【天明の大飢饉】日本を襲った生き地獄

災害の歴史

タイトルでも示しているように「天明の大飢饉」です。

学校の歴史の授業でも聞いたことがあると思いますが、日本の歴史の中で、幾度となく繰り返されてきた大飢饉。

その中でも「人肉を食らう餓鬼地獄」といわれて、今でもすべてのことがはっきりとしていない「天明の大飢饉」です。

私が旅をしながら、約5年間という時間を費やし、この大飢饉のことを調べて、そしてまとめてみました。

はっきり言ってこれを記すことに少しためらいもありましたが、私なりに解釈しそして理解したことを記していきたいと思います。

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天明の大飢饉、厳封された『飢饉考』

盛岡市の中央公民館に、天明3年(1787)と4年の南部藩大飢饉の凄惨な状況を描いた、きわめてリアルな絵が6枚ほどあるといいます。もちろん私は直接見たことは有りません。

お救いの小屋」と称する藩直営の施粥施設と、食を求めて荒涼たる山野をさながら幽鬼の如くさまよい歩く「流民」の図だと聞いています。

粥といってもほとんど水に等しく、それをもらおうととして骨と皮ばかりの手を差し出す餓死寸前の姿は、とてもこの世のものとは思えないと聞いています。

これは南部藩と隣り合わせの一関の田村藩の蘭医建部清庵編『民間備荒録』の中にある絵で、江戸の浮世絵師「北尾重政」の模写ということです。残念ながら原本の作者は不明です。

建部清庵はこの飢饉のころ、南部領内に入って惨状をつぶさに見て歩き、この『民間備荒録』と『備荒草木図』を編纂し、山野に自生する草木の中から食べられる植物を選定し、飢饉に備えるように説いています。

江戸の蘭医で『解体新書』の訳者として有名な「杉田玄白」と親しく、次男の杉田伯元を養子にして後継者とし、父子ともに日本の近世蘭学発展の貢献に寄与しました。

さて、南部藩のことを調べていて分かったのですが、慶長5年(1600)から明治元年(1868)まで268年間に85回の大凶作に見舞われています。

そのうち餓死者を多く出した飢饉が、

●元禄8年(1695)から連続して12年までの5年間

●宝暦5年(1755)から3年間

●天明3年(1783)から5年間

●天保4年(1833)から3年間

これら4つの飢饉を「四大飢饉」と呼んでいます。

中でも天明3年から4年にかけての飢饉は、疫病も発生して最悪の状態だったと聞きます。死者は64091名、他領逃亡者3330名、空家10545軒を記録しています。

また、こういう記述も残っています。

凶歳天明三年の十月の末かと覚ゆ、わけて寒冷も甚だしかりしが、わが町内へ十三、四歳程の女の子、飢えに疲れ衰え、もはやもはや立ち居るもかなわず、倒れ伏し泣きわめきしを近所の家僕ら集まりて生きながら俵に入れ、それをかつぎもて行きて中津川の下の橋辺の木辺へ捨てたるを見たり

この生々しい記述は『内史書』の著者として知られた南部藩士、「横川良助」がまだ八、九歳のころ、目のあたり見た天明3年の大飢饉の生き地獄のような模様を自署『飢饉考』に収録したものです。

中津川」とは、南部藩の城下町、盛岡市の中央を流れる川で、夏から秋にかけて鮎釣りの姿が美しい風物詩となっている場所です。

私も一度行ったことがありますが、この川で230年前にかかる惨劇があったかと思うと、言い知れぬ感概に襲われてしまいます。

この「横川良助」という人は、本来和算の専門家で、彼が編纂した多くの数学書が今でも、東北大学に収められ、日本の数学史の重要な史料となっています。

若い頃は病弱のため、お役御免となり、一時期私塾を開いて藩士たちに教授していたこともあります。しかし中年以降は、その塾も閉じて、後年いわゆる「平民宰相」といわれて、大正10年11月、東京駅で暗殺された「原敬」の菩薩所となった、盛岡の大慈寺に身を寄せました。

この寺の一室で南部藩外史ともいうべき『内史畧』・『飢饉考』、その他多くの見聞録を密かに執筆し、安政4年(1857)84歳で亡くなりました。

横川良助は生涯一度も結婚せずに、独身で過ごしたと聞いています。数学者だけにどの著作も透徹した史眼で封建社会の諸相を分析し、簡潔な文章作法によった臨場感あふれる歴史書になっていると思います。

また、死期が迫ると、自らこれらの著書を木箱に厳封し、「密事多く記したれば国禁の書として罪科をこうむるやもしれず、絶対に人目につかぬよう保存すべし」との意味のことを蓋書として生家横川家の土蔵の奥深く秘蔵しました。

一部公にされたのは明治36年、原敬が私費を投じて『南部史要』の編纂に着手した時で、所蔵者である「横川謙吾」が引用書目として提供したからだといいます。

親兄妹の死骸を食らう娘

『内史畧』は戦国末期、北奥羽の一角に封土を得た南部藩が、幕藩体制の中の一単位として生き続けるために、いかに苦悩し、どのような過程をたどって崩壊の道を歩んだかを、あらゆる史料と、良助自身の目で見て、そして耳で聞いた事実をもとに証言した記録書です。

舞台はあくまで南部藩ですが、このひとつの藩に象徴されるあらゆる出来事は、すべての藩に共通するものだと考えます。

44巻からなるこの書は、政治・経済・社会・文化・民俗・世相の各分野にわたっていますが、後年の20巻は著者の同時代史というべく、凶作・飢饉・百姓一揆・お家騒動など、藩政後期の実体を克明に記しています。

このなかから特に飢饉だけを抽出して照写したのが『飢饉考』です。

『内史畧』と表裏一体をなすもので、寛永18年(1641)から嘉永3年(1850)まで約200年に渡って南部藩に発生した凶作と飢饉の惨状を余すところなく伝えた壮絶な「白書」です。

『飢饉考』はその3分の1ぐらいを天明の大飢饉のことについて記していますが、良助が晩年になって述べた言葉が記されています。

幼少のころ、いくたびも凶作飢饉に遭ったが、まだそれを書き留めて置く年でもなかった。

しかし、いま77歳の星霜を重ねて、いろいろの記録に目をとおしたが、飢饉の事実を正確に伝えているものが無いに等しいので、幼いころ、自らの目で見た事実と、また折にふれて両親や縁者の語った話が耳に残っているので、それをありのまま書き残すことにした。

といった意味のことを序章で述べています。

天明3、4年の大飢饉の時、良助はまだ9歳でしたが、少年の脳裏には地獄絵を見るように映じたことでしょう。

ある人、奥筋の百姓へ金銭取り立てのことあってその家の門口に至りしが、小児の声にて一声”ひひ”となく声してその後音無し。

余りに啼く声急卒なりし、不思議に思いそつと壁の破れしより覗き見るに、家内餓死尽せしや外に男たる者も見えず。

ただ女人ありて小児を膝の下に押し伏せその片腕をもぎ放し直ちにその手を食い居れり。

この催促人これを見て恐れおののき慄えわななきて家にも入らず、抜足、さし足で早々に逃げ去り帰りて語りしとなん。

父母の語らせ給いしに、予幼きながらも恐ろしきことやと耳に残れり。

さぞやその子はこの女の子なるべきに、かかる時節に至っては親子の愛も飢餲の為には忘却せるなるべしと恐ろしかりし。

これは、良助が父母から聞いた話ですが、これはまさに餓鬼道でしょう。はっきり言って、この文章を書いている自分が嫌になるというか、頭の中に映像が浮かんできて、まるで地獄を見ている感覚に陥りました。

また、こういう話もあります。

親兄弟の死体を切り刻んで煮焼きして食い尽くした娘が、たちまち猛獣の如く眼をらんらんとさせて、髪を振り乱しながら山野を駆け巡り人を見れば食いつく。仕方なく村では鉄砲で射殺したということです。

正直、恐怖とか残酷とかいう形容詞ではとても表現できません。身も凍るような話ばかりです。

ここに載せているのはほんの一例です。書にはすさまじいほどの実体が書き綴られています。

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天明の大噴火、浅間山との関係

このブログにも「浅間山の天明の大噴火」について記していますが、『飢饉考』ではこの凶作、飢饉の原因のひとつとして、天明3年7月の浅間山の大噴火の影響をあげています。

良助はこの爆発を「浅間山焼崩れ」と称しています。その被害の状況を詳しく述べた後で次のように記しています。

浅間山焼けしより後、殊に暑さの照り更に無く、秋冷いやまして稲の穂出でたるままにて実りなく、奥州辺甚しく不熱ゆえ飢饉となり、南部、津軽、仙台辺餓死に及ぶ者おびただしく、金銀貯えある者は山老(ところ){野生の芋の一種}というものを買い求めて食し命を助かりしと。
そのほか食い物なくて藁(わら)の団子、松の皮の餅など食し、また犬猫牛馬など食せし故、犬一疋鳥目五百文、猫一疋三百文の高値にて売買せしとなり、そのほかありとあらゆる人の食わざる物まで食せしとぞ。

と、浅間山の爆発が遠く奥州一円にまで不作をもたらしたことを強調しています。実際にはこの爆発の影響は日本だけではなく、世界的にも影響を与えており、ヨーロッパの産業革命の発端となる要因の一部にも指摘されています。

この天明3年の大飢饉が、7年後の寛政2年(1790)に至るまで後遺症となって惨さんたる光景が旅人の目を驚かせています。

その代表的な例が寛政三奇人の一人、「高山彦九郎」の『北行日記』です。

これは寛政2年6月から東北を巡歴、京都に着くまでの日記ですが、南部領内の、この大飢饉の惨状がそのままの形で7年後まで保存されていたことを恐怖の表現で書き記しています。

『飢饉考』はこの『北行日記』を引用しています。書くと長くなるので今回は引用文としては記しませんが、さすがの高山彦九郎も、この想像に絶する惨事を見て、「天変地異」とはかくもすさまじきものかと驚いています。

横川良助も『飢饉考』の中で、しきりに「天変地異」の文字を用いて、天明3年の凶作、飢饉に至るまでの異常気象について詳しく記しています。

「卯年(天明3年)凶作にて飢饉たりし事、天よりは災いを降らし、地にも変ありしより発れり」

といった書き出しで、その前年からの気象状況を記しています。

それによれば、12月というのに異常な暖気が続き、菜の花が咲き、また筍(たけのこ)が生えて陽春3月を思わせた。しかも時ならぬ雷雨が度々あり、冬の陽気としては前代未聞のこととみな不安を感じた。ところが年が明けて春になるとひどい寒気となった。

その後は雨の日が多く、晴天の日はきわめて稀であった。それが5月に入ってもなお続き、田植えの季節はさらに寒さがひどく、早くも不作が取り沙汰され、物価の高騰を見る。

7月の上旬には砂まじりの雨が降る。時として白い毛のようなものが飛んでくる。毎日のように地鳴りして夜も昼もそれがつづく。

稲妻がひっきりなしに目を射て、雷が鳴る。全く生きた心地がしない。しばらくして信州の浅間山が大噴火を起こしたという風説が伝わってきて、その異変はそのためかと思われた。

稲作にもっとも大事な7月頃は毎日のように雨が降り、残暑もほとんどないままに秋冷が早く訪れ、出穂がなく、雨天と曇天を繰り返し二百十日前後は昼夜北風が吹きとおし、9月の末は長雨が続き、田畑は実らなかった。

というような記述が続いています。

南無粥陀仏うすい菩薩

動転愁記』という天明3年、4年の飢饉の惨状を画いた記録があります。筆者は不明ですが、「民話のふるさと」といわれる南部藩遠野地方の侍ではないかといわれています。

盛岡事情にも詳しく、市内の報恩寺の「お救い小屋」の無惨な様子を次のように述べています。

盛岡表は去月頃より報恩寺に於て朝夕お粥下され、御仁政に随い近郊は申すに及ばず、遠方より追々入り込み数百人、賄い下されども寒気に打たれ死人少なからず、御寺内に大穴を掘り入れ候。右人数の内には綿布着用の者も候由。

遠野にても度々お救い米下され候えども、疲るゝ上、寒気により倒れ死ぬ者もあり、餓死人、ここかしこに見聞すれども耳目なれて珍しとも思わず。

この中の「お救い小屋」というのは、藩が飢饉対策として盛岡の北郊にある藩主ゆかりの名刹報恩寺その他の寺院に設けた粥の給食所のことです。

米一合に水七合という割合の、白湯同然のものだったので、ほとんど救済の役に立たなかったのが現状です。

皮肉にもやっと、そこまでたどり着いたが、名ばかりの粥を口にしたと思ったらそのまま息絶える者が多かった。それを境内の空き地に穴を掘って埋めるのに一苦労だったという。

粥の入った木のお椀を手にして「南無粥陀仏うすい菩薩」と唱えて死んでいったことが、今でも語り継がれています。

飢人城下を彷徨す」と藩の記録にも残っています。

山野はおろか盛岡の町にも至るところに餓死者がゴロゴロと転がっていて、それをまた飢えた犬が食う。あまりのことに藩は、そんなことがないように、犬に食べ物を与えて、死体を食わせないようにせよという布達を出しました。

とうてい、信じがたい、バカげた話です。

天明3・4年の場合、他領逃亡者が前途のように3330名と記録されていますが、このうち何パーセントの人が無事に他領へ逃亡し得たかは疑問です。

江戸中期の医学者「橘南谿(たちばななんけい)」がこの飢饉時に奥州各地を回りましたが、秋田地方から南部地方に入るに従って白骨が至る所に散らばっているのに驚く。

最初の日は一里進む毎に20体ぐらい見たが、その翌日は約30体、3日目は50~60体と次第に多くなっていく。

後は見なれて格別の不詳とも覚えず、杖もて動かし見るに、火葬せし髑髏(どくろ)とちがい生骨の事なれば牙歯も全く備わり、婦人の頭あり、小児の頭あり、老人、壮者みなそれぞれ見分けつくべく、肩、肘、腰、眼等の骨の模様逐一に委しければ、医者の稽古なり、丹生によく見よなど進めてみる事になりぬ

と記しています。

いかにも医者らしい書き方ですが、これらの白骨は秋田領へ逃亡しようとして途中で死んだ、いわゆる「餓莩(がひょう)」といわれるものです。

南谿は伊勢久居藩の人で、天明2年から6年まで全国を巡歴し、代表的な著書に『東遊記』・『西遊記』があります。後年は朝廷に仕えて石見介に補せられましたが、日本医学の発展に大いに貢献した人物です。

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【天明の大飢饉】日本を襲った生き地獄のまとめ

令和の時代では「飢饉」という言葉でさえ死語になる世の中です。この時代は日本全国で飢饉が常に発生しています。大きな要因は「天変地異」といわれる「自然災害」です。

大地震・火山噴火をもとに起こる異常気象、これは日本だけではなく世界的に起きた現象ですが、地球が存在する限り周期的に襲ってくる自然現象であり、人間が止めることができないものです。

現代に生きる私たちにとっては、信じがたい記述であり、盛岡市でも当時の面影をしのぶことは容易なことではありません。

盛岡市北山の東顕寺という寺の門を一歩入ると、大きな自然石に「四百十男女餓死亡霊等」と刻まれた供養塔があります。

「天明三年卯従十一月二十日・天明四辰三月初八日迄」とあります。

建立が「文政七年四月吉日」と書いているので、40年後に施餓鬼を行って建てたものだと聞いています。

この寺にも「お救い小屋」があったと聞いていますから、おそらくこの寺まできて、一椀のうす粥を口にしたまま果てた人を供養したものだと思います。

実際にこの時期、北部九州でも飢饉が発生しています。現在の福津市にある「宮地嶽神社」の参道階段の途中には、自然石で作った当時の飢饉の供養塔が設置されています。

この「南部藩」を襲った「大飢饉」はまさに、藩民を皆殺しにする天災でもありました。しかし、その裏では政治的背景が絡み合い、藩当局の無為無策は、その犠牲をさらに増大したのではないかと考えられます。

また、ご機会があればお寄りいただければ幸いです。今日は最後までお読みいただきありがとうございました。

※旅好きブログです。私が旅をした記事や観光関連の記事を載せています。見てくださいね!

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