日本の歴史の中で、これだけ出世した人はいないだろ、といわれぐらい、地位と名声、そして財をなした「豊臣秀吉」。
天下人そして太閤という最高の格付けを成した秀吉ですが、残念ながら完全な日本統一は叶いませんでした。
さて、戦国時代の終焉とまで言われた織田信長ですが、46歳で「本能寺の変」が起こり、時代は一気に秀吉へと走り出しました。
62歳で他界するまで、日本の統一、そして海外まで目を向けて、服属要求や出兵を繰り返し、戦いの日々を送った秀吉ですが、最期は伏見城で病に苦しみながら亡くなったといいます。
この秀吉の最期は、歴史上でもはっきりとはしていません。
脳卒中とか癌という病名も出されてはいますが、毒殺の説まであるので、実際の死因は分かっていないのが現状です。
さて、今回のテーマは「姓氏」です。
秀吉が国家統一を図るために色々な政策を実行してきました。
その中でも”これぞ秀吉”というものピックアップして記していきます。
まず最初に「姓氏」を取り上げて記していきます。
これは秀吉にとっても、天下統一に向けての大きな戦略のひとつであったと確信しています。
「豊臣」という姓の由来
ここからは秀吉の姓がどのように変わっていったかを簡単に説明していきますね。
これだけ天下統一に向けて姓名を変えていった人もいないでしょう。
これが秀吉の最大の戦略だったのかもしれませんね。
木下氏
秀吉はその生涯に、姓氏を木下氏➡羽柴氏➡平姓➡藤原姓➡豊臣姓と改めました。
これらの改姓は、秀吉の地位向上に伴って行われており、すぐれて維持的所産であったと言えるでしょう。
初期に称した「木下氏」の由来については、もともと秀吉自身が姓氏をもつほどの身分であったか疑問であり、その出自と関連してあまりにも謎が多すぎて、どれが本当なのか私にもわかりません。
この木下氏に関しての説は本当に多く、ちなみにいくつか有力な説を記しておきます。
●秀吉の家系が、本来、木下氏であったという説
●秀吉の妻「ねね」の実父が播磨国竜野の木下氏の出であることに因む説
●秀吉が信長に初めて会った場所が木の下であったからだという説
●信長以前の主人「松下加兵衛之綱」に因んで、松下をもじって木下を称したという説
正直、史料がない以上、私にもわかりません。
どちらにせよ、一時期はこの木下という姓を名乗ったのは事実で、あえていうなれば、秀吉自身が隠していたのかもしれませんね。
この人かなりの「野心家」ですから!
それに、秀吉は歴史上よく農民の出とされていますが、実際にはこれも定かではありません。
むしろ下級武士だった可能性が強く、意外と出どころが不明な点が多いのも秀吉の特徴だと言えます。
羽柴氏
次に、木下氏から羽柴氏の改姓時期は、天正元年(1573)7月9日から同20日の間と考えられています。
すなわち、この時期は、信長によって将軍足利義昭が追放されて室町幕府が滅亡し、織田政権の新しい出発点に当たっており、またこの直後には、秀吉が信長から浅井氏旧領の江北三郡を与えられ、大名になった記念すべき辞典でもありました。
したがって羽柴改姓は、このような政治状況がひとつの契機とみて間違いないでしょう。
なお、羽柴氏の由来は、信長の武将丹羽長秀と柴田勝家の二氏に因んで創作されたもので、おそらく信長の許可を得て称したと思われます。
平姓・藤原姓
以後、しばらくの間は羽柴氏を称する時期が続きますが、天正10年6月の「本能寺の変」の後、逆臣明智光秀の討滅、さらに反秀吉勢力の一掃に成功すると、秀吉はにわかに「平姓」を称し始めました。
この頃から、秀吉の官位は急速に昇進しますね。
まず、天正10年10月「従五位下」に叙爵、「左近衛権少将」に任官、翌年「従四位下参議」に叙任、ついで12年11月「従三位権大納言」に進み、さらに13年3月には「正二位内大臣」に昇りました。
これら叙任に関する口宣案(くぜんあん)などには、いずれも「平秀吉」あるいは「平秀吉朝臣」と記されています。
信長の後継者として自ら任じていた秀吉は、平姓の織田氏を襲う意味からも、戦国時代の風潮であった「源平交替」思想によって平姓を称したのだろうとみています。
秀吉が内大臣に任官した4カ月後の7月11日、今度は人臣の最高位である関白宣下(せんげ)を蒙むりました。
この秀吉の関白就任は、近衛信輔と二条昭実の関白職をめぐる争いに乗じて、秀吉と以前から気脈を通じていた右大臣菊亭春季(きくていはるすえ)の画策とたものといわれています。
まさに漁夫の利であったのですが、任官にあたり、再び改姓を余儀なくされたのも事実でした。
その理由はほかでもありません。
藤原姓以外から摂政・関白に任官したという前例が無かったからなのです。
かくして秀吉は藤原姓となるために、五摂家筆頭の近衛前久(このえまえひさ)の猶子(ゆうし)となるべく、これを強引に申し入れ、ついに前久の同意を得て、「藤原秀吉」として関白宣下を受けたのです。
豊臣姓
秀吉の関白任官は、名実ともにその政権の確立を意味するもでしたが、武門の棟梁として天下に号令する立場からすれば、やはり借りものである藤原姓では説得力に乏しく、秀吉自身も満足できるものではなかったのでしょう。
ここに至り、既存の姓氏に飽き足らず、自ら新姓を創作し、朝廷に奏請して下賜されることを考え出すのでした。
その新姓こそ「豊臣」であったのです。
それは、関白任官からわずか3カ月後の9月9日でした。
ここで、この豊臣の姓を名乗った日には、いろいろな説が存在します。
多くの秀吉関係書が14年12月19日としていますが、私自身が納得できずにいろいろと調べまくりました。
ではなぜ9月9日なのか、という根拠を説明していきますね。
『押小路文書』という朝廷の外記局の役職を代々務めた家柄に伝来した一群の古文書があります。
その中に、天正13年9月9日付の「請殊蒙₂天恩₁、因₂准先例₁、似₂本姓藤原朝臣₁改₂豊臣朝臣₁状」という朝廷に差し出した申文があります。
しかも、9月9日付の権大納言柳原淳光から外記局に宛てた宣旨の申請を伝えた消息、さらには同日付の改姓を勅許する宣旨も収められており、この一連の文書により、改姓の奏請とその勅許が天正13年9月9日であることは間違いないでしょう。
ちなみに、14年説が唯一根拠とする『公卿補任』には、改姓の日付は明記されていません。また、12月19日とは、秀吉が大政大臣に任官した日のはずです。
さて、この「豊臣」という字は何にもとずいて名付けられたのでしょう。
秀吉が、お伽衆の大村由己(おおむらゆうこ)に命じて記録させた『関白任官記』によると、新姓の選定には有職故実(ゆうそくこじつ)に明るい菊亭晴季や儒者を招き、数巻の古伝書や諸家の系図などを調査させたと記すところから、先に「羽柴」が丹羽と柴田から創作されたことを合わせ考えると、諸氏の系図の中から「豊原」や「中臣」などの姓を参考にして選定したのかもしれません。
もちろん適当ではなく、それなりの意味をもって解釈できる文字でなくてはならいということです。
天下を統一する支配者の地位にふさわしく、内外に偉大な人物であることを示し、かつ強力に印象付ける目的もあったのでしょう。
豊臣秀吉天下統一のまとめ

日本史の中で、豊臣秀吉を描くとき、貧しい農民から天下を統一するといった、一代でこの人ほど人生をおおかし、出世した人はいないとされています。
戦国時代の、食うか食われるかの波乱万丈のご時世の中で、自分の人生を計画的に進めてきた人物はやはり彼しかいないでしょう。
豊臣秀吉の性格は、考えて慎重に行動するタイプではないんですね。
思いついたらすぐに始動する、そして動きながら行き先を考えて瞬時に答えを出す。その答えをもとに次の戦略を考えてすぐに行動する。
時期を間違えれば自分が敗者なる。
そのことを十分に分かっていたのでしょう。
だからこそ織田信長に教えられたことを自分なりに落とし込み、天下統一へと導いたのではないかと感じています。
現代社会でも、秀吉の考え方、行動力は十分に役に立つはずです。
逆に、それができないからこそ成功しない人が多いかもしれません。(自分に言い聞かせています)
またご機会があればよろしくお願いします。今日は最後までお読みいただきありがとうございました。
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