松尾芭蕉忍者説は本当か、奥の細道から見る人生推理

日本の歴史

俳聖として不動の名をとどめる松尾芭蕉、じつは忍者だったとする説が昔からささやかれています。

この説が大きくこの世に出たのは、1970年に出版されたひとつの推理小説だったのではないかと考えます。

その推理小説は斎藤栄氏の『奥の細道殺人事件』ですが、『殺人の棋譜』で江戸川乱歩賞受賞(1966年)し、トラベルミステリーの『江戸川警部』シリーズや警察庁特捜班の『小早川警視正』シリーズなど数々のヒットを飛ばしている日本の代表的な推理小説家ですね。

私も国内外合わせて500冊以上の推理小説を持っていますが、この本も20代のころに読みました。

何度が読むにつれてこの推理小説は、ただ単に架空小説ストーリーではなく、斎藤栄氏が主張する「松尾芭蕉忍者説」ではないかと思うようになりました。

ネットで「松尾芭蕉忍者説」を検索すると過去にいろいろな方が忍者説を書いていますが、あくまでも概要的で主に至る答えが導かれていません。

そこで今回は、私なりに調べた「松尾芭蕉忍者説」を詳しく記していきますが、少し長文になるのでご容赦くださいね。

スポンサーリンク

松尾芭蕉の情報収集と工作

まずは斎藤栄氏の『奥の細道殺人事件』の推理小説を少し紐解いていきます。この小説は公害問題と芭蕉忍者説を絡ませたおもしろい作品だと感じています。

偶然が重なって工場廃棄物から有毒ガスが発生したため愛児を失い、続いて妻もその後を追いました。

残された大学講師の三浦はその原因となった工場の工場長を恨みますが、その工場長が怪死したことから有力な犯人と目されます。

ちょうど「奥の細道」を調査するために旅行中だった三浦のアリバイ崩しに2人の刑事が、三浦の教え子を伴って追跡調査を続けます。

そこに芭蕉忍者説を絡ませて、話は意外な展開を見せていく、といった筋書きですね。

ここで斎藤栄氏の挙げているいくつかの「芭蕉忍者説」に触れて話を進めていきます。

まず、根拠としては第一に芭蕉の父が伊賀者であったということ、第二にその母親が喰代(ほうじろ)の百道(ももち)家の出身であること、第三に芭蕉が仕えた「藤堂新七郎家」は藤堂采女の一族で忍法の印可を受けていたらしいこと。

そして最後に『奥の細道』の大旅行の目的と費用の出所が不明である点などを挙げています。

その謎を解くカギとして『奥の細道』に随行した曽良(そら)の『随行日記』を取り上げて、その記載と『奥の細道』の記録を比較して、『随行日記』の落丁部分から失われた謎を解こうとしたわけですね。

しかし、こういった説は松本清張氏にもあります。『今日の風土記・南紀の旅』の中でこう書いています。

彼(芭蕉)の家は、父の代に東の阿山郡上柘植から上野城下に召されて出てきた。

元来は在郷の忍者柘植(つげ)氏を名のり、当時まではいわゆる在郷の無縁の士分、無足人の家であった。

母は伊賀国の西南に住む、古い忍者の名家百道氏出身だという。そして彼が仕えた蝉吟は本名藤堂良忠、その曽祖父は江戸の忍者頭取であった服部半蔵だという。

芭蕉やその仕えた蝉吟(良忠)が忍者出身の家に育ったということは、考えようによれば、蝉吟や芭蕉が子どものころから俳諧に励んだことと無関係ではないともいえるのだ。

というのは、俳諧のような文学は忍法の一要件であったからだ。つまり七方出(しちほうで)という七つの変化術のように、忍者はさまざまに変化して活動するため、その変装にふさわしい特技のひとつを身につけることを必要とした。

観阿弥が、七方出のひとつの猿楽師になるため猿楽をマスターし、将軍にも仕えたように、これは人を油断させ、それに近寄る一手段であった。

忍法の一種に『鬼一法眼秘伝五種』と言われているものがあって、その最後に『文筆画工』というのがある。

これは連歌、和歌、俳諧、絵画などの特技を身につけ、人に近寄る法である。

すると、上野に俳諧が起こった動機は、たんに藤堂藩の文化推奨策だけではなく、その前からの忍者の特技大きくものをいったのかもしれない

さて、詩歌をもって権門に出入りし、密かに情報の収集と工作に当たった人物として、在原業平が挙げられます。

業平は歌をもって藤橘二門に交渉をもち、その内情に踏み入って双方の事情に精通していたといいます。

しかしながら、松尾芭蕉の場合はどうだろう。連歌師や俳諧師などの中に情報入手のために活躍した者がいたことは想像できますが、はたして芭蕉はどうだったのか。

このような推測自体、芭蕉をぼうとくする俗説だといわれそうですが、ともかく「松尾芭蕉忍者説」の立脚点を洗い出してみましょう。

スポンサーリンク

松尾芭蕉の生涯、謎に包まれた人生

芭蕉の生涯には謎が少なくありません。生まれたのは正保元年(1644)、父は松尾与左衛門と言います。

生まれた場所は、現在の三重県上野市赤坂町303番地、その建物が昔の遺構をどの程度とどめているかわからないが、その立地条件から見て間取りなどは、かなり昔の面影を残していると思います。

明治のころまでは、そこに松尾家の子孫が住んでいたと聞いています。また、安政の大地震に改築されたともいわれています。

父の与左衛門は阿山郡上柘植ですが、いつ頃に上野の赤坂へ移り住んだのかはわかっていません。平宗清の末裔で祖父の代までは柘植に住んでいたことがわかっています。

藩主藤堂高虎が内治に力をつくした寛永3~4年ごろという説もありますが、私の推測では服部一族の出である藤堂采女が城代家老となった寛永17年と想定しています。

そうすると芭蕉が生まれる5年前ということになります。

伊賀無足人の出身である与左衛門は、藤堂采女の城代家老就任をきっかけに、ある種の任務を帯びて上野の赤坂に移住したのでは、と考えています。

無足忍(無足人)の普段の生活は農耕に従事していますが、何か事が起きると動員されて武士としての役割を果たします。

扶持米や合力米は支給されていたし、苗字帯刀も許されていました。『伊乱記』には「士は禄を食んで武を磨き、無足忍は禄なくして兵を練る。権力の上よりは士分・郷士の下にあり、実力よりすれば士分・郷士を凌ぐなり」とあります。

甲賀にはこの制度が見当たらない。

藤堂高虎が整備した無足忍の最初の数は124名、主に伊賀・甲賀の士族で編成されました。

山口正之氏の『忍者の生治』によると、無足忍は組外の衆、母衣組衆、鉄砲組衆、留守居衆、忍びの衆の5つに分かれていたといいます。

そのうちの忍びの衆がいわゆる忍者集団であったことは明らかです。

『伊賀付差出帳』というものがあります。これは寛永13年12月に藤堂藩の家臣の名を、3人の家老が記録し藩主のもとへ差し出したものですが、この中で忍びの衆の名前には20名が書かれています。

父の与左衛門は上野に移って以降は、手習い師匠などで生計をたてたといわれていますが、確固たる確証はありません。

そして移住後に百道氏の女と結婚して、芭蕉を含む2人の息子と4人の娘をもうけました。

芭蕉が藤堂新七郎の後継ぎである主計良忠(俳号は蝉吟)に仕えるのは、10代のことです。いわゆる雑用人として仕えたのでしょう。

藤堂新七郎家は采女の一族でという説もありますが、服部半蔵の血をひく家柄だという解釈も見られます。松本清張氏は良忠を服部半蔵の曽孫としています。

藤堂新七郎家が忍法の印可を受けていたという説も、そのあたりに起因しているのではないかとみています。

当時、上野の町には貞門派の俳諧をたしなむ人が少なくなかったといいます。その多くは裕福な町家の主人たちで、上野福居町の久米庵という質屋の主人、菊岡行宣(如幻)などはその代表的な存在でした。

芭蕉を北村季吟へ紹介したのもこの如幻だといいます。

京都を本拠地として活躍した季吟には、諸国に門人がおり、伊勢・伊賀地方にもその数が多かったみたいです。主計良忠も季吟に師事ていました。

芭蕉の作品で現在、製作年代のわかる最古のものは、数え年19歳につくった一句、「春や来し年や行きけん小晦日」とされています。

当時の芭蕉は貞門派の俳諧に素直に従っていたのでしょう。その彼の方向性を変えたのは蝉吟の急死だったみたいです。

蝉吟は25歳の若さで急死しました。芭蕉とは2つ違いですが、蝉吟に関してもいくつかの謎があります。

良忠(蝉吟)の遺骸は藤堂新七郎家の菩薩所である山渓寺に葬られたことになっており、過去帳にも記載がありますが、なぜか墓牌だけがありませんでした。

近年、別のところから発見されていますが、戒名に関しても不明な点が多いし、家系図も父が2代目、良忠の息子が3代目になっていて、良忠は外れています。この理由も不明ですね。

スポンサーリンク

「奥の細道」紀行

次男坊であった芭蕉は生家で『貝おほい』をまとめています。

主君の死は芭蕉にとって何物にも替えがたい痛手だったのでしょう。寛文12年、29歳の春には『貝おほい』の原稿をたずさえて出府しています。

狭い上野盆地から抜け出し、都会の自由な空気を呼吸したいという青年らしい夢を描いたのかもしれませんね。

しかしながら、そう簡単には自立の道は容易ではなかったようです。

江戸の俳壇も、関西の俳壇の新気運に呼応して動こうとしていました。貞門派の岸本調和、神田蝶々子、岡村不トなども新しい動きを示します。

芭蕉にとって恵まれた状況だったでしょう。彼は主として京から江戸へ出てきた幽山、似春、信章(素堂)らに接近、江戸俳壇の不トなどとも交渉をふかめながら、34歳ぐらいになるころには江戸俳壇でも一応の地位を占めるまでになりました。

しかしながら暮らしは楽ではなく、小石川での水道工事の監督などもやって生計を立てていたといいます。

さて、由比正雪の「慶安事件」というものがありますが、この事件は芭蕉の幼少期に起こった事件です。

慶安事件は幕府の浪人対策の鋭角な突出でした。体制強化には元サムライという失業サラリーマンをどう取り締まるかが課題でした。

不穏分子に対する抑圧は、都市においていろいろな形で強行されていました。無足忍の出である芭蕉にその声がかからなかったかどうか、彼が特別の情報収集活動に従ったという解釈もそのあたりに起因しているのではないかと推測されます。

芭蕉は51歳の生涯で、5回もおもな旅を続け、『野ざらし紀行』・『鹿島紀行』・『笈の小文』・『更科紀行』・『奥の細道』の紀行文を残しました。

後半生のほとんどは、漂泊の中にあったといっても過言ではありませんね。しかし、旅の動機や目的は、いまだにわからないままで、謎に秘められているは間違いありません。

芭蕉は幼いころから体を鍛えていました。無足忍の出ですから当然だと思いますが、幼いころから厳しい試練に耐えて、心身ともに鍛え上げられたのではと考えます。

その健脚ぶりは旅の足跡からもたどることができます。

41歳から江戸から東海道をのぼり、伊勢・伊賀・大和・山城・近江・尾張・甲斐経て芭蕉庵に戻る9カ月の旅。

44歳から尾張・伊賀・奈良・明石に至る半年の紀行、京都・近江・美濃・木曽を経由して江戸へ戻った後、半年にわたって東北・北陸を歩いています。

この最後の旅が『奥の細道』紀行ですね。

弟子の曽良を伴い江戸を出発するのが3月27日、早加(現草加市)・粕壁(現春日部市)・間々田・鹿沼を経て日光に入るのが4月7日、黒羽、余瀬、高久から那須湯本へ行き、白河の関所を越えるのが4月20日。

二本松・福島を過ぎ、飯坂温泉には5月2日到着。それから仙台に行きしばらく滞在しています。

その後松島から石巻へ入り、北上して平泉に至り、中尊寺に詣でた後、岩手山・鳴子を経て尾花沢5月17日に到着しています。

ここでもしばらく滞在し、一度立石寺(りつしゃく)に参拝した後、大石田・新庄を抜けて出羽三山を訪ねて酒田から象潟へ向かいました。

その後は日本海沿いに一路南下し、新潟・弥彦・出雲崎・鉢崎(現米山)・今町(現直江津)を過ぎ、親不知の断崖を抜けて滑川・放生津、さらに倶利伽羅峠を越えて金沢へは7月17日に入っています。

金沢には23日まで滞在し、金石の海岸へ遊んだ後、那谷・山中を経て大聖寺から永平寺、そして福居・敦賀・彦根を経て8月の末に大垣についています。

これは凄いというか調べれば調べるほど、ある意味超人的な健脚の持ち主ではなかったかと推測できますね。

3月末から9月にかけての約半年間に、武蔵・上野・下野・磐城・岩代・陸前・陸中・出羽・越後・越中・加賀・越前・近江・美濃・伊勢と回遊したわけです。

総行程は約600里近く、距離にして2400㎞にもなります。

数日間の滞在も含まれていますが、多い時には1日に十数里も歩いており、漂泊の詩人にしてはあまりにも急ぎ足であることがわかります。

すべての旅の行程を見ていくと、あまりにも早く、何かに追われるような旅をしている行程でもありますが、本当に自分の足だけですべての道を歩いたのか、という疑問も残っています。

普通の人間では考えれない速さ、しかも関西圏一帯には何度も足を運んでいることから、何かの情報収集の要があったのではと推測できます。

スポンサーリンク

松尾芭蕉忍者説は本当か、奥の細道から見る人生のまとめ

さて、松尾芭蕉忍者説として考えた場合、すべての旅を疑うことは簡単です。また、松尾芭蕉は大柄でがっちりとした体格で、健脚を誇っていたといいます。

しかしながら40を過ぎてからの過酷な旅紀行は、ある意味漂泊ではなく、何かを収集する旅だったように思えてなりません。

この時代の40代というのは現代にして60代に近い年齢体調だったはずです。実際に健康状態も快適ではなく、福島の飯坂温泉では持病の発作に悩んでいます。

曽良の『随行日記』によると行く先々で知友を訪ね、食物や草鞋(わらじ)を乞うなどしていたことが記録に残っています。

高額な寄付を受けたこともあるみたいですが、ほとんどが乞食行脚に近いことがわかっています。

芭蕉の旅が忍者としての活動の一環だったとする説はあまりにも唐突過ぎると考えますが、この集中的な旅の中で、自己資金だけでやり通せたとは思えず、パトロンは行く先々での俳諧の仲間や知人だけだったのか、という疑問は残ります。

単なる物見遊山ではなく、自らの俳風を深め、新たな展開を求めての旅だったとしたら、1日に十数里も歩く必要はなかったはずです。

確固たる資料が残っていないとはいえ、通常では考えられない旅紀行の裏に、別の情報本が隠れているかもしれないと考えるのは私だけだろうか。

今回はできるだけわかっていることを、具体的に示してみました。松尾芭蕉の紀行には俳人としてだけではなく、何かを背負った強制的な部分が見え隠れするということですね。

また新たな資料が見つかれば、推理してみたいと考えています。

またご機会があればお寄りいただければ幸いです。今日は最後までお読みいただきありがとうございました。

※旅好きブログです。私が旅をした記事や観光関連の記事を載せています。見てくださいね!

タイトルとURLをコピーしました