一人だと聞かされていました。

また、忠実の逃避行伝説と同じような秘話であり、当時の平家の残党が日本全国に散らばった実態と源氏による残党狩りの話です。

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湯西川温泉、平家の開湯秘話

ところで湯西川温泉の発見はやはり平忠実ということになっています。湯西川温泉開湯伝説にはこう書かれています。

【川のほとりでいで湯を見つけた忠実は、いまの生活には用のないものと考え、ひそかに埋めてしまった。

しかし、子孫の将来を思い、湯の湧き口近くに愛用の藤鞍と武具、それに金の延べ棒を埋めた。そしてまた、平姓を称することをはばかり、平氏の人という意味で伴姓を名のり、のちに「伴」と改めた。

この伴氏は今日まで命脈を保っている。

さて、源氏は三代で滅び、天下は北条氏が把握するところとなり、平氏一門に対する追補の手はゆるめられた。

伴氏は前山の集落を川岸に移した。人目をはばかる生活は終わり、一族は分化してそれぞれ集落をつくった。

これが「栗山七郷」のはじまりである。】と、記されています。

また、七郷にはこういった生活秘話も残されている。

【木を伐りて板に挽き、日光へ出すも、山路は狭く桟道多きゆえ、三、四尺に切りて背負いて出し、みな稲殻にかえて帰る。

冬は家にいて木鉢、木杓子(きじゃくし)、木履(ぼくり)を作るものもあり、近来は栗山桶とて、曲物造りの器を出す。谷川の水を汲みとる桶なり】

こういった生活を営みながら、栗山七郷の人々は歴史を重ね、やがて湯西川温泉の元となる源泉を見つけ出すこととなります。

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湯西川温泉のはじまり秘話

時代は下って天正元年(1573)伴氏は11代を数えていました。この時の当主は「忠光」といい、里長(さとおさ)も兼ねていました。

冬の一日、忠光が川筋を歩いていると、冬景色の中に地肌があらわになっているところがあった。

そこで掘り下げると鞍や武具が出てきた。さらに掘ると湯がこんこんと湧き出した。これが「藤鞍の湯」で、ここに「湯西川温泉」の歴史が始まります。

湯西川温泉に「伴久旅館」という宿があります。平家伝承の宿として有名ですが、忠光の末裔が経営する宿といい、家宝として藤鞍、鎧、武具、古文書などを蔵しています。

ご存知の方もおられると思いますが、古文書の中には「平重盛」の書簡などがあって歴史が好きな方には特に興味をひくでしょう。

こういった伝承・秘話などをまとめてみると、湯西川温泉の集落が平家の落人によってつくられたことはほぼ確かでしょう。

ただ、個人的に歴史を深堀りしてみると史実とは違った資料が立ちはだかります。

それは、忠実という名は平家の系図には存在しないということ、また、これに比定できる人物も見当たらないのです。

私が探しきれなかっただけかもしれませんが、若干の相違点が生じるのも確かですね。

研究家の中では色々な説が飛び交っていますが、もっと後世の戦国時代の落人ではないかという説も浮上しています。

これらの研究家は湯西川に現存する五輪塔にも言及しています。

この五輪塔は形式からみて、鎌倉時代まではとうていさかのぼれないとされています。そういえば鯉のぼりをあげるという武家風習も鎌倉時代には見られない。

このように考察すると湯西川の伝承は少しあいまいな点が見え隠れするということでしょう。

とはいっても湯西川の「栗山七郷」が平家の落人によってつくられた隠里であるということは間違いないし、民俗が貴重であることには変わりはありません。

さて、江戸時代の初期、徳川秀忠によって「日光東照宮」がつくられていますが、その時に湯西川村は神領五千石の内となり、今市代官「山口忠兵衛」の支配下に入いりました。

そして名主には「伴久左衛門」が指名されました。このことからも伴氏が旧家であることがわかります。

栗山のもう一つの落人集落は「川俣温泉」である。

ここにも平家塚というものが存在します。伝えによると平氏の多くの武将の墓といい、「大将塚」とも呼ばれています。

落人たちが平氏であることを隠すため、身のまわりの物を埋めたところともいわれています。

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平家伝説が数多く残る湯西川温泉の今

それにしても湯西川温泉には平家の落人に関する事物が多いですね。

鎮守の高房神社には上下の二社があり、ともに諏訪神と平忠実を祀ります。建久年間の創立といわれています。

現社殿は文化8年(1811)に再建されたものですが、8月13日から19日まで行われる平家祭には獅子舞が奉納されます。

そして肝心な平家塚は高房神社の奥の院で樹木に囲まれた林の中にあります。忠実をはじめ一門の墓と伝えられています。

つぎに、慈光寺は平家落人の菩提寺とされています。これは住職から直接お話を伺ったので間違いないでしょう。

また現在では「平家落人民俗館」、「湯西川歴史博物館」があり、平家の落人伝説や湯西川温泉の歴史を知るうえで、貴重な資料が展示されています。

こういった展示施設は、この地域が観光地として再開発されてから設立されたものです。栗山村の旧家の所蔵品であった鎧兜、刀剣、民具、古文書など約1000点が展示されていて必見価値があります。

現在、湯西川温泉は伴久旅館、湯本館をはじめ十数件のホテル・旅館が存在します。

昔からある旅館も歴史の中で自炊式の湯治宿から行楽客を対象とする近代的な旅館やホテルへと変貌していきました。

源泉温度は50度~55度、泉質は弱食塩泉で、胃腸病・神経痛・リューマチ・皮膚病などに効能があるといいます。

また、昭和60年6月には落人の歴史、風俗、伝統工芸を一堂に集めた8棟の茅葺き屋根の民家を建て、「平家の里」として公開されています。

日本夜景遺産、湯西川温泉「かまくら祭」

さて、湯西川温泉の冬の風物詩「かまくら祭」は今回で27回目を迎え、2021年1月30日~2月28日まで開催される予定です。(水・木曜日は休日)

コロナ禍で、開催が危ぶまれていましたが、ほぼ間違いなく開催されるでしょう。

平家のロマンを伝える観光施設「平家の里」をメイン会場として、沢口河川敷のミニかまくらを中心として開催されます。

夜にはろうそくが灯され、幻想的な冬景色が堪能できます。この風景は日本夜景遺産にも認定されていて、素晴らしいイルミネーションイベントだと思います。

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湯西川温泉、平家の末裔が語る名湯秘話のまとめ

さて、平氏の末裔と称している名前は、そのほかにも平、小松氏などがあります。小松氏は重盛の末裔と言っています。

調べたところ小松を称する氏族は塩原にもあり、これは妙雲尼と平貞能に関連しています。余談ながら塩原の平家伝承は信頼性が高いではと考えます。

これから考案すると湯西川・川俣の平家落人伝説も架空ではないでしょう。地域的にも多くの落人たちが移り住んだ地域と分布が同比していることが挙げられます。

最後にこの栗山郷に関する平家落人伝説以前の歴史が存在していました。

栗山郷の開祖は藤原鎌足の子までさかのぼるとされています。歴史学的には不明な点がありますが、この時代の歴史的資料は無に等しいだけに、伝承はあくまでも伝承とされているのでしょう。

さて、藤原鎌足の子は加賀の金沢から移ってきて、この地に一戸を構えたと記されています。

持統天皇元年(687)のことというから日本史から見てもかなり古い話です。ちなみに日陰の自在寺は持統6年4月18日に造立されたとの伝承があるのもたしかです。

こうしてみると栗山郷には落人伝説や貴種流離のような話が根付く要素があると考えられます。

それがこの地方で平家の落人伝説を生んだ要因となったわけです。

それはともかく、湯西川温泉、川俣温泉、奥鬼怒川温泉郷とともに奥鬼怒の代表的な温泉ですね。清冽な鬼怒の源流を眺めながらの入浴は、歴史を物語るには十分の爽快感があります。

湯西川温泉郷は鬼怒川温泉郷とともに栃木を代表する歴史ある温泉郷ではないでしょうか。興味のある方は是非一度、この温泉にどっぽり浸かって、歴史を考察してみるのもいいでしょう。

●資料参照 『日光山志』・『歴史の里第18巻』・『湯西川温泉史』

●写真資料 とちぎ観光ネット認可。

またご機会があればよろしくお願いします。今日は最後までお読みいただきありがとうございました。

※旅好きブログです。私が旅をした記事や観光関連の記事を載せています。見てくださいね!

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