終戦記念日、忘れられたメレヨン島

日本の歴史

8月15日、終戦記念日、75回めの節目を迎えました。

日本武道館では政府主催の「全国戦没者追悼式」が日本武道館で開かれ、天皇、皇后両陛下をはじめ、安部内閣総理大臣、遺族らが参加し310万人を悼んだ、という毎年恒例のニュースを見ていました。

75年たった今でも悲惨な戦争記憶が消えない人は多くいます。

ただ、時間がたつにつれてその数も徐々に減っていき、歴史上に残る世界大戦だけであってそれを語る人さえいずれはいなくなるのではと思ってしまいました。

でもこれは仕方ないのかもしれません。

もちろん私も戦後生まれの人間、話は聞いてもその時代に生きていたわけではないので現実味がありません。

だからこそ今の若い人が「戦後って何?」というのもわかるような気がするんですね。

さて、終戦記念日にまつわる記事を見ていたら、手が止まる記事を見つけました。

それは「メレヨン島」、この字を見たとき30年以上も前の記憶が一気によみがえってきたのです。

こうゆう時にしか思い出せませんが、今回は「忘れられた島、メレヨン島」について少しお話させていただこうと思います。

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終戦記念日、忘れられたメレヨン島

いまから30年以上も前になると思いますが、日時はあいまいです。

当時、テレビ番組の中でけっこう有名だった「ニュースステーション」という番組がありました。

記憶にある方もおられると思いますが、このニュースの中で、特集だと思うのですが、ここも定かではありませんが、この「メレヨン島」が紹介されたわけです。

戦後50年もたっていなかった時代、世界各地で遺骨の収集が行われていて、夏場の終戦時期を迎えると、各局がこぞって特集を組んでいた時代です。

ではなぜ私の記憶に残ったのか、それは日本軍にも、アメリカ軍からも見放された島だったからです。

戦没者は約5000人、これだけを見たら少ないですよね。

でも犠牲になった方は戦死ではないんです、いわゆる餓死なんですよね。

この事実が私にとって強烈な印象を与えて、記憶の奥底に焼き付いてしまったんですね。

メレヨン島の概要


ではいったいメレヨン島とはどこにあるのか、グアム・サイパンならみなさんもわかると思いますが、メレヨン島といっても知っている方は多くはないと思います。

現在のミクロネシア連邦のヤップ州にある22の島からなる小さな島です。

現在の人口は約800人、カロリン諸島に属していてオレアイ環礁またはメレヨン環礁とも呼ばれています。

島といっても大きな島ではなく、あくまでも環礁群の一部であって、東西8km、南北5kmの、大きさといわれています。

各島海抜は1mから3mぐらいで、ほとんどがフラットな形状で、津波などが来ればすぐに海中に沈んでしまう島ですね。

地図上で見るとグアムの下の方に位置し、左にはパラオが近いのかなと思ったりもしているのですが、正直言葉で位置を表現することが難しいので上記の画像を参考にしてくださいね。。

実際にはメレヨン島という名前は、日本軍が使っていた名前であって、当時はオレアイ諸島と呼ばれていたみたいですが、これも定かではありませんね。

現在ではサンゴ礁に囲まれた素敵な島ですよ、でもいまだに海中に日本軍の飛行機の残骸や、島には収集されていな遺骨が多く残っています。

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メレヨン島の悲劇

太平洋戦争序盤から中旬までは日本軍の小規模な基地が置かれていた島です。

日本軍の呼称は「メレヨン島」、現在のフララップ島を中心に日本軍が駐留しており当初は約500人程度の守備隊がいたといわれています。

戦火が切迫する中、絶対国防圏確保とマリアナ諸島での戦いに備えるために、大本営は1944年(昭和19年)に兵力を増強を図ります。

(昭和19年)2月29日、第68警備隊・第49防空隊・第4施設部が「新興丸」でメレヨン島に到着、飛行場建設を開始します。

画像にも映っていますがあれがそうですね。

4月に入りメレヨン守備隊を乗せた輸送船3隻(松江丸、木津川丸、新玉丸)に分乗し、メレヨン島を目指しますがアメリカの潜水艦に雷撃され、「新玉丸」沈没、「木津川丸」大破の損害を出して一旦グアムへ引き返します。

その後無事に、守備隊を乗せた輸送船は到着し始めますが、アメリカ軍の空爆や戦艦からの艦砲射撃でまともな応戦もできず、また、上陸直後から、攻撃による食料の損失が激しく、兵士は増強されるが、食料が追いつかない、という状況になっていきます。

さらには日本軍もサイパン・グアム経由で輸送船が、随時補給を試みるも、大半の船がアメリカ軍の潜水艦の雷撃で沈められて、物資が届かい状況が続いています。

日本の輸送船が一回に運べる物資は約300t程度、その中には、弾薬や、兵器等が含まれているので、食料自体の補給はごくわずかでした。

そして1944年7月サイパンが玉砕し、サイパン島での戦いは終結しましたが、補給物資がここで途絶えてしまいます。

アメリカ軍はサイパンを陥落させてメレヨン島を攻めるかに思えましたが、その後島での攻撃は小規模なものにとどまり、上陸することはありませんでした。

サイパンを陥落さてたアメリカ軍は、次の計画として沖縄戦略を遂行し進撃を開始します。

マッカーサー元帥のもと最終目的の日本本土上陸を目指していたため、メレヨン島は置き去りにされてしまいます。

サイパンを失った日本は、日本からの制空権、海上権もほとんど失い、メレヨン島守備隊をトラック第52師団長の指揮下に移しました。

以後の補給は単独での潜水艦補給に代わりましたが、一回の補給量が約50t程度、これでは7000人近くいる兵士の食料が足りるわけがありません。

戦うことができない兵士たちは、食料確保のため畑や農地の開拓に乗り出しますが、環礁にできた小さな島、土地は痩せており農産物がまともに育たない状況下でした。

2m掘れば海水が湧き出てくるといわれ、とても農作物が育つ島ではなかったということです。

しいて言えば食べられるものは、ヤシの実、虫、爬虫類等、とても賄えるものではなかったといいます。

日本軍の補給潜水艦もアメリカ軍の潜水艦の雷撃で、メレヨン島に到着前に撃沈されて、ほとんどが届かなかったと聞いています。

この当時南洋方面離島18ヶ所には総勢14万2000人の日本兵が配備されていたそうです。

サイパン・グアム陥落で補給路を断たれた日本軍は事実上壊滅状態となりました。

補給用の潜水艦も次々と撃沈され、戦況は悪化の一歩をたどり、ついには補給用に回していた潜水艦を人間魚雷「回天」の母艦として転用されました。

アメリカ軍からも無視され、日本軍からも見放されたメレヨン島、だからこそ「忘れられた島」なのです。

潜水艦の補給に代わってメレヨン島に届いた補給物資はわずか4回、荷下ろしの際に食料を盗んでどこかに隠し、自分だけ生き延びようとした兵士もいると聞いています。

ただほとんど兵士が食糧不足で体力も失い、まともに動けなかったと記録されています。

早い者勝ち、動いたもの勝ち、そういった兵士が最終的に生き残ったわけです。

終戦後の1945年(昭和20年)9月17日、アメリカ軍と日本の病院船「高砂丸」がメレヨン島に到着、武装解除が行われました。

9月20日、「高砂丸」は全生存者を収容して出港、9月25日夕刻別府市(九州大分県)に到着、26日に全員が下船、陸軍786名・海軍約840名が復員し、10月17日に残務処理が完了したと記されています。

防衛庁に残されている資料では、配備将兵6426名(陸軍3205名、海軍3221名)中、死没者4800名(陸軍2419名、海軍2381名)、生還者1626名(陸軍786名、海軍840名)となっています。

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終戦記念日、メレヨン島まとめ

生き残って日本に帰ることのできた兵士のほとんどは、メレヨン島で起きた生き地獄を語ろうとはしませんでした。

年数が経ち生き残った人たちも高齢化ととも次々と亡くなり、数少ない人たちがこのメレヨン島で起きた事実をようやく語り始めています。

これからもいろいろなことがわかってくると思います。

戦後75年・・・・・もう75年も経っているんです。

でも、太平洋戦争の傷跡はすべて修復されたわけではありません。

これから先、幾度となく終戦記念日を迎えたときに、メレヨン島の話だけではなく、各戦地での苦痛の叫びが、必ず公表されていくはずです。

犯した過ちの重さを、目を背けずに聞くことも、私たち日本人のひとりとして、大切ではないかと思っています。

今日は長々とお読みいただきありがとうございました。また、機会があれば当サイトにお寄りくださいね。

※旅好きブログです。私が旅をした記事や観光関連の記事を載せています。見てくださいね!

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