薩長同盟、分かりやすく説明、秘められた密約

日本の歴史

今回は幕末に起きた「薩長同盟(薩長盟約)」について記していきます。

後の明治維新に大きな影響を与えた「薩長同盟」、これがなければまた日本の進むべき道は、大きく変わっていたかもしれません。

とかく、薩摩と長州の軍事同盟に取られがちですが、実は深い意味があったんですね。

ここでも坂本龍馬が登場してきます。

やはりこの人がいなければこの密会はありえなかったのかもしれません。

今回はそんな「薩長同盟」の中でのあまり知られていない、ことを記していきます。

スポンサーリンク



本当の「薩長同盟」の意義

薩長同盟(薩長盟約)」は、幕府が長州再征へむけて準備を進めるさなかの慶応2年(1866)1月22日、薩摩藩の小松帯刀・西郷吉之介と長州藩の木戸孝允との間で成立しました。

場所は京都薩摩藩邸、土佐の坂本龍馬が立会人として同席しています。

木戸は坂本に宛てて内容の確認を求めた1月23日付けの書簡で、盟約を6ヵ条にまとめて見せました。

①長州再征によって幕長開戦となった時には、薩摩藩はすぐさま2千余の兵を急いで上京させ、京都・大阪を固めること。

②戦争の形態が長州藩側にとって勝勢であれ敗勢であれ、また、たとえ開戦にいたらなかった場合でも、薩摩藩は長州藩のために朝廷にむけて「周旋尽力」すること。

③一橋慶喜や京都守護職の会津藩、京都所司代の桑名藩などが朝廷を擁して「周旋尽力之道」をさえぎる時は、薩摩藩は武力行使をも辞さないこと。

などをあげています。

最終的な繊細な6ヵ条はわかっていませんが、大まかな内容は上記のものです。

幕府側の長州藩にむけての処分布令

このように盟約では、薩摩藩がやらねばならないことだけが長州藩にむけて約束されています。

長州藩が薩摩藩に向かって約束していることは何ひとつありません。これはどういうことか、またその約束の中心である、薩摩藩が長州藩のために朝廷に向けて「周旋尽力」するとは、具体的に何をどうするのかということです。
これらの点は、木戸書簡に見える盟約条文だけを見ても分かりません。

それは、盟約がどのようにして成立したかという、西郷らと木戸との交渉の中身にかかわる問題だったのでしょう。

ちょうどこの時、幕府は一昨年の元治元年(1864)に実施した第一次長州征伐に決着をつけるために、長州処分を決定しようとしていました。

十万石削地、藩主・世子ともに退隠隠居というのがその主な内容です。

それが朝廷から許可されて、正式に決定するのが1月22日。1カ月後の2月23日には、幕府は長州藩がこの処分を受け入れなければ再征を実施すると布令することになります。

西郷と1月8日に入京した木戸とは、この長州処分がどう決定するかということを横目でにらみながら交渉を続け、22日の処分正式決定を見届けたうえで盟約を成立させたのでした。

スポンサーリンク



長州藩の意思

交渉の席で西郷は木戸に対し、後のことはともかく、この場は長州藩がこの処分を受け入れてくれるように要請します。

薩摩藩としては、長州藩が処分を受け入れなければ、幕長戦争が始まり、それはさらに全国的に内乱に広がりかねないという危機感がありました。だから何とかそうなるのを避けようとしていたのは確かです。

しかし、木戸はこの要請を突っぱねます。木戸にも言い分はありました。

「長州処分というけれど、第一次長州征伐の際、長州藩は3人の家老を切腹させて謝罪したではないか。

これ以上何をする必要があるか。そもそも長州藩が禁門の変以来、朝敵とされているのは不当である。

だから政治的復権がなされることを望んでいるのだ。処分の受け入れなどはとんでもない。

何もあえて戦争しようとは思わないが、幕府が攻めてくるのであれば徹底抗戦するまでだ。」
この木戸の言い分を聞いて西郷は説得をあきらめたといいます。

薩摩藩の意思

しかし、薩摩藩は内乱になるのをあきらめたわけではありません。

そこで薩摩藩はこういう方策を考えてみました。

長州藩が朝敵とされて内乱の火種になり、長州処分や長州征伐が行われようとしているのは、勅許(ちょっきょ)「みことのり・命令」という形をとった天皇の意思がもとにある。

だからここはひとつ朝廷にはたらきかけて、天皇に考えなおしてもらうほかはない。

「恐れながらこの上は、主上みずから罪を御引きあそばされ候て、ごく寛大な処置これあり候よう仰せいだされ候ほか手段これあるまじく、さ候時は幕長ともに折合の廉(かど)もこれあるべし」

天皇みずから長州処分をごく寛大なものにあらためると言ってもらえれば、幕府も面目が立ち、長州藩も満足して、お互いの折り合いもつくだろう。

これが早くに実現できれば、幕長戦争も始まらないしもし始まってしまった後、実現しても戦争を止めさせることができる。

そして長州藩が望んでいる政治的復権も実現の見通しが立つはずである。薩摩藩はこういう方策をとることを決心しました。

薩摩藩はこのことを交渉の中ではすぐには木戸に言いませんでした。

言って得になることではなかったからです。

しかし木戸から「押し詰められ、よんどころなく洩らし候事」になります。

スポンサーリンク



「薩長同盟」のまとめ

このような交渉経過をたどって、薩摩藩が先のような方策を踏まえて決定した行動方針を、木戸が細かい点にわたって聞き出したものが、すなわち「薩長同盟」です。

だから当然にも、盟約では薩摩藩がやらねばならないことだけが約束された形に見えるわけです。
そして薩摩藩が約束する朝廷に向けての「周旋尽力」の中身は、最終的には長州藩の政治的復権を天皇の意志によって実現させることでありました。

付け加えておけば、「薩長同盟」の全体的な目標は、全国的な内乱の危機を避けることであったといえます。

「薩長同盟」は武力討幕のための「軍事同盟」とするのが通説ですが、こういう事実を理解するとそう簡単にはいえないのではないだろうかと思えてきます。

この文章はあくまでも持論であり、公的文章ではありません。

それぞれの見解を示すという意味での中で、展開する文章です。

最後に、「薩長同盟」と言われていますが、この言葉はあくまでも通称ですね。

薩摩、長州の間では「薩長盟約」と言われています。

また、ご機会があればお寄りいただければ幸いです。今日は最後までお読みいただきありがとうございました。

※ブログ内の記事はこちらからどうぞ。

コメント

タイトルとURLをコピーしました