【珠洲温泉】大伴家持の秘湯!

温泉開湯ストーリー

石川県珠洲市、能登半島先端に位置し、市の中でも人口が日本一少ない街ですね。

この珠洲のという地名の由来は、能登半島から古くからある須須神社に祀られている「瓊瓊杵尊」に由来しており、元祖天祖系の流れを汲む神社です。

温泉は珠洲市全体に跨っており、外浦・内浦に分かれていて源泉はそんなに多くはありませんが、良質な弱食塩泉で、古くから地元の人々に愛され続けている温泉郷ですよ。

冬に一度訪ねましたが、メチャクチャ寒かったですね、温泉はとても気持ちいいですよ。

また、外浦からは絶景の日本海を望み、内浦からは日本を代表する山岳風景、立山連峰を望み、四季を通じておいしい海産物が味わえる場所です。

海産物は本当にうまかったですね!

では、ちゃんと紹介しろよ、と言いたいところだと思いますが、なんせ言ったのは18年前の話、当時はスマホはおろか携帯すら持っておらず、電話といえば公衆電話の時代でしたから、記録に残る写真は一切ありません。

そういえば「写ルンです」を使って何枚か写真を撮った記憶がありますが、そんなもん、もう残っていませんね。

と、いうことで、歴史に走り、今回は万葉の歌人「大伴家持」と珠洲温泉の関係について少しばかり記事って行こうと思います。

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珠洲温泉と国守としての大伴家持

珠洲の海に朝びらきして漕(こ)ぎくれば長浜の湾(うら)に月照りにけり

万葉の歌人「大伴家持」が、越中の国守として今日の富山地方にやって来たのは、天平18年(746)のことです。その後天平勝宝3年(751)までの5年間、彼は国守として在任し、この地方の風物を多く歌に詠みました。

能登地方は、古く「能登国」として独立していましたが、天平13年(741)には越中国に属しました。越中国の国守だった家持は、在任2年後の天平20年(748)春、出挙(すいこ){官稲を民間に貸し付けて利子稲をとること}の状況知るために越中諸国を巡行しました。

当時すでに能登は越中に属していたから、家持は能登4郡(羽咋・能登・鳳至・珠洲)の巡察に向かいました。冒頭の歌はその時のものですね。

越中の国庁は、今日の高岡市伏木にあったので、彼は氷見(ひみ)に出てから、白ヶ峰を超えて羽咋市の志雄町に出ました。ここで能登一宮の気多大社に参拝し

之乎路(しおじ)から直(ただ)越え来れば羽咋の海朝凪ぎしたり船舵(ふねかじ)もかも

と詠んでいます。

さらに彼は七尾に行き、船で七尾湾奥の熊木(現七尾市中島町)に出て、半島を横断して鳳至郡(現輪島市鳳至町)に至っています。そして、

妹に逢はず久しくなりぬ饒石川(にぎしかわ)清き瀬ごとに水占(みなうら)はへてな

と詠みました。饒石川は門前町の仁岸川を指しています。

さらに家持は鳳至郡から能登半島最北端の珠洲郡に及びましたが、家持一行がここからどのルートを通って行ったかは参考資料が乏しいためわかっていません。

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古代出雲と越国(こしのくに)を結ぶ重要拠点、珠洲

当時の玖珠郡は、現在の飯田を中心として大部分が珠洲市になっています。半島の先端、禄剛崎(ろっこうさき)の近くには「狼煙(のろし)」という地名がありますが、ここは北辺警備の烽(とぶひ)が置かれていたのでしょう。

烽とは、古代の軍事施設、またそこで、火を焚き煙を上げて行う非常を通報するための合図、飛ぶ火の野守とも呼ばれていました。

そして寺家(じけ)には冒頭でも記した珠洲の語源にもなった延喜式の古社「須須神社」があります。この神社は高倉宮・金分宮の二殿からなっていて、高倉宮の祭神は「瓊瓊杵尊」の外五神ですが、相殿には美穂須々美命(みほすすみのみこと)が祀られており、この神がもとは主祭神だと思われます。

ここで少し、なぜこうなったのかを調べてみました。資料が乏しいので深くは掘り下げられませんが、美穂須々美命は、出雲の「美保神社」と深い関係があることが分かりました。

『出雲国風土記』によると、出雲の大国主命が越国の美しい女神、沼河比売(ぬなかわひめ)を妻訪い、その間に生まれたのが美穂須々美命であると記しています。

シイやタブの照葉樹林に囲まれた須須神社は、もともと半島の先端山伏山の祀られていましたこの山伏山は、沖を往来する人たちの航海の目印の山で、安全を祈願する山でもありました。

須須神社を考える時、古代の能登は日本海を通じ、出雲と越国を結ぶ重要拠点のひとつであったということが分かってきます。

また、須須神社の社宝には、鎌倉時代の木造の男神像5体と、奥州へ落ちて行く時、源義経が奉納したという「蝉折れの笛」があり、境内には、義経をしのんだ村上元三の「義経は雪にきえたり須々の笛」の句碑が立っています。

さて、天平時代の珠洲の郡家の位置ははっきりとはしていませんが、飯田の東、正院という説があります。この辺は遠くに見付島も望め、先に記した家持の歌のように、能登の巡察を済ませた彼が、朝の静かな珠洲の海へ船出していく姿が思い浮かびますね。

やがて、海路を越中の国庁へ向かって行くと、いつの間にか一日も暮れて、長浜湾にもう月が出ているという意味ですが、実はこの長浜湾は今の七尾付近ではないかという説が出ています。

また、大伴家持が巡察に来た頃、珠洲温泉があったかは関係資料を見る限り、正直なところ少し疑問でもあります。

実際には、この珠洲温泉というのは、鵜飼温泉といわれていて、今日のようになったのは今から約70年前ぐらいのことです。

今でこそ市営の国民宿舎能登路荘や、旅館・ホテル・民宿がそろって立派になっていますが、昔は、近所の人たちが鵜飼川に湧く湯で足を洗ったり大根を洗ったりしていたといいます。

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珠洲温泉、大伴家持の秘湯まとめ

この土地に古くから住んでいる古老の人たちに、この温泉のことを聞いて見ると、この湯に入れば、神経痛にはよく効いたというから、千数百年前、ことによると大伴家持もこの湯につかり、巡察の疲れを癒していたかもしれませんね。

見付海岸に立つ公共の宿「のとじ荘」、天井まで届く大きな窓からは、また大露天風呂から一望できる大日本海の勇壮な風景、そして振り返れば海を隔てて立山連峰が見えます。

ここから珠洲飯田まではバスで約20分の旅、飯田では毎月2と7の日に「ニシチの市」といって市が立ちます。輪島の朝市は有名ですが、それとは違った素朴で楽しい市でした。

能登半島の最先端に位置する珠洲市、そして日本海に広がる珠洲温泉、大伴家持が詠んだ歌からも、古代能登の歴史と文化を創造させ、日本史に残る風景を今も醸し出しています。

今日は最後までお読みいただきありがとうございました。

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