戦後70年が過ぎ、年とともに戦争の記憶が薄れていく中、とてつもない歴史上の過ちを犯した昭和の時代。
明治・大正・昭和と近代化が進むにつれて、自国の富を過大評価しすぎた人たち、そしてただ精神論のみで、なんでも打破できると信じた軍人たち。
すべての国民がその過ちの中で掻きまわされ、何十万もの尊い命を奪った「太平洋戦争」は、残念ながら負の遺産を残しただけに過ぎませんでした。
よく、アメリカとの駆け引きという中で、政治的背景が取りざたされていますが、実際のところはそうではありません。
その気があればこの戦争は止められたはずでした。
日米開戦前の日本に対するアメリカの「暗号」解読

この艦には、米陸軍の暗号専門官「フランク・B・ロウレット」を団長に、陸海軍各2名の暗号将校が便乗していたと記されています。
この使節団は、前の年の11月末に米・英両国間で結ばれた、暗号解読資料の交換を含む技術協定にもとずいて派遣されたものでした。
この時に、この使節団が携行した暗号物件の資料がごく一部ですが公開されているので載せておきます。
これは米国が英国に提供した暗号関係物件の一覧の一部です。
●日本外交用
パープル暗号機2台 暗号機の規約 3文字コードブック 解読技術開読書
レッド暗号機2台 暗号機の規約 解読技術解説書
領事館用暗号書2部 2次作業用の規約
Jー17暗号書
外交用暗号書2部(秘密度の低いもの)
●日本海軍用
艦隊用暗号書2部 乱数表 解読技術解説書
輸送船用暗号書2部 2次作業用の規約
海軍武官用暗号書2部
無線用呼出符号書2部
日本外交用にある「パープル暗号機」とは、「九七式欧文印字機」(昭和12年製)の模造機のことで、暗号機とは原文を入力すると暗号文に変換し、逆に暗号文を入力すると原文に翻訳してくれる機能を持った機械です。
「九七式」の模造1号機は、昭和15年8月に完成していたといわれています。
そのためには、2年間という月日と、多数の暗号文の解読から判明した換字表の仕組み、昭和14年にニューヨークの日本総領事館から盗写した関係資料(3文字コードブック)、そして「ウィリアム・F・フリードマン」をはじめ多くの関係者の、文字どうりノイローゼになるぐらいの努力が必要だったといいます。
英国に供与されたのは、模造の2号機と3号機でした。
ニューヨークの総領事館で盗写された「3文字コードブック」は、日本語の起案文をローマ字表記する際、慣用語や数字などをアルファベット3文字に置き換えるための辞書のようなものです。
パープル暗号の原文を完全に翻訳するためには欠かせないものであったといいます。
「レッド暗号機」は、九七式が装備される以前に使われていた「九一式印字機」(昭和6年製)模造機で、昭和11年に完成していたようです。
「九七式」がすべての在外公館に行き渡らなかったため、ソ連のウラジオストク領事館などでは、「九一式」がそのまま使われていました。

外務省の暗号機は、開戦後も枢軸国や中立国の在外公館と東京の間でそのまま使われていたため、終戦まで貴重な情報が米英側に漏れ続けていたことになります。
次に、日本海軍用の欄にある「艦隊用暗号書」は、昭和14年6月から翌年の11月末まで使われていた暗号書です。
日本海軍は、この暗号で初めて乱数表を併用するようになりました。
基本暗号書には、各原語に5桁の数字コードが不規則に割り当てられています。
暗号化には、ある原文を基本暗号書で5桁の数字コード群に置き換えて、さらに二次作業として、乱数表の5桁の乱数列を加えていました。
数字コードと乱数の計算法には、繰り上がりをしない算術計算が使われていました。乱数表は100ページ綴りで、各ページには5桁の乱数が100組ずつ印刷されており、どのページのどの個所からでも使ってよいことになっていました。
このような使い方を「有限乱数方式」といいます。
「艦隊用暗号書」の解読には、このシリーズの過去の解読成果が役に立ったといいます。暗号書を改訂しても、ほとんど原語の語彙(ごい)は変わらなかったからです。
なお、すでに使われていない「艦隊用暗号書」を米国が英国に供与したのは、当時使われていた同じシリーズの暗号「海軍暗号書D」を解読するための参考資料であったと思われます。
この「海軍暗号書D」は、昭和15年12月1日に使われ始め、乱数表も500ページに増やされていました。昭和16年12月4日、日本海軍は海戦に先立ち乱数表のみを更新しました。
ところで、昭和17年の春、英国は米国に対しての見返りとして、ドイツが陸海空軍のほとんどの暗号電報に使った「エニグマ暗号機」とその解読資料を与えました。
こうして、米英両国の暗号解読面での協力関係は、昭和16年春から翌年の春頃までには、ほぼ確立されていたと思われます。
その結果、日本関係の通信情報は「マジック」、ドイツ関係の通信情報は「ウルトラ」とそれぞれ呼ばれ、太平洋戦線とヨーロッパ戦線とで、互いに効果的に結びつくことになります。
これが日本とドイツを敗戦に追い込んだ大きな要因のひとつとなったわけですね。
なお、陸軍の暗号が傍受・解読対象となるのは開戦後のことだったみたいです。
太平洋戦争直前の日本のGNPは!?


それは「米英ニ対シ外交手段ヲ尽シ、十月上旬頃ニ至ルモ帝国ノ要望達成ノ目途ナキ場合ハ直チニ対米英蘭海戦ヲ決定スルコト」というものでした。
この会議の席で、天皇陛下は杉山参謀総長に「もし、アメリカと戦うようなことになったら、陸軍はどのぐらいの日子(につし)を要するとおもうか」と尋ねた。
杉山は自信をもって、「約3ヶ月です」と答えた。
それで天皇陛下は、「日華事変がはじまったとき、約1ヶ月で解決すると言ったではないか、それが4年もかかっている」といったという。
言葉に詰まった杉山は「中国はなにぶん地域が広いので」と弁解した。
しかし天皇陛下は重ねて言った。
「太平洋は中国より広いではないか」と。
10月18日東条内閣が成立しました。
東条は国策遂行の方途について再検討するため、大本営政府連絡会議を開きす。
この時点では東条は慎重で、むしろ参謀本部の「即時対米交渉断念、開戦決意、十二月初頭戦争発起、今後の対米交渉は偽装外交とす」という結論に押し切られた観がありました。
ともあれ、数々の議論があり、ついに「交渉不成立ノ場合ノ戦争決意ヲ為シ其ノ準備ヲ促進スルモ外交交渉ヲ行フヘキコト」となり、「十二月初頭ヲ目途トシテ」戦争準備に入ることになります。
米英の凍結令実施以来、軍需物資、特に石油の輸入はほとんど不可能で、このままでは、いわゆるジリ貧となり、やがて足腰が立たぬ状態に陥るというのが東条と統師部の合意点でした。
確かに石油などの燃料は不足をきたし、海軍は約2年でまったく機能を失い、重要産業も麻痺するという状態でした。
永野修修身軍令部総長の「1時間に400tの油を消費している」という言葉に緊縛した空気が感じられます。
東条も長期戦は不利と考えていました。
それでドイツ依存の予想を立てていたといわれています。
「昭和17年の末までにヒットラーはソ連を徹底的に撃破する。
したがってイギリスは降伏するであろうし、アメリカは戦意を失うであろう。
とにかく1年間持ちこたえれば日本は勝つ。」と言ったそうです。
これは今にしてみれば、非科学的そして非論理的以外何物でもないと感じます。
この当時の企画院の計算が公表されていますが驚くべき数字でしかありませんね。
石油の場合、国内保有量は840万キロリットル(7割が軍需用)、国産原油・人造石油はそれぞれ年に40~50万キロリットル。
これではいくら過大に見積もっても当時の日本では3年間しか持ちません。
ともあれ、日米戦力の差は大きく、アメリカ10に対して日本は1、つまり10対1ということです。
緒戦における日本の兵力は陸上部隊一個師約100万、戦闘用艦艇は空母8を含む288隻83万3937t、航空兵力は陸海合わせて約2600機でした。
これに対してアメリカは空母6を含む433隻146万t。
イギリスは空母7を含む383隻176万t、太平洋方面の連合軍兵力は陸上部隊35万、航空部隊1300機と推定されています。
アメリカの場合、終戦時の対日戦に当てた空母は26隻、航空機は約1万機です。その大部分はB29などの大型機でした。
開戦時はそれほど差がありませんが、終戦時には格段の差がついています。
これでは「精強無比」の陸軍も「無敵」の海軍も勝算が立つわけがありません。
この太平洋戦争すべてが安易であったと感じます。
実際の戦争における被害額は約1340億円に及び、30万平方キロメートルの領土を失っています。
戦力もさることながら、経済力の差もかなり大きかったと言えます。
国民総生産(GNP)額は日本の403億円に対して、アメリカは1264億ドルでした。
当時のアメリカとの比較表も公表されているので載せておきます。
●石炭生産高 日本 463万4千トン アメリカ 4313万トン
●原油生産高 日本 2万3千トン アメリカ 1578万9千トン
●鉄合金生産高 日本 35万9千トン アメリカ 422万7千トン
●鉄銅生産高 日本 57万トン アメリカ 626万2千トン
●銅生産高 日本 8万7千トン アメリカ 76万9千トン
●セメント生産高 日本 48万6千トン アメリカ 127万2千トン
●アルミニウム生産高 日本 5万5千トン アメリカ 28万トン
●自動車生産台数 日本 2750台 アメリカ 23万8千台
●商船保有トン数 日本 447万5千トン アメリカ 1178万8千トン
昭和16年度の歳出(一般会計・特別会計)の総計は457億3千900万円、そのうちの臨時軍事費は94億8千700万円です。
これはもう国家予算とは言えない。
大日本帝国負の遺産まとめ


「数字がものを言う」ではありませんが、これで喧嘩を売ることが「俺を潰してくれ」と言わんばかりの行動であったと思うしかありません。
愚かな人たちの考えのもとで揺れ動かされた昭和の初め、「宣戦布告」という意味を理解しえなかった軍令部の幹部、すべてが後手に回り軍事が政界をも飲み込んでしまい、邪悪な道へと導かされて行きました。
この戦争は大正の終り頃からすでに始まっていたといっても過言ではありません。
この時代に生きた人々の苦しみを考えると気に耐えないものがあると言えます。
今はよく「もう戦後ではない」と言います。
確かにこの戦争を引きずっていても仕方ありません。
ただ、日本の歴史の中で国家自体がこれほど国民に対して苦しめた出来事は無かったように思えます。
今後の日本を考える時、対外というよりも、日本国家の政治家たちは、国民に対して「太平洋戦争」という「負の遺産」を背負って考えてもらわなければ、今すぐにこのことを国民の中から打ち消すことはできないのではと考えてしまいます。
またご機会があればよろしくお願いします。今日は最後までお読みいただきありがとうございました。
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