名湯【草津温泉】の歴史と開湯伝説

温泉開湯ストーリー

観光経済新聞が毎年発表している「2019年日本の温泉ランキング100選」、その中で、17年間トップの座を明け渡すことなく君臨する「草津温泉」。

町の中心街にある「湯畑」を草津温泉のシンボルとして、いろいろなイベントも開催され、誰もが一度は訪れてみたい温泉郷ですよね。

草津温泉の湯は、基本的には「酸性泉」ですが、源泉によっては非常に酸性度が高く、殺菌などの殺菌効果も高いといわれています。

歴史的にも、現代みたいな薬治療が発達していなかった時代では、湯に浸かることが唯一の治療として、大勢の人々が温泉治療に徹していました。

さらには、自然界に生きる動物たちも、温泉の効果を本能的に悟り、けがをしたり、傷ついたりしたときに温泉に入ることで生命の維持を保っていました。

今回は、日本の代表的な温泉郷、そして歴史ある名湯「草津温泉」の歴史について記していきます。

草津山光泉寺(草津温泉のパワースポット)

温泉の歴史を語るうえで、絶対に外せないのが神社や寺です。

何故かと言えば、全国の温泉には必ず温泉神社湯大明神湯山権現走湯大権現などが祀られています。

これは日本人の厚い信仰心に照らして、ごく当たり前の自然な姿と思いますが、神・仏の加護によって温泉が発見され、温泉の効能(御利益)こそは、神・仏の名に価するものであったからだとするものです。

光泉寺は、白根明神の別当寺として正治二年(1200)に草津領主湯本氏が再建したと言い伝えられています。

さて、光泉寺は真言宗豊山派、僧職は鎌倉幕府から地頭職を賜い、寺領として白根庄の領有を許されていて、真言密教の寺院でもある、と記されています。

また、境内には釈迦堂がありますが、江戸の医師の外嶋玄賀宗静の発願で建立されたお堂であるとされていて、近年ではこの御本尊が釈迦如来像であり、光泉寺というよりは、この釈迦如来像がもとでパワースポット化しているみたいですね。

たしかに、光泉寺の御本尊は「薬師如来」です。

みなさんもご存知のとおり、薬師如来は薬の神様であり、また湯の神でもありました。各温泉神社には欠かせない神様ですよね。

温泉の歴史を紐解いてゆくと、日本人は古来から温泉に親しんできたことがわかります。これはただ単に親しんだだけではなく、湯の神を祀りんできました。

事実「湯の神」は、身体の傷を治すのみではなく、時に罪人をあらため、人の心をも救ってくれたとされています。

さて、光泉寺の境内には草津温泉の開湯が記される「行基開湯壱千弐百年記念之塔」が建っていますが、この高僧行基の開湯伝説は歴史上の中でも非常に多いとされています。

例えば、宮城の作並、福島の東山、群馬の伊香保、長野の渋、静岡の蓮台寺、京都の木津、石川の山中などにおよびます。

修験道であるがゆえに日本全国を行者した高僧が、神々よりも多く高僧の名が温泉発見に結びつくのは、高僧において、神々よりは、より具体的に民衆救済に触れる面が多かったからではと考えます。

ここで思ったのが、肝心な人の名がどこにも出てこない、ということでした。

この記事を書く前に、草津温泉の歴史や観光ブログを見させていただきましたが、どれも書いていることは同じで、というかコピーばかりで参考にならないということでした。

さて、その人物の名は、「日本武尊」。

大分の別府温泉もそうでしたが、草津温泉も神代まで歴史をさかのぼれば「日本武尊」の発見によるものだとされています。

『古事記』・『日本書紀』でもおなじみに悲劇のヒロインであり、日本全国の温泉を発見した人でもあります。

もっと深く言えば、彼の化身が温泉を発見した動物たちであり、また高僧であったかもしれません。

まあ、神話的要素の深い私論になってしまい、現実的ではありませんが、こういった人物を表に出すことによってさらに夢やロマンが広がり、観光資源化できるのではと思いますね。

現在の光泉寺は、パワースポットとして人気が出ていますが、場所的にも湯畑のすぐそばということで、多くの湯治客や観光客が訪れていますよね。

夜には湯畑のイルミネーションイベントと重なって光泉寺もライトアップされ、一層の来訪者を呼び込んでいます。

草津温泉の観光地のひとつとして訪れるのもいいかもしれませんね。

草津温泉の本当の温泉神社は「白根神社」?

なぜこのようなタイトルをつけたかというと、光泉寺と草津温泉のつながりが薄いと感じたからです。

全く関係ないとは言いませんが、歴史上の関係を調べていても、なぜか繋がらないもどかしさがあって、光泉寺以前の地場的信仰の対象となる、神道的な神を祀ったものがあるのではと思いました。

江戸時代の書物を読むと、上州付近の旅日記みたいなものは多く残っています。

後に少し記していきますが、よく登場するのが「白根山」や「白根明神」の話、古来、温泉は火山との深い関係にあります。

現に活発に火山活動を繰り返している地域よりも、噴火活動の最盛期を過ぎるか、またその活動を終えてしまった地域に多いのも、何かの象徴といえるのでしょう。

さて、この「白根神社」のご祭神は「日本武尊」、やはりここに祀られていました。

この白根神社は『上野国神名帳』に吾妻郡十二社の「従一位 白根明神」とある古社と記されています。

創建は不明、元々は火山である白根山を祀る神社で、もとは白根山上に鎮座しており、草津温泉入口(運動茶屋公園付近)には遥拝所がありましたが、明治六年、郷社に列格した際に、温泉街を見下ろす囲山と呼ばれる現在地に社殿を建立したということですね。

拝殿は明治十五年に新築され、昭和三十二年に改築したとあります。

例えば『明治神社誌料』や『上野国神名帳』などを見ると開湯秘話や白根神社に関する記述が多く載っています。

ある意味政治的な背景もあったのではと思うぐらい関係記録史にのこっているんですよね。

このことを踏まえて考えてみると、上州における山岳信仰の中心であったかもしれません。

この山岳信仰と温泉というのは古代から深いつながりがあり、山形は羽黒三山中の湯殿山の場合もそうですが、湧き出る温泉そのものが、御神体とされてきました。

この白根山と白根神社の関係は、それに似たところがあり、山頂付近には「湯釜」と名付けられた直径約300メートル、水深約30メートル、水温約18度の火口湖があります。

世界でも有数の酸性度が高い湖で、湖底や沿岸には硫黄が沈殿しており、戦前から1960年頃まで鉱山会社によって採取されていたみたいで、現在でも鉱山跡がのこっています。

白根山は有史以前の火山活動が多く、特に1800年代以降は、大規模な火山活動は認められていませんが、小規模な湯釜からの水蒸気噴火は続いているみたいで、まさに現在でも活火山であるといえるでしょう。

やはりこの湯釜を中心とした白根山が御神体そのものだった、とする考え方が妥当かもしれません。

いわゆる「明神」という意味は、日本の神仏習合における仏教的な神の称号のひとつです。

古代からの神仏融合の中で、続いてきた自然界への祀り事で「威厳と徳のある神」として「明神」が存在し、別名「あきつみかみ」と呼ばれるこの神様は、草津温泉と白根山をつなぐ大きな関りを持ち、今もなお、草津の湯を見守る最大の守護神であると感じています。

草津千軒江戸構え

草津温泉は、群馬県の北西部に位置し、北は白根山(2165m)で志賀高原に接し、西は嬬恋(つまごい)に、東は六合に接しています。

周囲には本白根山や茅ヶ平などの自然環境に優れ、万座、沢渡、川原湯など数多くの温泉が存在していますよね。

先にも記したように草津温泉のシンボル的な存在である「湯畑」を中心として、源泉や湯出口はおよそ100ヶ所以上といわれています。

湧出量は毎分3万6千ℓ、湯温は平均して摂氏60度から69度、場所によっては80度以上もの湯を湧出しているところもあるみたいで、日本を代表する温泉郷のひとつですね。

草津温泉の旅はやはり湯畑から始まるといっても過言ではないでしょう。

江戸の昔から広小路と呼ばれ、石垣に囲まれた湯畑の広場には、今も、往時の面影が残り、現代的なイルミネーションパワーと融合し、想像以上の幻想的な世界を作り出しています。

さて、この湯畑は、草津温泉の中では最大の源泉で、湧出量は毎分4千109ℓとされています。

滝のような流れとなって、湯川に注ぎ、街中を湯けむりに包み込んでしまう壮大な情景を醸し出していますが、本当に見ごたえがあり、夜のイルミネーションパワーも幻想的で、いつまでも眺めていたい気分にさせてくれますね。

湯畑の大きさは、全長が約80m、幅は約30m、自噴した湯は長さ50mの7本の木製のトイに流して泉温を下げ、それぞれの湯宿に送っています。

また、トイの中に沈殿した硫黄は、3ヶ月に一度採取され、「湯の花」として市販されています。

ところで、この草津温泉がいつごろから湯治場となったのかは、歴史的に見てもあいまいで、確固たる開湯の記述が述べられていません。

一説には行基菩薩の発見であるとか、建久3年(1192)、源頼朝が三原の狩りのとき、家臣の案内で疲れを癒してからであるとうたわれています。

しかし、室町時代にはすでに浴舎を構えて湯治場としての機能を備え、諸国にその名声が聞こえていたことが伝えられています。

江戸時代後期の国学者で歌人でもある清水浜臣(しみずはまおみ)の『上信日記』には、草津の状況を次のように記しています。

草津より五~六町此方に白根明神の宮あり。到り着きて見れば、先づ家屋の様聞きしに勝り多く、棟々の目を驚かしぬ。

 中沢某の許に宿る。此処は山里と云うなかにも、いと深き山里にて田畑というもの四方八里が間に見えず、米なぞ十里も隔る所より運ぶなり。

さるに比して人里の賑わいは厳し。家屋総て四百軒に余れり。大きな館四十軒三階造りなり、髪束ねる家五つ、小弓引かす所十軒、酒飲みて酔い遊ぶべき家七~八軒、湯は七ヶ所にあり、中にもすぐれて見ゆるは薬師堂の下に、四十余間に二十六間の囲したる中に、幾つとなく桁ありて湧き上げる湯を、そこは入浴するでなくそれを桶をもって十余ヶ所に滝落したるなり。

これを滝の湯という。

この頃の温泉宿は4月8日の春の薬師祭から10月8日の秋の薬師祭までの半年間を営業していました。そして湯治客は2万人以上であったというから驚きのほかにありませんね。

「草津よいとこ一度はおいで、お湯の中にも花が咲く」

と歌われた「草津千軒江戸構え」の言葉のほどがよくわかります。

江戸時代末期の草津温泉の情景は当地を訪れた多くの文人たちによって克明に記されています。

そのひとつから風習を見てみたいと思います。

旅館の部屋は「ツボ」と呼ばれ、上客ほどよいツボに泊まった。客は全部自炊である。部屋の掃除はツボ廻りの女というのが毎日来る。

ご飯だけは飯炊き女というベテランがいて、飯と汁を配膳した。また諸国からやって来たツボ廻り男と呼ばれる者がいて、客の買い出しや身の回りの世話をしてくれた。

湯治期間が一回り七日間になると赤飯を炊き、ツボ廻り女に持たせる慣習となっていた。

というように記されており、かなりの湯治客で賑わったことが理解されます。

草津温泉まとめ

最後に、草津温泉の歴史を語る上で、どうしても外すことのできない人がいるので紹介しておきます。

それは、ドイツ人の医学者「ベルツ博士」です。

この方は明治時代に日本にまぬかれて、27年にわたって医学を教え、日本の医学界に大きな影響と功績を残した外国人のひとりですね。

日本に来るきっかけとなったのは、1875年にライプツィヒ大学病院に入院中の日本人留学生・相良玄貞をたまたま治療することになり、日本との縁が生まれています。

明治9年(1876)に日本にまぬかれて、東京医学校(現在の東京大学医学部)教師として赴任し、草津温泉には明治11年に初めて来湯しています。

それからというもの、度々この草津温泉を訪れて、その著書『日本鉱泉論』中で、「草津は、その温泉湧出の量多大なるのみならず、理学的療養地として適当なること日本全国にその比を見ず」と記しています。

外国人の折り紙付きという歴史と伝統の草津温泉ですが、日本ペンションの発祥の地でもあり、高原リゾートとしての役割も大きいものがあります。

一度は行きたい温泉郷「草津温泉」、日本の代表的存在の温泉にゆっくり浸かってみてはいかがでしょうか。

また、ご機会があればお寄りいただければ幸いです。今日は最後までお読みいただきありがとうございました。

※旅好きブログです。私が旅をした記事や観光関連の記事を載せています。見てくださいね!

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