亀ヶ岡遺跡、縄文文化の最先端

日本の歴史

久しぶりに、古代縄文文化のお話をさせていただきます。

日本の歴史は海外から比べたら、比較的年代も浅く参考になる史料も多くは残っていません。

実際に、縄文から弥生、日本国家の形成に至る過程では、不明な点が数多く存在します。

特に、古代に至っては、古文書も少なく『古事記』や『日本書紀』に見聞を求める以外、方法がないのが現状です。

風土記は別として、色々な古文書も残っていますが、現実性や真実性に欠けているものばかりで、参考にはならないような気がします。

今回は縄文文化が、日本でいち早く開花した東北地方にスポットを当てて、記してみたいと思います。

旅をする中で、歴史を探ることが私の活力源ですが、この探索をすることによって、その地方のルーツを知ることにもなります。

歴史と文化は切っても切り離せないものだといつも感じています。

素人的な考え方や解釈もたまには面白く、通説にとらわれない見方や考え方をすることによって、新たな発見が見出せます。

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縄文文化の頂点、「亀ヶ岡遺跡」の凄さ!

東北地方の縄文文化を代表するものはやはり「亀ヶ岡遺跡」でしょう。

ここでの発見は、日本の縄文文化を世界に代表するものとされています。

亀ヶ岡文化が生み出した洗練された美しさや多種多様なフォームをもつ亀ヶ岡式土器。

玉作りや漆工芸に見ることのできる精巧な技術。

そして言わずと知れた遮光器土器に代表される呪術的な精神の表現に、ここの縄文の世界を読み取ることができます。

また、この場所を訪ねて見ると感じるのは、亀ヶ岡遺跡が縄文文化の晩期。

つまりその終末に位置づけられる意味で、日本の縄文文化が発達した到達点としての性質を持つと考えています。

なぜならば、約一万年もの長い年代をかけて発達してきた縄文文化の行きついた姿やその技術を、亀ヶ岡遺跡はひとつひとつ教えてくれているように見えるからですね。

亀ヶ岡遺跡を日本史の上で正しく認識しようとするなら、その歴史的な位置づけを見据えることが必要だと思います。

縄文の華とか技術を讃えるだけでは理解できない矛盾や苦悩があって、そのことを一番よく知っていたのが、亀岡文化の担い手であったはずです。

担い手たちは、その事情を克服するために、将来に進むべき道を選択することを余儀なくされたと思います。

その選択は伝統的な生業を続けるか、新しい稲作農耕に転換するべきか、という維新的な出来事であったに違いありません。

有能な狩人たちは、考えあぐねた末に二つの道に分かれるに至ったと考えます。

ひとつは先代的な狩りを続ける続縄文の道であり、他は近代的な稲作を学び受け入れる弥生文化の受け入れではないでしょうか。

新しい時代の波が西から入ったために、東北地方が距離的に遠隔にあたることや、冷涼という環境に左右されて少し遅れをとったとみるのが常識的な考え方だと思います。

しかし、このことも背景にはあったと思いますが、必ずしも正確な認識とはいいがたい面もあります。

なぜならば縄文時代の情報や文物の伝播には、現代の物質文明に溶かした私たちが考えも及ばない流通や交流があった事を、土器型式の伝播に見ることができます。

したがって、亀ヶ岡遺跡は亀ヶ岡文化の象徴であり、東北縄文文化を築いた礎でもあるはずです。

東北の風土、東北人の気質が生み出した「東北」そのものであると感じています。

縄文「サイレントカルチャー」

明治以来、東北は一山百文といわれて生産性の低い土地とされ、近代日本の中では屈辱的な歴史をしいられてきました。

しかし、それ以上に東北の歴史を大きく変えたのは、大陸からの弥生文化の伝播による稲作農耕の生産活動と、それを強調とした農耕文化の形成です。

稲作に不適な風土によってとり残されたかにみえる東北は、今では美味しい良質な米を供給する場所となっています。

しかし、東北の伝統文化には稲作農耕だけで律することのできない日本の深層の文化が息づいています。

東北こそ日本文化の持つ「サイレントカルチャー」と呼ぶにふさわしい、隠された文化の原型を見ることができると思っています。

各研究者も東北を「縄文的原型」や「深層文化」と呼び、日本における古代の復権がここにあったと称しています。

近年でもテレビなどで放映された「東北が日本の中心、亀ヶ岡遺跡の謎」とかを暫定的に見て感じることは、これまでの日本史の舞台で脇役に甘んじてきた東北史を、一気に主役に祭り上げようとするジャーナリステックな発想が面白いと感じました。

また、平泉文化も特質した文化であることは言うまでもなく、それらを東北の誇りとする歴史観は必ずしも過大評価ではないと思います。

人口から見た東北地方

実際、縄文時代には、東北が関東や関西より先進地であったと考えられます。

先進地とする理由についていくつがありますが、わかりやすい要因は人口ではないでしょうか。

先年、青森県の縄文晩期の人口を試算したところ、約7000人近い数字が出ています。

晩期では東北が39500人、関東では約8000人、中部では約6000人、近畿では2000人となり、東北が全体の50%以上を占めています。

人口試算は、遺跡数をベースにしています。

遺跡は当時の村落なので、東北には村と人口の数が他の地域よりも多かったことが分かります。

人口や村の数が多いことは、生活を維持するに足りる生産力が常にあったと解釈できます。

縄文時代の人々は、主に狩猟、採集、魚撈によって生活を支える食料資源を確保しています。

したがって、人口の多いことは、食料資源を供給する自然環境に恵まれていたということではないでしょうか。

また、東北は紅葉樹林帯に属し、クリ、トチ、クルミなどの堅果類を豊富に供給し、それが主食になったと考えられます。

現生のブナ林帯には、シカ、イノシシ、クマ、ウサギなどの動物が生息し、主要な食糧資源となりました。

東西には千島寒流が北上する日本海に面し、他地域と比べても魚介類は豊富だったことは間違いないでしょう。

実際に、太平洋沿岸の貝塚からは、アシカ、トド、オットセイなどの海獣類の骨が出土しています。

このような生業の背景には、それらを捕獲するための採集具、狩猟具、漁撈具などの道具の制作と改良があります。

生産の道具だけではなく、加工の道具も盛んに作られて、生活が安定すると調理の道具である容器(土器)が大量に作られました。

生活が安定し豊かになると、なお一層その生活を維持し、向上させたいと願うのは、今も昔も変わらないはずです。

そのために人々は、精神的な呪術の世界を作り上げたのでしょう。

それが土偶であり、土版、岩版などの信仰にかかわる遺物で、これらはとりわけ東北に盛行しました。

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北方的性格をもつ東北縄文文化

日本列島の縄文文化は西と東では対照的です。

東西に長く連なる列島の地理・地形は朝鮮半島とシベリア・樺太に端を連続します。

そのために、常に北方の文化と南方の文化と多少なりとも関わっていることがあります。

文化を背負う人間の交流や人種的な移動が、そこに深く関わっていることも見逃すことができません。

これは非常に難しい問題だと思いますが、日本列島は人種的には一系統と考えることはできないはずです。

旧石器時代に始まる日本の人種は、縄文人に受け継がれた後、弥生人の移動を受け、さらにアイヌ人も南下し、複雑に混ざり合って人種を構成し、現在の日本人に続いていると考えられます。

元来は、氷河期時代に大陸から陸橋を渡ってナウマン象、マンモス、野牛などの大形獣を追い求めてやって来た狩人たちは、シベリア方面と結ぶ陸橋と朝鮮半島を結ぶ陸橋を渡って、北と南から進入した二系統の人種であったと考えられます。

後氷期の海水面の変動によって、取り残された北方系と南方系の種族が同化したものが旧石器人と考えられるので、日本人は当初から人種的に混血の要素をはらんでいたわけです。

その後の弥生人やアイヌ人の移動もその延長線上にあり、難なく受け入れることができたのだと思います。

こういう民族の大移動ともいえる移住のほかに、日本列島の内部で民族間の小移動と文化の交流が頻繁に行われ、その交差のの過程で東北の縄文文化が培養されてきたといえるでしょう。

もともと、日本の考古学の学説の中で、初期の縄文文化が、南北二系統の文化から成り立っているという説を説いた人は何人もいます。

実際に旧石器終末の青森県長者久保遺跡(上北郡東北町)に出土している局部磨製石斧の類品が、シベリア・樺太にも出土しています。

円筒土器の消滅と大木文化

早期後半から前期初頭にかけて、東北では縄文を多用した縄文土器群土器文化が形成されたとみていいでしょう。

それまでの土器は、縄文土器といいながら必ずしも縄文を主体にしないものでありましたが、縄文のみを施文する文字通り縄文土器らしい土器を製作するようになります。

そして前期には、土器の文様変還が短絡的に交錯する時期を経由して、東北の縄文土器を代表するひとつである円筒土器がつくられていきます。

東北の縄文土器の変遷を系統的にとらえようとする時、新しい土器文化の特徴が出自する際に必ず異系統の土器文化が影響したり、多少なりともどこかに関わっているといえます。

前期のはじめには、東北の土器は縄文を多用するものでしたが、東北の北部と南部に円筒土器と大木式土器が分布して以来、大木式では縄文を消失し、逆に円筒土器に縄文が駆使されるようになります。

実際に今でも、この円筒土器は、日本の縄文土器の中でも、縄文土器らしい土器と評価されています。

東北南部の大木式土器文化と北部の円筒式土器文化が東北を二分し、前期から中期中頃まで長く対等する形をとり、その関係が約2000年近くも続いたと見えます。

この二つの土器文化が東北に形成される頃は、縄文のピーク時にあたり、気候が今よりもはるかに温暖で安定していたみたいです。

こういう背景の下に、東北独自の地域性の強い文化が力強く発達していったのではないでしょうか。

また、親潮と黒潮が合流する潮間帯にあたる東北南部の沿岸水域は、豊かな漁場であり、三陸から仙台湾に至るリアス式海岸には数多くの貝塚が存在し、釣針や刺突具の漁撈文化が発達しました。

石斧、石槍等も発達し、磨き石、たたき石の生産用具や加工具の出土量も多いです。

それは、海と山に恵まれた自然環境による豊かな食糧資源の存在を意味します。

東北北部の円筒土器は、文字通り円筒の土器という意味で「長谷部言人」氏が名づけたものです。

また、面白い話で、円筒土器を出土する遺跡の発掘は、発掘者たちから敬遠されることが多いと聞いています。

その理由は、土器や石器の出土量が膨大で発掘後の整理に多くの労力を要するからといいます。

円筒土器の廃棄は、土器塚といっていいほど多量です。

まあ、土器の墓場といっていいのかもしれません。

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精神文化の造形美

東北の縄文文化をもっとも特徴づけるのは、土偶などの精神文化の造形ではないでしょうか。

実際に遮光土器に代表される東北の土偶と造形の美は、まさに優品であり比類がないと思います。

土偶は縄文信仰の頂点に立つ「神」と考えます。

呪術を主体とした縄文信仰の魔術を造形した祈りのシンボルとして存在する土偶は、縄文人の内にある「万の神」(よろずのかみ)、すなわち動物の神、石棒、石刀など無機物を造形した神を司ることのできる神であり、それは縄文世界では霊感を持った女性でした。

このような土偶の祭祀が完成するまでには、長い年代を費やしていると思います。

土偶の祭祀は縄文時代の初期から完成されていたとは考えにくいものがあります。

東北では、前期の円筒土器文化にはまったく土偶祭祀が行われていなかったみたいです。

それは前期の土偶が東北北部にはまったく見当たらないからです。

前期の円筒土器文化では、人形の造形物として岩遇が数少なく存在するだけで、それは前期末から中期に入って大木式土器文化の土偶の影響によって作られるようになるからです。

東北北部では、土偶にしろ土版にしろ最初は岩石を材料にして作られている特徴があります。

土版の最初も後期の岩版に始まります。

円筒土器は縄文模様の到芸といわれていますが、東北北部の中期の土偶にも縄文がよく使われています。

ある意味、何か一つのものを成し遂げようとする時、極限まで熱中する東北人の気風かもしれません。

例えば、石で石を切る擦り切り磨製石斧の技術も東北によく発達しました。

後期に多い青竜刀型石器のフォームも、最初は青森県二ッ森貝塚(上北郡七戸町)の中期の鯨骨製で完成されたみたいですが、石を加工して典型的なフォームに仕上げました。

晩期の石棒の原型も後期に創られました。

石の芸術のシンボルは、秋田県大湯遺跡(鹿角市十和田)のストーンサークルでしょう。

日時計説などさまざまな俗説を生んだこの巨石記念物は、今から30年ぐらい前の調査で列石の下部に改葬カメ棺を埋葬した土壙跡を確認し、墓と結論づけられています。

とすれば、立石を持つ大湯型のストーンサークルは墓標ということになるでしょう。

同時期では、このほかに土壙跡の内壁に板石を組み込んだ石棺墓があり、やはり改葬カメ棺を伴う場合があります。

このカメ棺墓は、一度土葬ないし風葬した人骨を壺型の土器に収納した東北の独特な埋葬方法です。

青森県一ノ渡遺跡(黒石市)では方形の集石の下部に土壙跡があり、青森県玉清水I遺跡(青森市)では晩期初頭のものと思われる中央に石棒を立てた集石の下部に土壙群が発見されています。

このように、集石、組石のストーンサークルは後期に多く、石の文化と呼ぶにふさわしいですね。

大湯ストーンサークル館には、幼児ほどの大型土偶(肩から腕の部分)が展示されています。

これを復元したら、たぶん日本最大級の土偶になるのではと思います。

岩手県盛岡市にある、しだない遺跡から出土した土偶頭部は、頭の大きさが22cmもあります。

これは成人の頭部とほぼ同じ大きさです。

これらの土偶は、これまでの土偶観念を大きく変えるものと高く評価できるでしょう。

それは、土偶は大きくても30cm~40cmを限界として、堂中に入る人形の域を出ないものが多かったですが、人間の等身大に匹敵する土偶の存在によって、土偶に対する考え方を変える必要性が生じました。

これらの土偶は、何か抽象的な祈りの対象だけではなく、縄文世界の観念的な宗教思想にも似た存在ではなかったかと思います。

また、したない遺跡からは、トーテムポールに似た木像も出土しており、北陸の真脇遺跡からは、ウッドサークルが発見されています。

これらの発見事例を見ていくと、ただ単に呪術とか信仰という原始宗教にとどまらない、もっと大きな宗教体系があったようにも思えます。

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東北縄文文化のまとめ

東北というよりは、日本の縄文文化が長い年代をかけて発達してきたのが亀ヶ岡文化だと思います。

同じスタートラインから始まった縄文文化が、東北に華を開いたのは、紅葉樹林帯の豊かな自然環境によるところが大きいでしょう。

それとともに、東北の縄文人が持つ気質も影響していると思います。

数多くの伝統文化や伝統技術が、東北に温存されていることもその表れだと感じています。

ストーンサークル、遮光土偶、あるいは亀ヶ岡遺跡に代表されるように極めて象徴的であり、映像の世界でいえば絵になると表現することができるでしょう。

旅をして思うのが、なぜか東北には縄文文化がよく似合う、ということです。

それは、東北の縄文文化が、他地域に先んじて劣ることのない先進地域であったからです。

また、ご機会があればお寄りいただければ幸いです。今日は最後までお読みいただきありがとうございました。

※旅好きブログです。私が旅をした記事や観光関連の記事を載せています。見てくださいね!

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