浜田省吾、路地裏の少年とともに歩んだ自分の人生

生活記事

だれもが心に残る歌、または人生の中でずぅ~と聞き続けている歌、年代に関係なく、人それぞれが自分の魂と思って聞いているのでないでしょうか。

私も自前ですが、人生の中で45年以上もの間、聞き続けているアーティスト、そして曲があります。

今回はそのアーティストをテーマに、自分の人生を振り返り、少し語らしていただこうと思います。

還暦を迎えた今、自分の人生を振り返ってみると、さすがに60年間生きてきただけあっていろいろなことが思い浮かびます。

悲しいかな、身体も年を追うごとに衰えていくことを実感している今日ですが、若いころに聞いた曲というものは、不思議なもので、今でも初めて聞いたときの衝撃を昨日の出来事のように覚えていますね。

多分、いや、絶対にこの世を去るまでは聞き続けていくことでしょう。

この歳になってくると、生まれて歩んできた年月よりも、これから歩んで死んでいく年月のほうがはるかに短いとわかっています。

だからこそ若いころ聞いた曲なんかを、がむしゃらに聞くんですよね。

今日はいつもと違い少し砕けますからね。

最後までお付き合いくださいな。

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衝撃! 浜田省吾、「愛奴」との出会い

浜田省吾さんの「路地裏の少年」を初めて聞いたのは、いまから45年前の高校1年の時でした。(少し記憶があいまいです。)

その1年前ぐらいだったと思うのですが「愛奴」を広島で見たんですね。

確か、友達のお父さんがファンで一緒に連れて行ってもらったのを記憶しています。

コンサートというか、今でいうLIVEみたいなもので、そんなに大きくないライブハウスみたいな場所だったと思いますね。(これもあいまい)

そこで聞いた愛奴の音楽に衝撃を受けてしまったんですよ。

最後にバンドメンバーが紹介されたときに「浜田省吾」ドラムス、ギター「町支寛二」の名前が妙に印象に残ってしまいました。

帰ってから1が月後ぐらいにすぐ愛奴のレコードを買いに行ったんですけど、近くのレコード屋さん2件回っても置いてなかったので博多まで探しに行きました。

すると6件目ぐらいだっと思いますが、あったんですね。確か300円ぐらいだったと思います。

その時買ったレコードが、愛奴「二人の夏」だったんですよ。

今でも持っていますよ。

でも、家にプレーヤーがないんで、その友達の家に行って毎日のように聞いていたのを思い出します。

私は中学3年の中ごろからギター弾きだしたんですが、始めた理由は「女の子にもてたい」ただそれだけでしたね。

家も貧乏だったので、ギターなんか絶対に買ってもらえず、隣の家へいつも弾きに行っていました。

隣の大学生のお兄さんとなかが良くて、毎日のようにギターを教えてくれたんです。。

ある日、そのお兄さんの家が引っ越すようになり、練習で使わせてもらったギターを私にプレゼントしてくれたんですね。

本当にうれしかったのを覚えています。

後でわかった話なんですが、そのプレゼントしてくれたギターはなんと「ギブソン」だったんですよね。

もらった当時はギターメーカーなんて知りませんでしたから、驚くことはなかったし、ただギターをもらったということがうれしくてたまりませんでした。

そこからギターにのめり込んでいき、受験勉強そっちのけで練習しました。

おかげで高校受験に失敗し、滑り止めで受けていた高校に行くようになりました。

さて、高校に入りクラスの人の誘いもあってフォークソングクラブに入りました。

初めて自分のギターをクラブにもっていって見せたとき、わかったんですね。

先輩たちがいきなり騒ぎ出して、「ギブソンじゃないか、お前すげ~ギターもってるな」といわれたんですよ。

そこで初めて、もらったギターがただものではないと知り、自分も驚きました。

そこから私の音楽人生が始まったんですね。

話が長くなるので中略していきますね。

高校1年の終わりごろから知り合った音大のおねえさんに誘われて、ピアノを弾くようになりました。

音楽活動も学校内のクラブだけではなく、有志の音楽クラブに入り北九州を拠点に活動を広げていきました。

そのおかげで高校2年のになったころは、北九州では少し名が売れていたんですよ。

衝撃! 浜田省吾、「路地裏の少年」との出会い

そんなある日、福岡にあったプロダクションの裏方の手伝いをよくしていたんですが、小倉にあるパブに「なぎら健壱さん」がくるということで、ステージの裏方の手伝いをお願いされたんです。

行ってみるとなぎらさんともう一人来ていた人、その人が「浜田省吾」さんだったんです。

すぐにわかりました。

楽屋で私から声をかけて「愛奴の浜田さんですよね」、と言ったら「そうだよ、でも愛奴は解散したからソロで活動し始めたんだよ。」今でもこの言葉は覚えています。

そして浜田さんがギター1本とハーモニカで、「路地裏の少年」を熱唱したんです。

衝撃でした。

ほかにも3曲ぐらい歌ったんですが、あまり覚えていませんね。

とにかく歌詞に、そして曲に感動してしまって鳥肌が立ったのを覚えています。

終わった後、楽屋で5分ぐらいかな、話ができました。

感動したことを伝えると、本当に喜んでくれて「また会おうな」といって別れました。

それからすぐに小倉のヤマハに行き、「路地裏の少年」のシングルと「生まれたところを遠く離れて」のアルバムを買いました。

それ以来、浜田省吾さんを追い続けることになります。

私の音楽活動は高校3年の夏でピリオドを打つことになります。

そのきっかけは大学進学でした。

音楽活動に没頭して、まともな勉強もしてないこともあって成績は下の下、先生をはじめとして周りの友達も口を合わせたように「大学はぜったいに無理、音楽でプロになれ」と言われました。

でもね、この決意を固めた原因は中学校の恩師にあります。

私は中学校の頃は悪ガキでした。いわいる不良ですよ。

学校の問題児でもありました。

しかしながら、担任であった国語の先生が、私を見捨てずに最後まで寄り添ってくれました。

高校になってからも家に何度が電話をかけてきてくれて、「音楽やってることを喜んでくれた唯一の人でした。

「あの先生のような教師になりたい」、その一心で、音楽を捨て、猛勉強しましたね。

多分人生の中でもあそこまで勉強したのは、後にも先にもあの時だけだと実感しています^^

さて、そのおかげで国文学の大学に入ることができました。

その間も浜田さんのアルバム、「イルミネーション」や「マインドスクリーン」などを買い聞きまくっていましたね。

これも大事に持っていますよ。

絶対に教師になると意気込んで大学生活に入りましたが、ひょんなことから音楽に手を出してしまいます。

幸か不幸か、組んだバンドが地方で有名になり、名が売れていきました。

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衝撃! 浜田省吾、二度目の出会い

大学2年だったと思います。

浜田さんのコンサートチラシが楽器店に貼ってあるのを見つけて、急いでチケットを取ってもらいコンサートに行きました。

そのころ浜田省吾さんは、カップヌードルのCMソング「風を感じて」がブレイク、一気にメジャーシンガーへと昇りはじめたころですよ。

それまではお客さんが100人ぐらい入ればいいほうじゃないの、と言われるぐらい売れていなかったと思います。

ところが、会場に行くと満員御礼、その会場は約3000人入る会場だったんですが、満席でした。

ステージの両脇に置いていたマーシャルのスピーカーから響き渡るサウンド、その時聞いたフルバンドで演奏する「路地裏の少年」に改めて感動し、しびれたことを思い出します。

この頃の印象に残っている曲は「片思い」・「ラブ・トレイン」・「ミッドナイトブルートレイン」等々、結構いい曲ありますよ。

さて、コンサートが終わり入り口前のロビーで人気が去るのを待ち、ダメもとでスタッフの人に事情を話して浜田省吾さんに取り次いでもらうようにお願いしました。

多分そのスタッフの方はいい人だったのでしょう。

ふつうだったら断られることは当たり前なのですが、その方はなぜか「そういう事情でしたら、ちょっと待ってくださいね」といって裏にある楽屋の方に歩いていきました。

「まあ、どうせ覚えてないよね」と思いながら待っていると、15分ぐらい経ったときに、またその方が現れて「一緒についておいで」といい、私を楽屋に連れて行ってくれました。

ドアを開けると、そこに立っていたのは「浜田省吾さん」、緊張して声もすぐには発せなかったのですが、浜田さんの方から「いや~、元気かい、あの時はありがとう」といい握手を求めてきました。

私が「本当に覚えていますか?」と聞くと、「当たり前だろ、俺は出会った人は絶対に忘れない」といい微笑んでくれました。

多分15分ぐらい話したと思います。

最後にこんなことを言ってくれました。

「あの頃、愛奴を解散してソロになっていろんな意味で悩んでいた、ああやって路地裏の少年に感激してくれて感謝しているよ、今でもあの曲は俺にとって別格だ」。

別れるとき少し涙が出ましたね。

うれしくて、うれしくて、こんな俺でも覚えてもらってたんだと思うと家に帰って涙が止まりませんでした。

あれから40年、一度もあっていませんが、きっと覚えてくれていると確信しています。

衝撃! 浜田省吾、「J.BOY」との出会い

大学で音楽をきっぱりと止め、社会人として旅立ちました。

本当はプロになれていたんですが、大学4年の時に、当時の某レコード会社の非公開の最終オーディションに出ればレコードデビューが決まっていたんです。

これは内々の話で、いまでいう「内定」といったところですかね。

ところが、神様はそう簡単には振り向いてくれませんでした。

前日から高熱を発し、救急車で運ばれ入院になってしまいました。

インフルエンザだったのですが、症状がひどく家で倒れてしまい、その時いたバンドリーダーが救急車を呼んだわけですね。

これで私の音楽人生は終わったわけですね。

社会人になり商社マンとして日本中を飛び回る生活になり、音楽のこともほとんど忘れて仕事に没頭し月日は経っていきました。

どれぐらいたったかな、多分10年は経っていたと思いますが、あの名曲「J・BOY」が発売されてすぐに購入し聞きました。

ちょうどそのころ、仕事に悩んでいて、転職するかどうかを考えていて、心の中で迷いがあり、自分に自信がもてない時期でした。

この曲を聴いて衝撃でした。

「果てしなく続くサバイバルレース、走り疲れ、家庭も仕事も投げ出し、いったあいつ・・・」、まるで自分のことを言われてるみたいで、また「頼りなく豊かなこの国になにをかけ、なにを夢見よう」、本当にそうでしたね。

この頃は将来の展望がまったく見えなかったんですね。

「打ち砕け、日常ってやつを、のりこえろこの悲しみというやつを、受け止めろ孤独ってやつを、ふきとばせそのむなしさってやつを・・・・」

体全体に響き渡りました。

これを機に転職し新しい世界に飛び込んでいきました。

すべてがこの浜田省吾「J・BOY」からでした。

ありがとう浜田省吾さん、ありがとう「J・BOY」、いまがあるのもこの曲のおかげだと確信しています。

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浜田省吾、まとめ

書こうと思えばいくらでも書けるのですが、この辺で終わりにしたいと思い、まとめにしました。

私の学生時代の生き方はまるで「路地裏の少年」です。

そして社会人になって助けられたのは「J・BOY」でした。

そしてこの「J・BOY」のアルバムには「路地裏の少年フルバージョン」が入っていたんですね。

いままでなかった歌詞が追加され、まさに私の学生時代そのままでした。

浜田省吾さんはその後もいい曲をたくさん出していますが、どうしても路地裏の少年やJ・BOYを聞いてしまいます。

今から10年前、父が危篤とう電話を会社で受けたとき、車で30分かかる病院に着くまでこの2曲をかけ続けていました。

「頼む、間に合ってくれ」、その一心で聞いていました。

そんな過去もありましたね。

近ごろよく聞くのは、この2曲は別として、「木霊」・「家路」・「19のままさ」・「君が人生の時」・「丘の上の愛」・「二人の夏」・「恋の西武新宿線」・「青空のゆくえ」、上げたらきりがありませんね。

自前のことで申し訳けないとは思いますが、色々と浜田省吾さんのことと自分のことを照らし合わせて書いてみました。

音楽というものは本当に力があります。

みなさんも私と同じように、一生聞き続ける音楽を持っていると思います。

それは時代を飛び越えて、永遠と輝き続けると信じています。

また、ご機会があればこのサイトにお寄りください。

今日は最後までお読みいただきありがとうございました。

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