【西郷隆盛】の私学校と西南戦争

日本の歴史

NHK大河ドラマ「西郷どん」も終わってしまいましたが、私の故郷でもある鹿児島を代表する歴史的人物といえば、「西郷隆盛」だと思います。

時代の転換期を早馬のように駆け抜けた「西郷どん」。

そして素晴らしい人間性と豊かな心の持ち主でもあった「西郷どん」。

そして彼がおこなった私学校の教育方針とはどういうものだったのか。

今回はそういった「西郷隆盛」の人間性や考え方について触れていきます。

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「西郷隆盛」私学校の教育方針とは!?

まず、「西郷隆盛」の「政治理想」について触れておきます。

あまり知ってる方は少ないのではと思いますが、『西郷南洲先生遺訓』四十一ケ条に詳しく述べられています。

その一、二については次のとうりです。

一、政府にあって国の政治をするということは、天地自然の道を行うことであるから、わずかであっても私心をさしはさんではならない。

だから心を公平に持ち、正しい道をふみ、広く賢明な人を選んで、よくその職務にたえることのできる人をあげて、政権をとらせるのは、天意すなわち神の心にかなったものである。

二一、道はこの天地の自らの道理であるから、学問をなすには神(または道理)をつつしみ守り、仁の心をもって人を愛するようにし、自分の修養には己れの欲望にうちかつということを心がけよ。

二五、人を相手にしないで常に天を相手にして自分の誠をつくし、人の非をとがめるようなことはせず、自分の誠の足らないことを反省せよ。

これらは『南洲遺訓』四一ヵ条の一部ですが、天道、天、敬天愛人というように「天」という言葉がよく出てきます。

天は神と解してもいいのですが、道理と説く人もいます。

この『南洲遺訓』にあらわれている西郷の政治理想は高邁(こうまい)であり、勝海舟は西郷を「高士」と評価していますが、まさしく西郷の人間性にふさわしい評価だと思います。

この『南洲遺訓』に対して、私学校の教育目標はより具体的です。また、西郷が私学校の教育に与えた綱領は二つありますが、今回はより具体的なものを考えてみようと思います。

西郷は明治元年の「戊辰戦争の戦没者の霊を祭る」の文においてこう書いています。

思うに学校は善士を育てるところである。それは一郷村や一国だけの善士ではなくて、かならず天下の善士となることがだいじである。

かの明治元年の戊辰戦争で名分を正し、正義を行ない勇戦奮闘して戦没した人こそ、天下の善士といえるのである。

だからこれら戦没者の正義を慕い、その忠義に感じて、これらの人人をここに祭って一郷の子弟の士気を鼓舞することこそ学校の職分をつくすものである。

と、しています。

西郷は戊辰戦争という武力行使が正義の戦いであるという前提で、これを天下の人々が認めてくれるものと考えていました。

ところが、それは家屋をつくり衣服を飾り、美妾をかかえ蓄財を謀るような高位高官にのぼったかっての国事奔走者たちの私事を営む結果となり、また藩同士の私事の戦いに成り下がってしまい、天下に対しまた戦死者に対して面目ない、といっているのではと思います。

西郷の私学校設立の目的は、かの明治元年の戊辰戦争の戦死者のように、国難に挑み血戦奮闘して国難に殉ずるような人物を養成することにあったのではないかと感じています。

そして毎年、私学校生徒の中から選抜して東北・北陸等各地の薩藩戦死者(戊辰戦争従軍者約8000人のうち500余名で政府軍では最も多い)の墓を順拝させています。

明治6年(1873)、西郷隆盛がいわゆる征韓論争に敗れて辞職帰郷すると、鹿児島出身の軍人・文官で西郷について辞職帰郷するものが数百人に及びました。

これらの青年に一定の方向をあたえ、指導教育するために学校を創立することになり、西郷ら幹部の賛成を得て、明治7年6月に旧厩跡(うまや)に私学校が設立されました。

学校には銃隊学校(5600人)を原国幹が監督し、砲隊学校(約200人)を村田新八が監督しました。生徒は各組輪番で、大体午前中に登校し、『孫子』・『呉子』等の戦術や、『論語』・『春秋左氏伝』等の漢字講義が行われ、また幹部による精神訓話などもありました。

本校のほかに鹿児島市内に12の分校があり、県下諸郷にも分校が設立されています。

また、賞典学校は、西郷以下の賞典禄をもって設立された士官養成の学校で、県雇いの外人講義しました。

明治8年3名、明治9年2名にヨーロッパに留学させています。

吉野開墾社は、旧教導団生徒を収容して吉野の原野を開墾し、米・栗・サツマイモなどを植え、夜は学問をさせました。

鹿児島県県令大山綱良は、私学校の経費を県庁の金から支出したり、明治8年頃から私学校の幹部を区長・副戸長・学校長・警察官などに任用したので、次第に私学校派の勢力が強大になり、鹿児島県はあたかも「半独立国」みたいな様相を見せました。

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西南戦争の発端

西南戦争の原因を見ると、まず政府側からの攻撃が、私学校側に対して挑発という形で仕掛けられてきました。

「鹿児島県は半独立国をなして政府の統一政策に従わない」という長州の木戸孝允らの批判もあり、内務卿大久保利通は鹿児島県政改革を断行することになります。

まず鹿児島県の諸郷士族出身の警視庁少警部中原尚雄ら警官学生21名を鹿児島に派遣し、私学校の動静を探りつつ、これを離間し錯乱させようとしました。

私学校側で中原らを探索した結果、中原らが私学校派の切り崩しばかりでなく、西郷・桐野利秋らの暗殺を計画していることが発覚。

この暗殺については政府側では「視察」を「刺殺」とまちがったものであろうと弁明していますが、私学校関係者はもちろん県民も「西郷暗殺」を信じて疑わかったと言います。

また、政府は鹿児島にある陸海軍所管の兵器弾薬を大阪に移す計画を立てます。

熊本・秋月・萩と士族の反乱が続発して西南地方に不穏な空気が満ちていたので、政府は明治10年1月、三菱汽船「赤竜丸」を派遣して火薬積み込みに着手しました。

これは政府の私学校壊滅策であると憤激した血気盛んな私学校の将校は、いち早く陸海軍の火薬庫を襲って小銃や弾丸を奪い、また中原らを捕らえて「西郷刺殺」を自白させました。

しかしながらこれはうまく政府の挑発に乗らされた観があったと言えます。

この報告を受けて私学校幹部が集合したとき、桐野は年少輩が血気にはやって大事を誤った事を痛感しています。

そして遊猟中の大隅半島の根占でこの知らせを聞いた西郷は「しまった」と叫んだと言います。

すぐに鹿児島に帰った西郷は大山綱良県令を招き、「もし自分が鹿児島に在ったなら生徒をして弾薬略奪等の暴挙をさせなかった。しかし今となっては仕方がない」と語りました。

火薬庫襲撃事件は私学校の幹部たちを窮地に陥れるものでありました。

このようなことで決起することは、西郷がその信条としていた大義名分のうえからも、筋の通らぬことです。

しかし、事件の責任者として私学校の若者たちを罪人として出すことは、情義において忍び得ないところでもあり、私学校の決起は避けられない情勢となります。

また、中原らの取り調べにより政府が西郷暗殺を謀ったことに憤激し、ついに「政府へ尋問の筋これにあり」として挙兵し、ついに西南戦争に突入してしまいます。

西郷はなぜ全軍の指揮をとらなかったのか!?

さて、これまでの西郷の関係した数々の戦いがあります。

禁門の変・第一次征長の役・鳥羽伏見の戦い・上野彰義隊の戦いなどですが、朝廷の名を受けた大義名分をうえからも堂々と戦えるものであり、また、西郷の意識の上からも、戦いの勝利により世の中はよくなるだろうという「義戦」であるという考え方であったはずです。

だからこそ西郷の私学校は「皇室の大事、あるいは外交上の難問題が起こった場合、その国難に私学校の生徒を使いそれに当たらす」という意図であったはずでした。

それが政府の挑発にあって、やむを得ず決起せざるを得ないことになったということです。

しかも2月29日には政府軍に征討の号令が発せられ、25日に西郷・桐野・篠原国幹らの官位が奪われるという状況に陥りました。

薩軍側では篠原国幹・村田新八・永山弥一郎・桐野利秋・池上四郎・別府晋介らが大隊長となり、重要な軍議は西郷を含む大隊長の合議で決定しています。

率兵上京に際し、西郷小兵衛の「三道分進策」と、桐野利秋の「熊本城攻撃策」の両案が提議されたとき、合議のうえ西郷の決により桐野の「熊本城攻撃策」が決定されました。

このように西南戦争は政府の挑発により起こさざる得なかった戦いであったので、西郷の立場はどちらかというと受け身の姿勢であり、桐野利秋以下の壮年の指揮官に戦闘は任せたのであろうと思われます。

しかし、明治10年2月の決起から9月末の城山の陥落による戦争の終結まで7カ月間の長期にわたりますが、この間、薩軍側には内部的な裏切り行為は一切見られませんでした。

他の場合には、敗戦になると内部的によく裏切り行為が見られますが、薩軍の場合にはそれが見られないのは、創師西郷隆盛の人徳のせいであったと考えます。

豊後中津隊の解散に際して、隊長増田宗太郎は隊員に帰郷をすすめましたが、自らは西郷の魅力に取りつかれ、「一日接すれば一日の敬愛を感ずる、西郷先生と別れられなくなった」と述べて、9月3日、貴島清とともに米倉攻撃に参加し殉職しています。

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【西郷隆盛】の私学校と西南戦争のまとめ

西郷隆盛を語る時、絶対に外せないのが、この人の人格でした。
私学校の幹部・学生だけではなく、鹿児島県民からも厚い信頼を受けていて、今でもその姿は何一つ変わっていません。

私の故郷である鹿児島県志布志市、この実家には今でも西郷隆盛の複製画が飾られています。

日本のために、そして全国民のために、創生たる思想のもとに幕末から明治の時代を駆け抜けた「西郷隆盛」、よく「坂本龍馬」と比較されますが、私にとっては対象となる前に、また、比べることができないぐらい、尊敬にあたいする偉大な人物だと確信しています。

また、ご機会があればお寄りいただければ幸いです。今日は最後までお読みいただきありがとうございました。

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