八ヶ岳山麓の縄文遺跡群は古代の大都市だった

日本の歴史

八ヶ岳西南麓に群集する縄文遺跡群。そこを探ると日本の古代文化の神髄を見ることができます。

この山麓には広大な火山性スロープが展開されていますが、そこは河川の浸食を受けた尾根状の大地が無数にあります。

その遺跡群の数は凄く、時代別に見ると、旧石器時代11、縄文時代325、弥生時代8、平安時代108、の遺跡の存在が明らかになっていています。

さらに、縄文中期の遺跡が248もあり、この縄文時代中期の遺跡の集中密度は驚異的だとされています。

だからこそこの地が「縄文王国」と呼ばれているゆえんなんですね。

今回はこうした密度を誇る縄文中期にスポットを当て、遺跡立地の面から八ヶ岳縄文文化の性格を紐解いてみます。

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八ヶ岳縄文王国の登場

八ヶ岳南麓の遺跡がはじめて学会に紹介されたのは、茅野市豊平町の尖石遺跡(とがりいし)で、明治26年(1893)のことでした。

以後、尖石遺跡は宮坂英弌(みやさかふかさず)氏によって独力で調査が続けられました。そして出土した中期の芸術的な縄文土器や33軒の竪穴住居跡群は、世界の注目を集めることになりました。

戦後も宮坂氏は隣接する与助尾根遺跡で28軒の住居址を発掘し、それらは後の水野正好氏の基礎資料となるなど、考古学会への寄与するところは大きかったわけですね。

宮坂氏の活動は南麓の遺跡群にも及びましたが、戦後、諏訪へ帰郷した藤森栄一氏とその教えを受けた若者たちによって、長野県諏訪郡富士見町にある井戸尻遺跡群など、南麓の調査が組織的に行われました。

こうして、八ヶ岳の西とみなみの山麓での調査の実施によって、縄文中期の文化内容が明らかになり、考古学会の目はますますこの地に向けられるようになります。

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考古学会の常識を覆した八ヶ岳山麓遺跡群

井戸尻遺跡群の調査は、昭和23年(1948)にすでに発表していた藤森氏の縄文中期農耕論を裏付ける目的で行われたものでした。

縄文中期農耕論とは、縄文時代は狩猟・漁労・採集経済の段階であるという大方の研究者の考え方を不定し、八ヶ岳山麓では中期に焼畑農耕が存在していたという学説ですね。

当時では学会も世間も冷ややかな視線だったみたいでしたが、藤森氏の根拠は多岐にわたっていました。

それは、中期遺跡群の密集、大集落遺跡の存在と立地状態、狩猟具としての石鏃(やじり)の激減と土堀り具としての打製石斧やひき臼(石皿)など農耕的石器の大量出土、弥生土器と同様な機能分化した土器、さらに土偶や石棒など「地母神信仰」とみられる呪術具の存在でした。

その後も藤森氏の意思を受け継いだ武藤雄六・小林公明氏ら地元の研究者は、諏訪郡富士見町の曽利遺跡等の調査を続けるかたわら、アワの栽培や遺物の繊細な観察と実験的方法によって、畑作農耕の存在を実証する努力を続けました。

こうした背景には、曽利遺跡で出土したパン状の炭化物に加えて、中央自動車開通に先立つ調査で、諏訪市荒神山・諏訪郡原村大石遺跡で出土したタール状の炭化種子の存在があるといわれています。

また、中尾佐助氏は「照葉樹林文化論」を展開し、文化人類学の面から縄文中期農耕論説を解いています。

こうした中尾氏らの問題提起に対して、従来の日本考古学会の方法論が覆され、八ヶ岳南麓遺跡群の存在は縄文時代の定義を大きく変えた存在となったわけですね。

川と川によつて挟まれた丘陵上は、水野正好氏がいうように「ムラのテリトリー」(領域)です。

八ヶ岳西南麓の丘陵上にはいくつもの遺跡が群集し、集落が同一丘陵上に集まって村を形つくっていますが、縄文人の生活舞台はこうした村だけではありません。

狩猟や漁労の場、植物食料獲得の場、和田峠から遠く関東の地まで石器の原材としての特定の商品である「黒曜石」を運搬したりする遠い道、隣の村に行く近い道など、その行動の場はかなり広いものがあります。

しかしながら考古学的にこれらを実証し推測を立てるには、よほどの幸運に恵まれない限り不可能に近いでしょう。

しかし八ヶ岳西南麓の遺跡群はこうした行動範囲の領域を新しく示した史実といえるわけですね。

また、宮坂光昭氏は、宮川または釜無川にそそぐ河川の谷の浸食程度と水源の位置から谷を3種類に分類しいます。

こういったものは昔から人間が生きていくうえで、一番大事な水源の理論だと感じています。

それは日常生活において水は何よりも大事で、ここには水場となる水源域がいくつも存在していたからですね。

さらには水野氏が縄文中期に限定した分析の中で、土器形式から諏訪郡富士見町内にある集落遺跡の規模、継続性と移住を考慮にいれたうえで、田端地区・池袋地区・烏帽子地区・落合地区・乙事地区・千ヶ沢地区に分類し調査研究を行っています。

これをすべて説明すると膨大な文字数になるので、このブログでは記載しませんが、こういった分類をすることで、八ヶ岳西南麓の遺跡群が、いかにすごい縄文都市群を形成していったかを示しているといえるでしょう。

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八ヶ岳西南麓の村の領域

私も多くの研究者たちの調査報告や研究成果を参考にしながら八ヶ岳西南麓の遺跡群を見てきました。

それらは池袋・烏帽子地区に存在する拠点集落を中心に、居住空間としての村の領域を形成していたわけです。

その範囲は1キロメートル四方ですが、その中で川によって区画されており、この2つの集落を中核として、村の領域の中で居住地を少しずつ変えていったことが明らかになっています。

拠点集の成立過程やそのはたした役割、あるいは居住地の移動方法等には立地上の地形の相違もあって一律ではありません。

しかし、川で区切られた居住空間が厳格に守られてきたことは明らかで、ひとつひとつがその役割分担の中で強い絆とともに形成していたことがわかります。

また、村の領域を離れた河川沿いに点在する単一時期の小集落の考え方としては、水野正好氏の考え方が参考になります。

それは標高1000メートル付近の高位遺跡はハンティングキャンプ、下位遺跡はフィッシング・カルチャーキャンプという、いわゆるベースキャンプの考え方ですね。

つまり、村の領域の背後の空間地を生活の資源獲得のための場として利用していたとしています。

八ヶ岳西南麓の遺跡群の村の領域設定は、たくみに川という自然の境界線を利用しながら、村同士の共存を図っていたとみられます。

八ヶ岳南麓における村は池袋・烏帽子の2つの大きな村であり、それぞれの村の生活資源獲得の領域は、切掛沢川を境に、東は甲六川までの2.5キロメートル、西は立場川までの約4キロメートルとして、南北は丘陵端から八ヶ岳山腹の標高1200メートルまでの6キロメートルに及ぶとされています。

これらの研究が実証されたのは先人研究者の力であり、またその研究を受け継いだ研究者の努力なくしては縄文時代の常識が覆されなかったことは明らかですね。

この八ヶ岳西南麓に広がる縄文遺跡は、すべてが発掘されているわけではありません。

昭和の時代に中央自動車道の建設によって大きく姿を現した縄文遺跡群は、これからも常識を覆す可能性を秘めた遺跡であることは間違いないでしょう。

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八ヶ岳山麓の縄文遺跡群は古代の大都市だったのまとめ

簡単ですが、八ヶ岳西南麓に広がる縄文遺跡群を紐解いてみました。

この大遺跡群の最も反映した時期にどれだけの人が住んでいたのか、ということが気になりますよね。

実際の根拠となるものは明確に示されていませんが、烏帽子の村では200人程度、八ヶ岳一帯で考えると2000人は優に超えていたとみられています。

もしこれが本当ならば東西8キロ、南北3キロの範囲の中で、自然採取のみで維持して行けたのかという疑問が残りますが、人口に対しての数字はあくまでも推測であり、実証されたものではありません。

ただ、諏訪地方から甲府盆地にかけての広範囲から、個性豊かな土器が数多く出土していることから、これに近い人口分布があったと考えてもおかしくありません。

八ヶ岳山麓には縄文前期の阿久遺跡や晩期の山梨県の金生遺跡遺跡など、注目される大遺跡が数多く発掘されています。

これらを含めると、八が岳山麓に広がった縄文時代の遺跡から伝えるものは、この地に一大大都市圏が存在してたということでしょう。

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