【白浜温泉】有間皇子の悲劇

温泉開湯ストーリー

南紀白浜温泉」といえば、かつては「日本三大温泉」といわれ、熱海温泉・別府温泉と並んで日本屈指の温泉郷でもあります。

また、温泉としての歴史も古く、「日本三大古湯」のひとつに数えられていて、古い文献では「牟婁の湯」とも呼ばれていました。

現在の温泉郷が形成されたのは、大正中期以降で、現在では白良浜沿いの南部には大規模なホテルが林立していますが、温泉街には今でも古い旅館や民宿も多く点在しています。

今回は、この白浜温泉(牟婁の湯)を舞台にした「有間皇子」の悲劇を記していきます。

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有間皇子、日本版「ハムレット」の悲劇

和歌山県の白浜が「牟婁の湯」として初めて歴史に登場したのは『日本書紀』の斉明天皇3年(657)のことです。「有間皇子」の悲劇の舞台としての、いささかドラマチックな登場でもあります。

ハムレットを読まれて、内容をご存知の方も多いと思いますが、後世、日本版「ハムレット」と呼ばれた天皇家系の一大悲劇ですね。

さて、仕掛け人クロ―ディアスは中大兄皇子、後の天智天皇です。悲劇の主人公ハムレットはもちろん有間皇子です。

有間皇子は父(孝徳天皇)の死後も天皇を継ぐこともできずに、父の弟のクロ―ディアスとの勢力争いに巻き込まれていきます。

父の后であった間人皇妃(はしひと)は、中大兄皇子の内縁の妻であったということです。まさに、ハムレットの物語そのままですよね。

『日本書紀』にはむしろこの逆に、悪賢い有間皇子が、中大兄皇子と天皇への謀反をおこし、発覚して処刑された記述になっています。

『日本書紀』はこの事件の後に書かれたものであるから、天皇家にはいささか都合のよい記述になっていると推測されます。

事実、よく読めば、その『日本書紀』でさえ有間皇子に同情的なイメージがあることが分かります。また、後世の詩歌などを見れば、ハムレットはやはり有間皇子であり、この事件はまさに、天皇の地位相続の血みどろな権力闘争に他ならないでしょう。

皇極天皇2年(643)に山背大兄王(やましろおおえのおう)が蘇我入鹿に自殺に追い込まれ、聖徳太子の上宮王家は滅びてしまいます。そして、その2年後が大化改新です。

蘇我入鹿は中大兄一統に斬られ、中大兄の義理の父、舒明天皇の子の古人皇子(ふるひと)は危険を感じて僧形となり、吉野の山に逃げ込みます。

孝徳天皇5年(649)には左大臣阿部倉梯麻呂(あべのくらはしまろ){有間皇子の義理の祖父}が死ぬと、数日を経ずして右大臣蘇我倉山田石川麻呂(中大兄皇子の義父)をいつわりの密告により自害に追い込みます。

密告した蘇我日向は、嘘だとわかった後にも死罪にはならず、ただ大宰府に流されました。

白雉4年(653)には孝徳天皇ひとりを難波長柄豊碕宮(なにわのながらのとよさきのみや)に残して天皇の后の間人皇后

や百官を連れて中大兄は大和に帰ります。

間人皇妃は中大兄と同母兄妹ですが、中大兄が長らく天皇の位を継げなかった理由は、この妹との異性関係が原因であった・・・という説が強いですね。

こうして見てくると、生き残ったのは中大兄とその一統です。ここに至るまでどのぐらいの血が流されたのだろうと考えてしまいますが、最後の争いのターゲットが有間皇子だったのです。

有間皇子は舒明天皇12年(640)、孝徳天皇44歳の時に生まれたひとり息子で、母は左大臣阿部倉梯麻呂の娘、小足媛(おたらしひめ)です。天皇家を継ぐにはふさわしい血筋ですよね。

中大兄が恐れ、あるいは有間皇子が「天皇家を継ぐのは自分・・・」と思って、この争いを始めたのかはわかりませんが、有間皇子18歳のことでした。

『日本書紀』斉明天皇3年に、「有間皇子 性黠(さと)し。陽(いつわ)り狂(たぶ)れて云々」「牟婁温湯(むろのゆ)に往きて、病を療(おさ)むる偽(まね)す」などと書かれています。

「性格が悪賢く、気がふれた真似をして、牟婁温湯にいって病気の治ったふりをする・・・」と、かなり悪くかかれていますよね。しかし、一説に本当ノイローゼだったという説も存在しています。

今日の白浜温泉の効能には、神経症とかノイローゼに効くとは書かれていませんが、本当に良くなったとしたら、きっと白浜の綺麗な海の景色のおかげでしょう。

この話を聞いた斉明天皇が、中大兄を伴って翌年に牟婁温湯に出かけました。これは中大兄の計算された計画であり、留守中に有間皇子にクーデターを起こさせる予定の行動でした。

出かけて半月ばかり後に、留守官(るすつかさ)の蘇我赤兄(そがあかえ)が有間皇子の宮殿に参上します。赤兄は前述の右大臣石川麻呂自害の事件の時、いつわりの密告をした蘇我日向の弟です。

この有間皇子事件の後、天智天皇(中大兄)に気にいられて右大臣の位になっています。

赤兄いわく「(中大兄には)三つの大きな失敗があります・・・」「だから今、天下を正す時です・・・」といった具合ですね。

この会談は色々な説もありますが、おおよそ有間皇子は「兵を挙げる時がきた・・・」とばかりに、その気になってしまったのでしょう。若いとはいえいささか情けない話でもあります。

作戦そのものも「まず皇宮を焼き討ちし、次に500人の兵をもって牟婁ノ津を封鎖し、軍船により淡路島との海路を遮断・・・云々」といった具合でした。

こともあろうに謀議の終わったその夜、有間皇子は相手の赤兄一族に「謀反人・・・」として宮殿を囲まれて捕まってしまいました。歌碑に詠われた情とは裏腹に、いささか格好が悪いですよね。

飛鳥から白浜までおよそ150km。今日の南部町岩代で「自ら痛みて松が枝を結ぶ歌二首」を残しています。松の枝を結ぶのは幸せへのまじないとされています。

翌日は白浜まで30km弱を歩いて、11月9日に中大兄らの前に引き出されています。

「なにゆえに謀反を企てたのか・・・」と聞かされた時、「天と赤兄が知っているであろう。私はなにも知らない・・・」と答えたその言葉が、このクーデター未遂事件のすべてを物語っています。

2日後の11月11日、有間皇子は和歌山県海草郡白坂で絞首されました。

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関西有数の歓楽郷、白浜温泉

白浜は田辺湾に突き出した、小さな岬と入江が造る風光明媚な温泉郷ですよね。入江の砂浜は真っ白な石英砂で、この白砂から白浜の地名が生まれました。

岬は白浜半島、先端の海上にかけて島を散らし、海食洞穴で掘り抜かれた円月島が、絵葉書のよい構図になり、緑も海も色もよく、入江は波静かで素晴らしいところですね。

江戸時代の『紀南郷導記』には、崎ノ湯の他に元ノ湯鉱ノ湯屋形ノ湯の四湯があって、「鉛山温泉郷(かなやま)」と呼ばれていました。後に新湯も加えて「湯崎七湯」と呼ばれていた時期もあります。

鉛山は鉛鉱山のことで、採掘跡が今も微かに残っています。地形的にも温泉街の背後まで丘が迫り、その立体的な街並みが周りの自然と調和してとてもいい情景を醸し出しています。

温泉街といえば関西でも代表的な歓楽ぶりで、昼間よりも夜に活気づく町でしょう。白良浜から南に下ると、海沿いに走り元ノ湯、鉱ノ湯などと続いて湯崎温泉街へ、ここが白浜のルーツですね。

温泉街のはずれで海ぎわに下ると、露天風呂の崎ノ湯がある。『日本書紀』でいう牟婁温湯はここという。牟婁は本来洞窟を意味していて、岩のくぼみから温泉が湧き出すのでこの名が生まれたという。

全面はすべて海で、この露天からその海を大らかに眺める。有間皇子ならずとも「病はたちまち治る・・・」の光景ですか。

それにしても、有間皇子謀反の報を待って、中大兄はどのような目でこの海を眺めていただろうか。歓楽の夜を温泉街で過ごす人は多くとも、この崎ノ湯を訪れる人は少ない。

崎ノ湯に通うホテルの片隅に「行幸芝」の石碑が寂しい。江戸時代あたりまでは、広々とした芝地の展望所あったと記されています。

他に有間皇子の昔を伝えるものは、瀬戸地区の熊野三所神社の本殿下に、「御腰掛石」と呼ばれるものがあるのみです。『紀伊続風土記』などに、斉明天皇の腰掛け石などと記されています。しかし見た目には変哲もありません。

観光的見どころとしては、湯崎温泉街の南1キロほどに、砂岩と草原が広がる千畳敷があり、さらに500m南に歩くと、高さ50mほどの岩の列柱のみごとな三段壁があります。

湯崎に近い海中展望塔もおもしろい、白浜半島側では白浜湾のグラスボート遊覧、水族館、珍しい貝ばかりを集めた貝寺、性美術を中心に集めた白浜美術館などがあります。

また、背後の平草原公園に上がって眺望を楽しむのもいいでしょう。春には桜がとてもきれいなところですよね。近くには紀州博物館や白浜ゴルフ場、白浜民俗温泉資料館もあります。

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【白浜温泉】有間皇子の悲劇のまとめ

さて、「日本三大古湯」のひとつ「白浜温泉郷」「牟婁温湯」、昔からある日本の温泉にはこういった悲話が沢山残されています。

こういった歴史を訪ねていくのも旅のおもしろさにつながるのではと思います。

南紀白浜を訪れた際は、「日本版ハムレット」を少し思い出していただければ幸いです。

また、ご機会があればお寄りいただければ幸いです。

今日は最後までお読みいただきありがとうございました。

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