江戸時代の偉人たち、天災を科学した先駆者

日本の歴史

閉鎖的であった江戸時代に西洋科学を先取りした幾人かの先人たちがいました。

今から紹介する人たちは本当にすごい人たちです。

今から300年以上も前の話ですからね。

奇人・変人などと言われながらも、未知の科学に挑戦して新知識を切り開いた先駆者たちですよ。

こんな人たちがいたからこそ、今の日本の技術があるんですね。

今回は江戸時代に奇想天外の発想で現代科学の礎を築いた、人達を記していきますね。

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日本気象に科学のメスを入れた「渋川春海」

渋川春海」は囲碁の宗家に生まれ、天文・暦学の研究に精魂を傾け、日本人の手による新しい暦を完成させたひとですよ。

暦とは無限に流れる時間を、月・日などを等分に刻んで、天象運行に関するすべての変化を予知する基盤となるものですね。

渋川春海が『貞享暦』を完成した当時では、暦の上では2日も狂いがあり、暦上の日蝕や月蝕が実際に行われず、また記載されていない日に日蝕や月蝕が起きたり、しきりと暦上に問題を投げかけていました。

さて、渋川春海の遠祖は清和源氏の畠山氏、河内国渋川郡を領していたため、渋川氏を称していました。

後に、播磨国安井郡を領し安井氏を名乗ります。

江戸時代の初期、安井算哲(やすいさんてつ)は囲碁をもって推挙され、幕府の碁所を預かるようになりました。

寛永16年(1639)安井算哲の長男として2代目算哲が生まれるわけです。

これがいわゆる春海さんですね。

幼名は六蔵、14歳の時に算哲が没し、2代目として家職を継ぎます。

しかし、幼少の頃から、天文に興味を持ち、12・13歳の時「北極星は動かないと昔から言い伝えているが、私は竹の間にあって3年間観察したところ、星は動いている」と父を驚かせたと言います。

天文・暦学については「松田順承(まつだじゅんしょう)」・「岡野井玄貞(おかのいげんてい)」を師と仰ぎました。

万治2年(1659)には山陰や山陽、また四国などへ出かけて行って緯度の観測を試みるなど、積極的に実地を踏んでのデーター集めを行っています。

寛文7年(1667)になると春海を敬愛してやまぬ会津藩主「保科正之」(将軍家光の異母弟)に招かれることになります。

直ちに当時一般に使用されている『宣明暦』(せんみょう)にかなり誤りの多いことを進言し、むしろ元(げん)の『授時暦』や、明(みん)の『大統暦』などの優れていることを告げました。

また、彼は原点を見極めようと、中国で最も古い春秋時代の暦法の復元に成功します。

七百の月、三百八十九の日の干支、三十六回の日蝕の記録などを丹念に調べ、やがてその成果は『春秋述暦』の刊行となります。

寛文10年には、朝鮮の天文図を改良し『天象列次之図』を刊行します。

続いて中国式の観測器といわれる『軍天儀』の模型を製作します。

さらに西欧の『地球儀』の模型も造るなど、自然科学への関心は次第に高まりを見せていきました。

保科正之は春海の才能を見抜き、改暦の研究をさせようと幕府に上申し、幕府もこれを受けました。

延宝元年、さらに『宣明暦』に誤りの多いことを指摘し、改暦の進言を行っています。

しかし、難点もあって改暦は一時中止となりました。

春海は意を決して日本の古い暦の研究に手を染めました。

『日本書紀』やその他の古史料に散見する日月の干支や日・月蝕を整理し、日本の古暦を復元するのは延宝5年で、刊行本を『日本長暦』と称しました。

同時に『天文分野之図』も刊行しました。

これらの研究は、中国式暦法を日本の風土に適応するように改良されたものですが、結果的には『大和暦書』なるものの完成でした。

彼は暦法宗家の「安倍奏福(あべのやすとみ)」と共に、京都の梅小路に八尺の鉄棒を立てて、毎日棒の影の観測を行い、自説の正しいことを立証しました。

かくして、貞享元年(1684)、3度目の上申を行い、暦は地によって法を起こすものという所論は『大和暦書』によって『貞享暦』採決へと進みます。

日本人の手による日本の暦は、渋川春海の弛まない努力の末完成したんですね。

中国暦にない八十八夜や二百十日などが暦の上へ加わるのは、この時からですよ。

暦が変わった最初の年の貞享2年5月の月蝕は、貞享暦にとって最初のテストでしたが、一分の狂いもなく一致したと記録されています。

そして春海はこの後、幕府天文方へと任命されていきました。

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科学の先駆者「平賀源内」

名前を聞いただけでも知っている方は多いと思います。

日本でも代表的な奇人変人の一人ですからね。

また、ウナギをくえよ、と「土用の丑の日」を発案をした人でも有名ですね。

この人は本当にいろいろなことをやっているひとですよ。すばらしい!

平賀源内の友人である杉田玄白は「ア、非常の人。非常ノ事ヲ好ミ、行ヒ是レ非常」と彼を評しています。

今日でも万能選手とか、日本の「レオナル・ド・ダヴィンチ」と言われている人ですよ。

でもね、有り余る才能を抱きながら、報われることなく不遇の生涯を送ったんですね。

今回は彼の行動の中から、科学へ志向した情熱的な一面を紹介していきますね。

平賀源内は享保13年(1728)、讃岐国志度浦(香川県大川郡志度町)で生まれいます。

幼名を四方吉(よもきち)、または伝次郎といい、後に嘉次郎、通称を源内と名乗りました。

また、父茂左衛門の没後には、蔵番役として藩へ出仕し、元内と称していたそうです。

しかし、宝暦2年(1752)、パトロンの医師久保桑閑にともなわれ、第一回の長崎での勉学を行います。

帰藩するや高松藩の薬坊主に補せられましたが、長崎遊学での見果てぬ夢を掻き立てられ、翌年7月に藩に辞職届を出しました。

加えて妹に婿を迎えて家督を譲り、燃えしきる野心を抑えようがなく、江戸遊学の機会を狙う有様となりました。

江戸へ上るのは宝暦6年(1756)3月でした。

しかしその間に、高松藩は試みに彼を起用して「磁針器」の制作を負かせています。

これはオランダ製品の模製であったと伝えています。

また、「量程器」の制作も行っています。

これはいわゆる歩行測定器みたいなものですよ。

江戸に出向くと、薬種物産の小型の博覧会の開催に加わります。

幾度かの会を繰り返し、宝暦12年には会主となり湯島で大規模な「壬午(じんご)の会」わ開きました。

「草木鳥獣魚介昆虫金玉土石和漢蛮種」など1300余種も、全国同好の士から集めたといいます。

宝暦13年(1763)7月、平賀源内は36歳。

薬種の百科全集ともいうべき『物類品̪̪隲(ひんしつ)』を刊行しました。

本の内容は金石類が117種に及び、本草書には珍しいほど鉱物類が多かったと言います。

おそらく3月に幕府が発令した「鉱山発掘冷」の影響があったからだと思われます。

また、オランダ博物学への強い関心が、同書の随所から吹き上げるように散見されます。

こうした関心はやがて刊行される明和2年(1765)の『火浣布略説』にも表れていますが、自ら洋学のトップだろうと心を砕いていました。

わけても源内の行動は活発でした。

前年の明和元年には、武蔵国秩父郡中津川村(天領地)の両神山(りょうがみ)に登った時、偶然にも石綿を発見しました。

その石綿を用い、火に焼けない布を織ることを考え、「火浣布」を製作します。

この布が油や墨で汚れても火中へ入れれば洗うように汚れた部分が焼け落ちるという布でした。

当然、世間は驚きました。

気を良くした源内は直ちに香敷(こうしき)を作り、将軍家に献上し、折から江戸参府の甲比丹(かびたん)へも贈り、幕府高官各位にも届けました。

情報は長崎にも飛んで、長崎在住の中国人から丈九尺一寸、幅三尺四寸の馬掛羽織の発注があったと言います。

続いて明和5年、源内が41歳の年、手製の寒暖計を作ります。

「寒熱昇降記」なる一文字を添えて知人らに配ったそうです。

とはいえ、この計器は今日から見ると正確さに欠けていて、ガラス管に入っていた薬水は水銀ではなく、アルコールだったみたいです。

であれば、純度によって計度が微妙に変化を見せます。

当時の科学知識では、これが限界だったのかもしれません。

しかし、自製の科学品だったことは間違いないということです。

石綿発見の翌2年には、やはり中津川村で「かんすい石」を発見し、中島利兵衛の協力でさらに、金・銀・銅・鉄・縁・青・明礬・胆礬(たんばん)・磁石などを発見して、鉱山事業への意欲はいやが上でも掻き立てられていきました。

さて、2回目の長崎遊学は田沼意次の肝いりで、明和7年のことでした。

オランダ語の翻訳を志し、10月半ば江戸から長崎へと向かいました。

トドネウスの『紅毛本草』の翻訳といい、『鐸度涅島斯(とどねうす)植物志』の翻訳とも伝えています。

いずれにしても、遊学を終えて江戸に帰ると、中津川村の鉱山事業の他に、秋田藩の鉱山調査の仕事が待っていました。

安永2年(1772)6月の終りには、秋田の院内銀山や阿仁銅山の産物採取のために陸奥に向かいます。

そして藩内採掘に努めて回り、やがてやがて秋田藩主から功を認められ、褒美金50両と御自画の雲竜図を拝領します。

これらの噂がいち早く伝わったのか、仙台藩も鋳銭のため鉱山採取が必要となり、中津川鉱山の採鉱を望み、源内に御用達方を依頼してきます。

彼は、休む暇もなく鉱山の仕事へと駆り立てられる身となりました。

安永5年11月になると、かって長崎遊学の時に手に入れた「エレキテル」(摩擦起電機)の復元に辛くも成功します。

あれからすでに7年もたっていました。

「エレキテル」とは、ラテン語の転用で、この機器はオランダやドイツでも作られ、その実験を珍重されたのは1745年頃だといいます。

以後、日本への公式な輸入を見るのは、安永2年ですが、翌3年3月、甲比丹によって幕府への献上となります。

とはいえ、それ以前に長崎へ密かに輸入されていたことは事実でしょう。

源内は意外に語学に弱く、まして電気科学にも通じていたわけではなかったのです。

だからこそ、復元はかなり難航を極めたみたいです。

江戸へ来ていたオランダ人などの知恵も借りましたが要領を得ず、むしろ、通訳の男の言葉にヒントを得て、勘を頼りに作り上げることに成功しました。

いずれにしても、いくつかのコピーを製作していますね。

科学知識もない人間が、ひとつの偶然に出会い、そしてそれに乗り、努力を重ねていくつもの驚くべき機器を創り上げた「平賀源内」は、やはり奇跡の人と呼ぶべき等しい人物です。

ただ平賀源内はこれらを作ったからといって、決して大儲けして優雅な生活をしたかといえば、そうではないんですね。

むしろ、わけのわからんものばかり作って「こいつバカか」と言われ続けたといわれています。

当時では、源内が作ったものに対して理解しえたのはほんのごく一部の人間たちだけでした。

晩年はひとり安らかにあの世に旅立ったということです。

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地動説を唱えた科学者「麻田剛立」・「司馬江漢」

「麻田剛立」は豊後国(大分県)杵築藩の儒者「綾部絅斎(あやべけいさい)」の四男として、享保19年(1734)に生まれました。名は妥彰(やすあき)。

幼少の頃から天文学に興味を持っていて、例えば縁側へ射し込む太陽の光に印をつけて時の移るのを測ったり、また、庭に日時計を作って時刻を測り、城内で打ち鳴らす太鼓の時刻の不正確さを明らかにしたりしていたんですね。

そして夜には、決まったように夜空を仰ぎ、星を眺めていたと言います。

東の空から西に動く星は多いが、聞くところによると、昔から子(ね)の方角(北)で大きく光輝く星だけは動かないと伝えていた。

大きな北の星は「北極星」と中国名で呼び、和名では子の星と呼んでいつも真北を指す星と知られていた。

妥彰は毎夜の観測でやはり北極星も動く星だと人々に知らせて驚かせています。

宝暦7年(1757)の春、妥彰は23歳で藩医に推挙されました。

名誉な就職でしたが、その実務内容は参勤交代の供をする他、藩用のため江戸や大阪への出張もあるため、自由が妨げられることとなりました。

少なくとも天文学に没頭できなくなったは事実です。

当時、妥彰は長崎で入手した眼鏡の部品を組み立て、接眼鏡に煤(すす)ガラスを装填した万里鏡(望遠鏡)を製作しています。

しかし当時は太陽を拝むだけでも目が潰れると考えてた時代に、太陽の黒点を調べようとすることは、罰当たりなとんでもないことでした。

なのに彼は、太陽の黒点の形、数などの変化を記録し、後に統計的成果を集成、黒点周期を発見、さらに太陽の自転の原則を確認することになりました。

しかし、天文の諸現象というものは、ことさらに一目を引く変化を見せることがありません。

観測データーの積み重ねの中から推理し、特種の共通性や規則性を引き出すに至るまで、地道な多くの辛苦を味わうことになります。

妥彰は時間的余裕のない宮仕えの息苦しさに嫌気がさし、ついに脱藩を企てて大阪へ出ていきました。

時に妥彰が25歳の年でした。

その時に名も改め「麻田剛立(あさだごうりゅう)」としています。

大阪の商業的中心地である船場、両替商の多い本町四丁目に「天文星暦学麻田流」の看板を揚げ、さらに医者の看板も揚げました。

商業都市での天文学は容易に通用しなかったといいます。

しかし、案ずるより生むが易しか、大阪では回船問屋が多く、航海するため天文学に関心を持つ者がいました。

業種上、松前まで船を回漕させる河原町の村井伊兵衛という昆布問屋がパトロンとなり、この人のおかげで何とか生計を立てて行けるようになりました。

宝暦12年(1762)には、翌年の日蝕が暦に記されていないのを見て、「来年の9月1日は日蝕」を予言し的中させます。

これによって門人も増えていくことになります。

20年後の天明3年(1783)には、幕府暦官と日蝕を争うことになります。

暦官が「皆既日蝕」と言い張るのに「九分欠」を唱え、剛立が勝ちをおさめます。

間違えのない完全を期すためには、恒惑星公転の確かな法則を極めなくてはなりませんてした。

高等数学的な日時算定が必要で、彼は長年のデーターをもとに、彼なりの独創的な数式をもって公転の法則を割り出したのです。

さらに天下や世間を騒がせた事件が起こります。

明和6年(1769)に発表した「地動説」でした。

まだ、ヨーロッパ諸国から地動説が紹介されていない時代だけに、「空は動いても大地は動かない」と考えていたので、世間は驚き、麻田剛立は妄言者と言う者さえありました。

剛立の弟子の「山片番桃(やまがたばんとう)」の書いた『夢の代』の一文があるので紹介しておきますね。

「日輪中央に位して永静不動。五星(木・火・金・水)及び地より恒星諸天みな日を心として西に旋(めぐ)る」。

ヨーロッパ諸国における地動説の第一人者「ケプレル」が唱えた「第三法則」は、惑星と太陽の距離とその周期の発見を、高度の数式をもって定義づけしていますが、剛立の説こそ、東洋的算出法によって西洋のそれに比肩した価値をもっていたとは、この当時、誰一人気付く者がいなかったのです。

同時代、少し遅れて「司馬江漢」が、やはり「地動説を唱えたことも忘れてはいけません。

江漢は寛延元年(1748)、江戸に生まれ、本名は安藤藤吉次郎。

40歳過ぎで土田氏へ入夫し、俗名を勝三郎、また孫大夫とも称しました。

後に名を峻、姓を司馬、字を君獄、号を江漢。また、春波楼、西洋道入、不言、無言とも称しました。

狩野派の画を学び、次いで鈴木晴信の門下に入り錦絵美人などを描きましたが、安永の初め頃から平賀源内と交わり、鉱山の探索一行に加わることになります。

その影響を受けてか磁石の不思議について記しています。

「磁石を水中に浮かべてみると南北を指して東西は指さない。針を磁石にこすりつけて南北それぞれの磁気を持たせ、水に浮かべてみると、南は北を指し、北は南を指すようになる。つまり磁石と反対になる。また二本の針を磁石の北だけにこすりつけた時は、磁石から話した時から日本はくっつかなくなる。

北は南につき、南は北につく。天の空気が引くためで、南北両端を貫く地球の地軸が天に掛かって地球が回転しているからである。ために赤道以北では磁石は北を頭にするし、赤道以南では南を頭にむする(略)」

江漢が天明8年(1788)4月、江戸を立ち西遊の旅につきます。

10月に長崎に着き、11月に平戸で多くのオランダ図書を閲覧します。

寛政元年(1789)1月、平戸を発って4月に江戸にもどりますが、こうした行動が大きな動機となって、寛政5年には『地球全図略説』や銅版画の『地球全図』を刊行します。

そして、『和蘭天説』・『天球図』などの本を献上します。

以後かれは数々の天文地理などの自然科学に関する書籍を刊行しています。

多分、この時代でこの人たちは、世界でもまれな天文学者だったと思います。

世界でも語られていなかった「地動説」を発見し、それを世間に知らしめたわけですよ。

江戸の時代は海外との交流も少なく閉鎖的でした。

当然入ってくる書物も限りがあり、参考文献など資料になるものはほとんどなかったといわれています。

その中で自分たちで考え、行動に移し、それを研究し、実証をえて確実なものにして言っています。

ある意味、日本人の気質かもしれませんが、これだけのことをこの当時考えて実行に移すことは容易ではなかったはずです。本当に素晴らしいですね。

日本最初の電信実験を行った「佐久間象山」

この人も有名ですね。興味がない人でも名前だけは知っているでしょう。

「佐久間象山」といえば儒者として、また兵学者として知られていますが、科学者としての一面はあまり知られていません。

彼は文化8年(1811)2月、信濃国松代町で妾の子として産まれています。

通称を啓之助、後に修理。字は子明(しめい)、号が象山と言います。

文政11年(1828)、17歳で家督を継ぎ、父の没後の翌天保4年(1833)、第一回の江戸遊学をしています。秀才教育を受け2年後松代藩へ帰り、御城付月次講釈助を拝命。

9年に江戸再遊となり、お玉ヶ池のほとりで象山書院を構えます。

しかし、天保12年、藩主の真田幸貫が老中職につき海防掛を担当した時、象山は顧問に据えられ、海外事情の調査を行うことになります。

象山は西洋砲術家の江戸太郎左衛門の門下生となり、自力で多くの翻訳洋書を読んでいます。

「海防八策」を建議するのはこの年の秋でした。

翻訳書によるとはいえ西洋兵学などの研究を始めたことによって、象山の学問観が大きく変わっていきました。

弘化4年(1847)に信州大地震が起来た時、堰き止められていた犀川の水の決壊は、易による見通しを立てて庶民を災難から救いました。

嘉永元年(1848)には、鞜野村(とうのむら)の奥の山地を自ら調査して、埋蔵されている鉄鉱をはじめ、緑礬(りょくばん)・硝石・代̪赭石(だいしゃせき)・硫黄・岩塩・などの資源採掘に挑んでいます。

また、一方で象山は蘭学によって西欧の知識を得るだけではなく、自らオランダ式のギヤマン瓶を製造し、石灰を焼き、大砲を造り試射を行うなど、その意欲は日増しに増えていきました。

さらに豚を飼育し、ブドウ酒も作っています。

嘉永3年に藩の鐘楼と、他藩からの使者を泊める御使者屋敷(象山が借用し、自宅としてしていた場所)の間を電線でつなぎ、日本最初の電信実験を行っています。

今の電話線みたいなもので、この人が多分世界初の電信実験を試みた人ですよ。

しかしながら、佐久間象山も時の人々にとっては、奇異な行動をとる異端者として扱われたみたいです。

理解してくれる人がほとんどいなかったといわれています。

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【江戸時代】天災を科学した先駆者たちのまとめ

今回紹介した人たちは、活動していた時代では、ほとんど報われなかった人たちばかりです。

現代にいたっては当たり前のように名前も売れて、天才とうたわれていますが、当時は全く逆で、奇人変人扱いされていました。

ただ、こういった人たちがいたからこそ、現代の技術発展があると確信しています。

日本の科学の礎を作った人たちの偉業、詳しく書いてゆけば膨大な字数になってしまいます。

今回は大まかに歴史を追っていますが、後世に残した資料は計り知れない財産となっていますよ。

のちに日本だけではなく、世界の科学者が学んだと聞いています。

また、ご機会があればお寄りいただければ幸いです。今日は最後までお読みくださりありがとうございました。

※旅好きブログです。私が旅をした記事や観光関連の記事を載せています。見てくださいね!

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