コレラ騒動、日本中を恐怖に陥れたコロリショック

災害の歴史

安政5年(1858)、今から162年前の日本で「コロリ」という名の感染病が大流行しました。

日本中の人々を恐怖のどん底に陥れ、今の新型コロナウィルス同様、瞬く間に感染し多くの人の命を奪った疫病です。

感染病というのは日本の歴史の中で何度も日本国土を脅かしてきましたが、この幕末に起きた「安政コロリ」は、歴史上でも被害が大きがったものと言えるでしょう。

現在もコロナ禍の中、日本中が苦しんでいます。

ここまでくると後はワクチン頼みになるのかな、と思ったりもしていますが、相変わらず増え続けている感染者の数に、先が見えぬ不安ばかりが先立っている気もしますね。

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安政5年のコロリショック

日本にコレラが最初に上陸したのは、文政5年(1822)のことでした。

西国の方から上方に広がりましたが、幸いにもこの時は箱根の山を越えなかったということです。

ところが、36年後の安政5年、再度来襲したコレラは文政の感染威力を大きく上回り、九州・四国・から大阪・京都・江戸、さらには遠く北海道の函館にまで及び、全国に膨大な感染死亡者を出してしまいました。

安政5年と言えば、徳川幕府がようやく開港にふみきり、一方「安政の大獄」などの事件が相次いでいた幕末動乱のさなかでしたよね。

しかしながら、庶民はとってはそうした政治の動きより、命にかかわるコレラの方がはるかに重大な事件だったと思います。

奇妙なお祭り騒ぎとなったコロリショック

安政5年の気象状況を調べてみたら、この年はいまでいう冷夏にあたり、全国的に雨も多く、梅雨明けもかなり遅かったのではないかと推測できます。

もちろん、この当時の気象状況というのは梅雨入りや梅雨明けといった気象状況を伝えるすべはなく、書物に残る記録以外頼るものがありません。

さて、そんな例年と違ったじめじめとした8月に、江戸に時ならぬ奇妙な祭りが始まったと記されています。

街角には斎竹(いみだけ)を立て、軒にはしめ縄をはり、提灯をさげ、門には松竹を飾り、鎮守の社からは神輿や獅子頭を担ぎ出し、節分でもないのに豆をまいたりしたということです。

さらには夜になるとかがり火をたいたり、鉄砲を放ったりと、何かにすがるかのようにそして何かを寄せ付けないために、繰り広げられていたということです。

これは、江戸だけではなく、この奇妙な祭りごとは、すぐに日本全国に広まり、何かにすがる思いでほとんどの人々が狂乱しました。

のちに、日本全国に広まったこの奇妙な祭りを「コレラ祭り」と呼ぶようになっています。

さて、このコレラが広まった状況を繊細に記録し続けた当時の人物がいます。

江戸の神田明主「斎藤月岑(さいとうげっしん)」。

当時書き続けていた『武江年表』というのがありますが、この中に次のように記録されています。

七月の末頃から、都下に疫病がはやり、芝の海辺、鉄砲州、佃島、霊岸島のあたりにはじまり、家ごとにかからないものはない。

八月の始めからは次第に盛んになり、江戸中ならびに近在にはびこり、即時に病んで即時に死んだ。

始めの頃は一時に五人七人、次第にふえて軒ごとに、一つ家に枕を並べ、路頭にはいつくばって死ぬものもある。

この病気は暴瀉(ぼうさ)、俗に「コロリ」といった。

「安政コレラ」の不気味な幕開けをリアルタイムで描いていますが、この斎藤月岑も姉と姪をコレラで失い、彼が支配する町でも70人以上の人が亡くなったと記されています。

これだけ猛威を振るいだしたコレラ、葬儀も大変だったみたいですね。

「各寺院も葬儀にかかって片時の暇もない。日本橋、永代橋、両国橋あるいは浅草、下谷、三田、四谷その外寺院の多いところでは、陸続として引きもきらず、日本橋辺ではこれを見ること百に余る日もあったという」

と記されています。

今と違い感染対策など無きに等しい時代ですから、棺を作りそれを運んだ人やそれにかかわった人たちも次々に感染し亡くなっていったということです。

おびただしいほどの棺桶と埋葬の炎

このとき、人々がまず驚愕したのは斎藤月岑も伝えていた「即時に病んで即時に死んだ」というように、これまでの疱瘡(ほうそう)いわゆる「天然痘」や瘡毒(そうどく)いわゆる「梅毒」や労咳などと違い、その病勢の敏速差にあったのではと思います。

この病勢の速さと死亡率の高さによる急激な大量死という事態は、当然のことながら人口密集の都会、とくに江戸おいては感染が著しく激しかったといえるでしょう。

この状況下で斎藤月岑とは別に、この江戸状況を書き記した人物がいます。

その人の名は「金屯道人」、その年の9月に『安政箇勞痢流行記概畧』(あんせいころりりゅうこうきおほむね)と題した一冊を刊行し現在でも早稲田大学に保存されています。

この中で彼が当時のありさまを次のように記載しています。

安政五年六月下旬、これは東海道の方から流行り始め、江戸近国一帯に拡がって、この病気に犯される者は、九死に一生を保つ者は稀であった。(中略)

大江戸では七月上旬ごろ流行は赤坂付近から始まり、霊岸島付近でも多発した。

そして数日のうちに各所に拡大し、八月の上旬より中旬に至って病勢はますます盛んで、死亡者は多い所では一つの町内で百人以上、少ない所でも五十人ー六十人、葬礼の棺は大道小路につながり、昼夜をわけて絶える間がなく、江戸府内数万の寺院はどこも門前市をなし、焼場の棺はところ狭きまで積みならべて山をつくった。

やはり、この当時の疫病による大量死にともなう、もっとも切迫した問題は、埋葬の混乱にあったみたいですね。

死亡者の大量続出にともない、火葬が間に合わず、どこの焼場も担ぎ込まれた棺でいっぱいになり、9月には600人以上もの焼き残りの棺があったといわれています。

また、時期が夏場であったことが災いし、腐敗の速度が激しく、あたり一面は人が近寄れないほどの臭気が漂っていたとも記しています。

さすがに幕府も見かねたのか、この時、寺社奉行の御触れで「火葬ではなく仮埋葬してもよい」という触書を発動しています。

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安政コロリの発端

江戸をこのようなパニックに巻き込んだコレラの日本上陸地点は九州の長崎港でした。

このときたまたま、長崎海軍伝習所に派遣されていたのが「勝鱗太郎」、のちの「勝海舟」ですね。

勝鱗太郎はこの騒動の一部始終を目の当りにした人物でした。

彼が書いた回想録『海軍歴史』に、次のように記されています。

同七月末英艦五、六隻長崎入る。これ上海辺でコレラ病大いに流行するに遇い、直ちに上陸し、且港内に突入する。

怱ち市中これを病発し、死する者算無し。幸いにしてわが生徒二、三名、水卒七、八名に止まり、皆劇症にして即日死す。痛むべし。

軍医ポンペ氏その予防法を建言し、又わが輩も『カランテーレン』の建設を云う。

一時人心狂するが如く、昼夜鼓鉦の声喧しく響き、烽火(のろし)の光四方の峰々に輝き薄氷を踏むの思をなす。

英艦の士の上陸するや、井戸を求め、その水を清潤を察す。この地の民流言していう、英人の毒を流せるなりと

当時の長崎の人口は約5万人と言われています。

このうちの7千人以上がひと月のうちにコレラの犠牲になったといわれています。

この時、長崎に居留していたオランダ人軍医「ポンペ・ファン・メーデルフォールト」はその著書『日本滞在見聞録』に「1856年7月、米艦ミシシッピー号が中国から日本にコレラ菌を持ち込んだ」と記し、コレラの予防策を指導しています。

となると、当時のコレラの発生元は中国であったのか、ということになりますよね。

しかしながら、どの文献を見てもこれ以上のことは記されておらず、実際に「ポンペ・ファン・メーデルフォールト」氏の書いたことが真実かどうかもはっきりしたことがわかっていません。

ただ事実なのは、江戸を騒がしたコロリの発症は長崎にあったといえます。

さて、勝鱗太郎氏が『海軍歴史』の中で『カランテーレン』という言葉を使っていますが、これは今でいう「検閲所」みたいなもので、彼は、大変なことになることを恐れ、この建設を進言したのだと思います。

ところが長崎奉行所はこの進言を聞いたのにも関わらず、まったく取り上げなかったみたいですね。

結局そのことが、日本全国にコレラの広がりを拡大させた大きな要因になっており、この時に水際対策を施していれば少なからずもここまでひどくならなかったのではと感じています。

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コロリは妖怪の仕業!?

さて、「コレラ祭り」と冒頭にも記していますが、その発端も長崎にありました。

長崎でコレラが猛威を振るいだしたころ、市中の様子を当時の外国人たちの日記や著書で垣間見ることができます。

「市民は神様を担いで市中を練り歩いた。こうして疫病の神を追い祓おうというのである。外国人にとってはまったく望ましからずことであった。」

とポンペ氏も書き記しています。

当然、ほとんどの外国人が長崎市民の迫害にあっており、外人と接触する機会が多かった長崎の人々は、その怒りが騒動をさらに激化させたのでしょう。

こうして長崎に上陸したコレラ菌は、瞬く間に九州を出て、東海道を登っていくことになります。

東海道の宿場町でも当然のことながら病魔は広がり、様々な流言が乱れ飛び、人々は神や仏に群がっていきました。

こうして騒ぎが広まっていくと、今のSNSと同じで、話が色々な方面に拡散していきます。

人知のおくれた地方では、コロリは白狐の仕業と信じられ、お社からお犬さままで借りだされるしまつでした。

また、現在の愛知県から静岡県にコレラが蔓延し始めたときには、この白狐騒ぎは大きくなり、コロリが感染した人は白狐がついていると思われ、浜辺に連れていき、溺死させられた人も多くあったといいます。

結局当時の人々は、瞬時にして人命を奪っていく正体不明の疫病に恐れおののき、これを妖怪の仕業として思い込み、神輿を担いで踊りまわったり、妖怪が入ってこないように鉄砲を放ったりしたのでしょう。

そしてコレラは止まることなく進撃し、ついには箱根の山を越えて関東地方に入り込み、江戸市中を混乱の渦に巻き込んだのです。

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コレラ騒動、日本中を恐怖に陥れたコロリショックのまとめ

テレビでも伝えていましたが、全国各地で花火が抜き打ちで上がっていますよね。

私の住んでいる地方では、今でも1週間に1度のペースで花火が、約10分間上がっています。

ちょうど2階にあるオフィスの窓から見えるので、毎回見させていただいていますが、早くコロナも収まってほしいものだと思ってやみません。

もともとは疫病や災いを封じるための願いを込めたのが始まりとされていますが、安政のコレラの時も多くの花火師たちが花火を打ち上げて祈ったそうです。

この安政のコレラ騒動、現代のコロナ騒動に置き換えてみてもあまり人の考えることや行うことはたいして変わらないな、と思ってしまいます。

よく風評被害と言いますが、これも同じですよね。確かに、マナーを守らない人も多くいますよ。

でもコロナ禍の中、大勢の人が色々な形で頑張っているのは確かです。

自粛にしてもそうですし、会社がテレワークを推進するのもそうですよ。

医療機関の人はもう半年間もコロナと戦っているんですよね。

日本の歴史の中で、こういった疫病の災い、自然災害の災いというのはいくつも事例があります。

コロナだけではなく、これからも未知の細菌が出てくる可能性も多く指摘されています。

私もこのブログの中で、少しばかり歴史を振り返り過去の事例を取り出して、何かお伝えできることはないかと奮闘しております。

■参考文献
●斎藤月岑『武江年表』
●金屯道人『安政箇勞痢流行記概畧』
●勝鱗太郎『海軍歴史』

また、ご機会があればお寄りいただければ幸いです。今日は最後までお読みいただきありがとうございました。

※旅好きブログです。私が旅をした記事や観光関連の記事を載せています。見てくださいね!

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