【徳川吉宗】と【大岡越前】の関係

日本の歴史

徳川吉宗はテレビの時代劇ドラマでは不動的な人気を誇るドラマですが、共に生きた1700年代前半から中期かけての二人の手腕を客観的にみて、語っていきます。

徳川吉宗は松平健さん、大岡越前は加藤剛さん、といずれも大物俳優が演じてけっこう有名になり、時代劇としても長寿番組にもなっていますよね。

いわゆるヒーロー的な存在で私も好きでした。

今の60代以上の方は若いころには必ず見ていたのではないでしょうか

さて、今回は、吉宗の行った幕政改革の中での代表的な政策である「目安箱」についてと、大岡越前の行った裁判はどのようなものだったかを記していきますね。

残念ながら番組を語るわけではないんですね。

真面目にこの二人が生きた時代背景とともに、いかに行政を動かしていったのかを見ていきます。

スポンサーリンク



徳川吉宗がおこなった「目安箱」とは!?

紀州藩主から徳川八代将軍に迎えられた吉宗は、江戸城に乗り込むとさっそく幕政改革に着手し、質素倹約の励行などを強調しました。

しかし、改革が進むにつれて抵抗も大きくなり、落首(らくしゅ)や捨文が江戸市中な現れるなど、吉宗の政策に対しての批判的な空気が高まっていきました。

そこで、幕府は民衆の不満をそらすため、彼らの声が直接将軍に届く「目安箱」の制をはじめたのだ、といわれています。

将軍への直訴が制度的に認められたわけであり、「目安」とは訴状の意味でもあります。

しかし、目安箱の設置の目的は、単に民衆の不満のはけ口とするためだけではありませんでした。

諸役人の勤務ぶりを民衆に監視させ、幕臣(ばくしん)への統制を強化すること、あるいは民間の優れた意見を参考として、政治手腕に使うことなども考えて、民情緩和と並ぶ重要な目的だったのです。

目安箱の設置を献策したのは、儒官の「室鳩巣(むろきゅうぞう)」とも「大岡越前守」ともいわれていますが、吉宗はすでに紀州藩主時代、和歌山城一ノ橋門外に同種の投書箱を置かせています。

それからすると、吉宗の意向も多分に働いていたのだろうと考えられます。

幕府の目安箱は、江戸城竜ノ口の評定所前の腰掛けに置かれました。

享保6年(1721)8月のことです。

ただし、毎日置かれたわけではありませんでした。

老中や三奉行が出席して評定所の寄り合いが行われた式日と同じ毎月2日・11日・21日の三度だけで、それも朝から正午までに限ってのことでした。

目安箱は二尺四寸四方の木製で、上部に銅板を張り、投書を入れる二寸ほどの口が開けられていました。

箱の前部には鍵がついており、目安箱に投書することを一般に「箱訴(はこそ)」といいました。

幕府は目安箱設置に先立って、7月に日本橋に高札を立てましたが、それによると、意見のある者は書状を包み紙に入れて密封し、必ず住所・氏名を書き添えて投函せよ、とあります。

無記名では無効だったわけであり、内容についても明らかに私事・私恨とわかるものは取り上げられなかったのです。

また、目安箱への投書を許されたのは一般庶民や浪人であり、幕臣の投書は禁じられていました。

さて、次に目安箱の投書が将軍の眼に触れるまでの手続きを見ると、当日、刻限がきて正午の太鼓が響くと同時に、まず徒目付(かちめつけ)が目安箱を取り入れ、目付に渡します。

もちろん鍵はかけられたままです。

目付はそれを評定所から殿中に運び、出て来た用部屋坊主の手を経て月番老中、御側御用取次(おそばごようとりつぎ)と渡り、将軍の居室に伝達されます。

そこでようやく小姓によって目安箱の鍵が開けられ、投書類は将軍自身の手で開封される、という手順になっていました。

そして、将軍が読んでみて、これは何らかの処置が必要であると判断した場合は、ついで関係の役人に示達されていたわけです。

このようなシステムであったわけですが、目安箱の制は吉宗のあとの将軍にも代々受け継がれました。

しかし、投書の総数は定かではなく、また、どのような訴えが多かったのか、ということも明らかにはされていません。

吉宗が目安箱に最も期待したのは、幕政改革に「綱紀粛正」を掲げたことからも察せられるように、民衆と接する立場の諸役人の職務怠慢や不正行為に対する告発であったから、その種の訴えが多数を占めていたのであろうと考えられます。

ただし、それらの訴えも、日本橋の高札が禁じた私事・私恨や筋違いのものが少なくなく、実際に取り上げられた訴えは、年間にわずか1、2件を数えるに過ぎなかったのではとの説もあります。

目安箱で繁栄された案件

投書の中には、吉宗の政治方針を批判する内容もあったといいます。

そのような投書の中でもっとも本格的な論盲を整えていたのは、目安箱設置から4ヶ月後に投函された浪人「山下幸内」の上書でした。

山下幸内はこの上書の中で、吉宗の政治の長所と短所を数え上げ、それから全体的な評価として、当面の緊縮政策は紀州藩主のときなら的を得ているかもしれないが、天下を治めるやり方としてはどう見ても間違っており、吉宗も将軍として不適格といわざる負えない、と断定した言葉で批判しています。

まかり間違えば、将軍を侮辱したという理由で死罪に処される危険もあったのに、随分思い切ったことを書いたものであります。

しかしながら、さすが吉宗の器量だったのでしょう。

目安箱という将軍への直訴の道を開いた賢君だっただけに、怒るどころか、逆にその正々堂々たる態度を称賛し、白銀三枚を与えて山下幸内の勇気に報いました。

結局、山下幸内の意見は採用されることは有りませんでしたが、これと同様の建設的な内容の投書で幕政に反映されたものは、幾つかありました。

例えば、江戸の町医者「小川 笙船(おがわしょうせん)」の上書が契機となって、庶民施療のための「小石川施薬所」や「小石川養成所」が実現したり、浪人「伊賀蜂郎次」の上書に基づいて江戸の防火態勢の整備が促進されたという事例は、その代表格でした。

したがって、吉宗がおこなった享保改革の中でも、庶民に対する考え方は安易ではなく、政治手腕とは別に天下を治める自分がどのようにしたら認められるか、ということも考えていたのだろうと思います。

最後にこの目安箱は江戸だけではなく、京都・大阪、それに駿府や甲府にも設置されたとあります。

スポンサーリンク



「大岡越前守忠相」という人物

大岡越前守は名を「忠相(ただすけ)」といい、三河譜代の名門旗本の出身ですね

忠相は16歳の時に、同族の忠右衛門忠真(たださね)の養子となり、26歳の元禄15年(1702)御所院番に召し出されて初任しました。

それ以後、徒士頭(かちがしら)・使番(つかいばん)・目付と順調に昇任し、正徳2年(1712)には遠国奉行(おんこくぶぎょう)のひとつの山田奉行に命ぜられました。

その在任中、伊勢神宮領山田の農民と紀伊藩領松坂の町民との間に境界争いが生じ、この紛争を忠相が公平果断に裁いたことが、当時、紀伊藩主だった徳川吉宗に注目されるきっかけになったといわれています。

その結果、享保元年(1719)5月、吉宗が八代将軍に擁立されると、翌2年2月に忠相は江戸の町奉行に抜擢されました。

41歳で町奉行というのは異例の昇進であり、忠相が「越前守」を称するのもこの時からです。

以後、忠相は元文元年(1736)8月、寺社奉行に転じるまで、約20年間という長期にわたって町奉行の座にあり、優れた手腕を発揮しました。

この時代の町奉行とは!?

当時の裁判はどのように行われていたというと、刑事と民事では手続きが少し違います。

刑事の場合は、容疑者を逮捕すると、まず同心が最寄りの自身番にともなって取り調べにあたり、クロの可能性が強いと大番屋へ送り込みます。

ここでも取り調べがあり、いよいよ容疑が動かしがたいとなると、次に送り込まれるのは伝馬町の牢獄です。

この入牢を境に容疑者の身柄は刑事被告人扱いとなり、奉行所の白州での本格的な取り調べを待つことになります。

取り調べの当日、奉行は各件の最初に姿を見せるだけで、あとは吟味与力が被告と差し向かいで鋭く問い詰めて自白を取り付けます。

当時の裁判では建前として自白がなければ断罪ができませんでした。

判決を言い渡すのはもちろん奉行の勤めでした。

奉行は吟味与力から報告を受けると、『公事方御定書』(くじがたおさだめがき)や前代の判例を参考にして刑罰を決定し、それから形式的に白州に出て判決文を読み上げていました。

民事の場合は、原告が奉行所の当番所へ訴状を提出するのが裁判の第一歩でした。

ただし、訴状は無条件に受理されるわけではありませんでした。

一定の条件が整っているかを慎重に調べられ、条件が満たされていてもまず示談の勧告が行われました。

それでもなお原告が意思を覆さなかった場合に限り、当事者が指定の期日に白州に出頭し開廷という運びになるわけです。

それから後の段取りは、刑事の場合とほぼ同様です。

奉行にとっては、刑事よりも民事の方が裁量のの余地が大きく、腕の見せどころだったので、評判になる名判決を下そうと努めていたといいます。

ただし、いったん判決が下りると、当時は一審制だったので、もう覆す余地は残されていませんでした。

スポンサーリンク



大岡越前守忠相は、在任中どれだけの裁判を行ったのか!?

最後に、「大岡越前守忠相」はどれほどの件数の裁判を手掛けたのか。

後の講談師などによって作られ、忠相の「名奉行」のイメージを煽り立てた「大岡政談」は、いくつかの事例を挙げていますが、これはほとんどが架空の話であり、まったく手がかりにはなりえません。

享保6年、将軍吉宗が寺社・町・勘定の三奉行を召し、その裁判ぶりを見たことがある、という記述が残っています。

その折の記録によれば、午前8時から午後4時までの間に、15件の裁判が行われました。

ただし、このケースは将軍の御前ということで、意識的にスピード化が図られたようで、江戸の裁判は通常、1時間に1件ぐらいが標準みたいです。

とすると、午後2時から夕方までしか開廷しない町奉行所の場合は1日あたり3~4件ということになると思います。

だとすれば、町奉行は1ヶ月ごとに非番があったので、20年間在籍した忠相が白洲に出たのは半分の10年間です。

これに1日3件をかけると1万件強、4件をかけると1万4千~5千という数字が出てきます。

したがって忠相の扱った裁判件数は、多く見積もっても1万5千件ぐらいだと考えられます。

ただし、忠相は、山田奉行の時も寺社奉行に栄転してからも訴訟を担当したから、それを含めると全体で2万件前後に達したかもしれません。

【徳川吉宗】と【大岡越前】の関係まとめ

20年間町奉行に従事していたということは稀で、徳川吉宗の信頼も厚かったのだろうと思われます。

行政改革、財政改革、そして江戸市中の治安やインフラの整備、忠相無しでは成しえなかった時代ではないでしょうか。

徳川吉宗という人物には、今日さまざまな説が巻き起こっていますが、よくもあり、悪くもあり、目安箱を含めて日本の行政改革を行った人物だと感じています。

ご機会があればお寄りいただければ幸いです。今日は最後までお読みくださりありがとうございます。

※ブログ内の記事はこちらからどうぞ。

コメント

タイトルとURLをコピーしました