【天変地異】古代アジアの異変(太陽編)

災害の歴史

「天変地異」という言葉の「天変」とはなにか。

天空に現れる変事、天象の怪異で、日・月・星・辰・雷・雲・風・雨などの異変の総称として使われています。

天の下の地の異変の対語ということですね。

中国周の時代に、これらに異常の変動があると、巫祝官がこれを占って、その吉凶を判別していました。

では、どういった現象が「天変地異」とされていたのか、をあげて見ます。

●天が怒って、五行が乱れると、国土に不吉な妖祥凶事が起こる。

●太陽や月がその姿を消す、日食月食による暗黒世界。

●天が裂けるほどの天鼓、雷が鳴って稲妻が光狂う。

●星が流れ、地上に隕石が降る。

●雨や雪でない異物が降る。

●大風が吹き荒れたり、旋風が走る。

●豪雨で洪水となったり、干ばつが続いて水が枯れ、動物魚介・草木が枯死する。

かつてはこれらはすべて天変でしたが、現在では自然現象としてほとんどが処理されて、あまり驚くことはなくなってしまいました。

今回ははじめとして、太陽の異変について記していきますが、あくまでも過去の記録であり、実際にあったのか、と問われると何ともしがたいものがあります。

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古代東アジアの天変地異(太陽編)

古代では現代よりも科学技術が発達していないこともあり、とくに自然現象に関しては、異常なほどに敏感でした。

今では日食、月食等は珍しくもありませんが、当時の人たちには災いに結び付けるケースも多く、太陽信仰というものも強かったために、それを戒めるために現代に伝えているのかもしれません。

 

二つの太陽

暁の空にバラ色の指で夜の幕をひらき、雪のような白馬に乗って、東海の天から走り出てくるオーロラは、ローマ神話の女神でギリシャでは「ヘリオス」といいました。この神は日の出の神ですね。

ギリシャ神話の太陽ヘリオスまたはエオスは、4頭の馬がひく車に乗って、毎朝海から東の空に昇って、天空を進み、夕方に西の海岸に降りていく。

それから翼のついている黄金船で海に没する。その海の底を西からコルチスの宮殿を経て東へ巡り、翌日の朝ふたたび海から日の出となって現れるのだといっています。

このように、古代エジプトやメソポタミア文明の人たちは、太陽には翼があって大空を飛んでいた、と表現しています。

ここに書かれていることは、太陽の動きとしてはごく当たり前で、平穏無事な世界を表しているといえるでしょう。

しかし、もし太陽に異状が起こるとどうなるのか。

古代ペルシャ帝国は、東はインダス川、西はエーゲ海北岸、南はサハラ砂漠に及ぶ広大な領土を有していました。

ペルシャ王ダリウス三世コドマヌス(紀元前336~330在位)はギリシア王アレクサンドロス(紀元前356~323在位)に和議を申し込んだ時、アレクサンドロス大王は、「天に二日はなく地に二王があってはならない」と答えました。

紀元前334年、アルペラの戦いで、ペルシャは新興のギリシャに敗け、ダリウス三世は部下に殺されてしまいます。

『礼記』によると、魯の孔子(紀元前552~479)は門弟の曽子に、「天に二日は無く、土(くに)に二王はいない」といいました。また、『孟子』には「民に二王はいない」と説いています。

国土の民に二君はいないし、あってはならないことは、天に太陽が一つしかないのと同じだというものですが、孔子もアレクサンドロス大王も、太陽が決して一つではなく、複数であることをしらなかったのでしょう。

天に二つの太陽が並んで現れたのは、周代の孔子時代よりはかなり昔にさかのぼります。

『博物志』巻七に夏王朝(中国初の統一王朝と推測)桀王(紀元前1818~1766ごろ)の29年の時、費昌が河上に二つの太陽を見た。

東の太陽は爛々と燃えていたが、西の太陽は今にも沈没するような光であった。費昌は驚いて、そのことを馮夷(ひょうい)に報じてどういうことかと聞いた。

すると馮夷は、西に弱い光は西夏で、東の強い光は東殷であると答えた。費昌は急いで殷の国へ帰ったという記述が残っています。

『太平御覧』巻四に、王充が『論衡』の中で、夏の桀王は無道であったから両日が並んで照ったのである。東にある日はいままさに起ころうとする勢いだが、西にある日は夏の亡ぶ兆しであると引用して紹介しています。

夏王朝のあと商王朝となりそのなかばから殷と国名が改称されます。かつては夏商周といったが、いまは夏殷周といわれています。

殷の紂王(紀元前1154~1122ごろ)は暴虐で知られています。

竹書紀年』に、その48年2月、その国の亡びる前兆があらわれたと記しています。

伊水と洛水の水が枯れ、天から血や石が降ってくる。

山が鳴動して鬼が号泣しているような大音響で、土地が陥没した。すると空に二つの太陽が並んであらわれた。

紂王は遊猟に出かけた。たちまち大雪が降って一丈も積もったが、紂王はそれも気にしなかった。そしてついに周の武王に滅ぼされた。と書かれています。

その後もこのことは色々な著書に書かれていて、『太平御覧』巻八十三にある、手で鉄をねじって縄をつくるほど強い男といわれた紂王も天罰を受けたと見える。

『唐書』天文志には乾符6年(279)11月朔日に出現した二つの日が互いに勢力を競い合ったと記しています。

さて、中国だけではなく、日本にも二つの太陽の記録が残こっています。

長保2年(1000)正月29日をはじめとして、承安2年(1172)6月16日、申の刻に両日が出現したと町で騒いだとあり、『鎌倉史』建仁2年(1202)春正月28日、両日があらわれて地震が起こった。

また、『日蓮上人御伝記』と『蛍蠅抄』付録の両書に、文永5年(1269)5月8日に京都と対馬で東西に二つの日輪が出たので草木が枯れた。

そして、天明の大飢饉の時も羽州の境で二つの日が南北から出て、三日を経て没したが、その年は大飢饉にみわれた。と記しています。

三つの太陽

二つあれば三つもあるよ、ということで太陽が三つ出たという記述を紹介していきます。

『竹書紀年』に桀王の29年、三つの日が並んで出た。と記されていますが、この桀王という人はよほど日頃の行いが悪かったのか、天変地異の記述が多く挙げられているひとりでもあります。

悪行高き人は何が起こらなくても、後世に書かれる悪いことは、すべて擦り付けられてしまう傾向があるので、全面的には信用できませんが、長い間、人民を苦しめたという意味でも、祭り上げられる対象になっているのかもしれませんね。

『漢魏叢書』の『元経』や『談會』に西晋の愍帝(313~316在位)の建興4年(316)、劉聡(りゅうそう)らが乱を起こしたが、その時三日が並んで出た。5年正月3日も並んで輝き、五胡の乱となったと記されています。

中国では、商人が海を渡っている時、日輪が三つ現れると潮が逆流し、大魚が口を開けて船の人を呑みこむといって大いに恐れたといいます。

また、太陽が五つもでた記述とか十個という話もあります。ここまで来るとさすがにアニメの世界であって曲がりなりにも信用することはできないですよね。正直、書く気も起りません。

私なりですが、現代にいたっては、宇宙にまで人が行く時代ですが、幼いころ、古来から月に兎がいて、杵で臼をついているといわれました。

たしかに、兎が餅をついている姿に見えなくもなかったのですが、大人になって臼で餅をついているというのが、薬をついていることが誤られて餅となったことを知りました。

特に古代の記述には、誇大表現や人づてに伝わって来た話を、さも、リアルタイムで書いているかの如く記している場合が多々あります。

しかも、著者の妄想もくっついてくるので、理解不能に陥ることもしばしばですが、これも歴史的ロマンのひとつだと感じています。

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西から出る太陽

『日本書紀』には、神功皇后のとき、新羅の陸地に海水が押し寄せて浸水した。建国からこのかたこのようなことは聞いたことがない。

天道が尽きてしまい、国中が海になるのであろうかとうろたえた。新羅は日本に久しく貢物をしていなかった。

そこで「たとい東から出る太陽が西から出ても、阿利那礼(ありなれ)の海水が逆さに流れても、その河の水が天に昇って星となるときがあっても、決して貢ぎは絶やしません」と誓って入朝したとあります。

まあね実際に太陽が西から昇ってくることなどありえない、と思っていましたが、色々な歴史書の記述には、ありえないことが平気で書かれていることに驚きます。

『拾遺記』に、楽浪の東に背明の国があり、漢のころ、その国から来朝したが、その使者の国は扶養(倭)の東にあって、日は西から出る、と聞いたことがある、という記述が載っています。

さらには、『元史』土哈伝は欽察国は中国から三万余里離れた地にあるが、この国では、朝日は西から出ると記されています。

夜に出る太陽

太陽が昇る異変はまだあります。西から昇る太陽に関しては、方位の間違いということもあり得ることを考慮しても、夜には太陽は出ないでしょ、と思いたくなりますが、実際に記述があるので簡単に記しておきます。

『文献通考』に、漢の武帝(紀元前139~87在位)の建元2年(紀元前139)4月、日が夜になって出たという記述が残されています。

また、『島夷志』をみると琉球の国の大崎は山が高い。この山に夜登ってみると、山の上はとても明るい。暘谷(ようこく)を望むと日が出て、あかあかと輝いていると記しています。

さらには、中国元帝時代の太興元年(317)11月、夜になって日が出た。高さ三丈で太陽の中に黒くて青いみみだまのようなものが見える。と書かれています。

これらのものが、本当に夜に出現した太陽なのかはわかりませんが、推測では、彗星の出現ではないのかと思いますね。

日本では夜の太陽に関しては、ほとんど記述がなく、彗星記録というのが多く、昔から意外と冷静に夜空の観測がおこなわれていたみたいです。

今回紹介した記述は文章も短く、単発的な書き方をしていて詳しい内容は掴めませんが、少しでも自然界に異変が起こると、天下が乱れ大乱が起こるという考え方をしていたみたいですが、ほとんどが占いの中で見いだされていることなので、信憑性はあまりないと言わざるおえません。

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【天変地異】古代アジアの異変(太陽編)のまとめ

太陽がいくつも出ることに関しては、色々な説が唱えられています。反射説、隕石説、彗星説、月軌道説ですが、反射説が最も論理的かもしれません。

宇治平等院の鳳凰堂はみなさんご存知と思いますが、正面の扉の上の欄間に丸い窓が開いています。

夕日が宇治川の西の山に没する前に、あかあかとその窓から堂内を照らします。するとこの光線を受けて、堂内の本尊阿弥陀如来の眉間を照らします。

眉間に銅鏡がはめ込んであり、その反射が堂内四方の壁に懸かっている51体の雲中供養仏の眉間に一斉に反射して堂内が明るくなります。

レンズを利用するとひとつの光がいくつにもなり、また、その光を違う場所に集中的に集めることもできます。

自然界でも南極や北極で起こる氷山反射現象と同じで、空へ蜃気楼を映し出すこともできるので、意外とこういった自然現象が重なって太陽がいくつも見えたりしたのではないかと推測します。

今日は最後までお読みいただきありがとうございました。

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