【大友宗麟】キリシタン大名の城下町大分

日本の歴史

さて、今回はキリシタン大名で有名な「大友宗麟」のお膝元「大分」を歩いてみます。

「旅ブログ空2020」でも大分県はよく訪れており、湯の町別府は私の第二の故郷ですね。

「大分恋人の聖地」という記事が「旅ブログ」のほうにありますが、その時に大分市もうろうろとして、いろいろと参考になる資料を探しました。

このブログでは、歴史的背景から見た大分を探索し、大野川流域に広まった大陸系文化の接点を考えていきます。

また、通常では知りえない、大友宗麟の秘話とか、それにまつわる大分の話も入れていきますからね。

歴史好きな方であればけっこう楽しめると思いますし、そうでない方もがんばって読んでくださいね^^

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大友宗麟のお膝元、大分市

東九州の表玄関である大分市、北は別府湾から国東半島を望む弓なりに描かれた海岸線が続き、西は高崎山で別府との境をつくり、東から南にかけては佐賀関の半島山地と接し、大分平野を形成しています。

豊後国風土記』によると、景行天皇がこの地を見て、「広く大きなるかも。この郡は碩田(おおきた)と名づくべし」といい、それが変化して大分となったといいます。

港のすぐ近くに春日浦というところがあり、ここにはかつて古刹神宮寺があり、神宮寺浦と呼ばれていました。

大友宗麟が勢いを誇っていた18世紀頃、府内(大分)はキリシタンと南蛮文化の中心地で、当時この一帯はポルトガルや明の貿易船が停泊し、にぎわいを見せたといいます。

臨海産業道路に面して、「神宮寺浦南蛮貿易場址」の碑が立ち、記念公園がつくられています。

この日は人影も少なく公園の一角には、陣羽織姿で太刀を手にした宗麟像が大分港を望んで立っています。

公園裏の静かな林の中にある一筋の細い道を歩いていくと、陽光の中に街中でありながら鳥の声が聞こえてくる場所があります。

ここは、春日神社の森、慶長12年(1607)に藩主竹中重隆が社殿を造営し、社頭から海岸まで椎や松を植えたときいています。

拝殿の右側に松尾芭蕉の句碑秋風塚(しゅうふうづか)ものいへば唇寒し秋の風」が立っています。

社殿をとりまく一角に、王子町がありますが、鋳物の町として栄え、その起源は遠く南北朝時代にまでさかのぼり、中世には大友氏の兵器製造にあたったという町です。

話は変わりますが、下の写真が、大分城址公園の仮想天守閣イルミネーションですよ。なかなか迫力があっていいですよね。

さて、大分城を築いたのは、慶長2年(1597)に十二万石で府内藩主となった「福原直高」で、大分川と住吉川が合流する付近に置きました。

城の北側は海に面しており、船から積み荷を卸したので「荷降し」と呼ばれていましたが、縁起をかついで城の別名を「荷揚城」としました。

福原直高は石田三成の妹婿という権勢にまかせ、市内西部の生島(いくし)小島や高崎山から石材を伐り出し、大分に来航する商船にも各地から大石を運ばせました。

用材は領内の巨材、および土佐にまで求めました。

こうして慶長の役をはさんで同4年、工事が一応完成しました。

ところが1ヶ月後、直高は徳川家康に呼び出され、「天下は今ようやく太平になったのに新しく城を築き領民を苦しめるとは何事が」と叱責を受けて改易されました。

直高は秀吉の死後、石田三成の力を頼み、家康の権力増大に対する読みが足りなかった、と言うほかないですね。

この後、「早川長敏」が入城しましたが、関ヶ原の戦いで西軍についたため除封され、替わって「竹中重利」が国東郡高田から転封され、彼の代に「加藤清正」の助力を得て四層の天守閣ができ、福原氏が着工してから8年目にして平城が完成しました。

しかしその子重義が長崎奉行在任中の不正で改易。

替わって家康の信任の厚い「日根野吉明(ひねのよしあき)」が下野から移封されましたが後継がなく断絶しました。

めまぐるしい城主の交代劇も「松平氏」に至り、はじめて安定し、明治まで続きましたということですね。

ホントにころころとよく城主が変わった大分城ですよ。

なぜこれほどまでにめまぐるしく藩主の入れ替えが行われ、豊後国も小藩分立の状態におかれたのか。

その最大の理由は、大友旧勢力の復活を恐れたことと、徳川期に入ってからは、外様大名の勢力を分断する必要性だったからでしょう。

その後、城は寛保3年(1743)の大火により、四層の天守閣などを焼失し、後に城楼を築きましたが、旧城とは比べものにならない小規模なものでした。

天守台から望むと南、西、北の三方の塀と宗門櫓、人質三番手櫓、大手門ほか四棟の隅櫓が復元されています。

西門から城外へ出ると、その右に堀を隔てて松平氏の氏神「松栄神社」があり、ここは旧城内の山里にあたります。

拝殿の左側には松平六代藩主「 近儔(ちかとも)」の大墓碑と、八代「近訓(ちかくに)」が立てた句碑があります。

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場内遊歩公園とキリシタン文化

大分城大手門から南に伸びる道路の中央に、長々と続くのが遊歩公園、この公園には南蛮文化が栄えた当時を偲ぶ銅像が立ち並んでいますよ。

左手に十字架を持ち、右手を上げたフランシコ・ザビエルの像は、天文20年(1551)宗麟に布教を許され、民衆を善導する姿です。

大友氏が鎮西奉行兼豊後国守護として入国したのは、建久7年(1196)能直(よしなお)の時と伝えられていますが、宗麟は21代目にあたります。

大分市上野西には大友氏の屋形跡があり、現在は大友神社が立っています。

宗麟は、戦国大名大友氏の基礎を固めた20代義鑑(よしあき)の長男に生まれ、大友家を継ぐように決められていましたが、宗麟が13歳の時に母が亡くなり、父である義鑑は後妻を迎えました。

この後、後妻が野心家で、宗麟の無道ぶりを訴え、自分の子の賢明さを吹き込みました。

後妻の愛におぼれていた義鑑は、後妻の生んだ子に家督を譲ろうとし、この相談を受けた重臣たちは口々に反対したため、義鑑に殺されかかりますが、逆に主君義鑑に斬りかかり、重症を負った義鑑は2日後に亡くなりました。(二階崩れの変)

よくある話ですよ。でもね、記録にはほとんど残っていませんが、家臣は宗麟のはちゃめゃな性格がけっこう気に入ってたみたいですよ。

感受性の強い宗麟は母に死なれ、そして父に裏切られてしまったということですね。

さて、『大友興廃記』によると、このころの宗麟は粗暴な行動が目立ったと記されています。

そんなおり、宗麟は「大内義隆」を頼って山口に滞在していたサビエルへ招待の手紙を書いています。

ザビエルにしても布教のためには有力大名の保護が必要で、大友氏21代目の宗麟なら申し分ないと判断したわけです。

このころのサビエルはキリスト教の布教もさることながら、宗教と政治の結びつきを模索していたみたいですね。

意外とこの方は野心家ですよ。

宗麟にしても心の空虚さを埋める何かを求めていたのかもしれません。

宗麟が布教を許したのはもちろん、彼自身も洗礼を受けました。

以来、大分ではキリスト教が急激に普及し、教会がいくつも建てられました。

さて、サビエル像の向かい側にはヴィオラ伴奏によって讃美歌を歌うあどけない少年たちの像があります。

これが西洋音楽発祥記念像です。

天文12年、ザビエルが豊後へ来た時に同行したポルトガル人の笛・ラッパ隊が大分の町を歩いたといいます。

また、弘治3年(1557)に聖歌隊が編成され、永禄5年(1562)には宗麟の前で、ヴィオラを学んだ少年たちの演奏が行われたという記録が残っています。

そして、騎馬姿の少年像は、天正10年(1582)宗麟によってヨーロッパに少年使節団として派遣された「伊藤マンショ」です。

これまで少年使節を派遣したのは、宗麟と有馬晴信、大村純忠されていましたが、実は宗麟はまったく関与していませんでした。

イタリアの宣教師「バリニャーノ」がこの計画を思いついたとき、日本出発の直前で、宗麟に相談に行けなかったといいます。

そのため有馬のセミナリオにいたマンショを独断で宗麟の使節団に選んで派遣したためと記録されています。

もちろん宗麟はこの相談を受けていたら協力したに違いありません。

さらに弘治元年、大分にはポルトガルの商人で医師の「ルイス・デ・アルメイダ」の寄付により、日本最初の洋式病院が建設されました。

アルメイダによって外科手術が行われ、医学校も併設され、若き日本人医師も誕生しました。

アルメイダが日本人助手と共に手術を行おうとする、西洋医学術発祥記念像もこの公園の一角にあります。

このほか、遊歩公園には西洋劇発生記念碑なども立ち、キリスト教文化に関わる諸記念像が、16世紀半ばで宗麟の手で開花した文化に導いてくれます。

忘れてはならないのは、公園南側にある大分が生んだ天才音楽家「滝廉太郎像」とその終焉の地です。

廉太郎はドイツ留学から帰国してのち、明治36年(1903)6月29日にこの地で25歳の短い生涯を終えました。

滝家の墓は金池町の豊後の臨済宗普及の中心となった巨刹万寿寺にあり、だれが供えたのかわかりませんが、色とりどりの花が春風に静かに揺らいでいました。

さて、キリスト教に帰依した宗麟は、一見結構ずくめに見えますが、決してそうではありませんでした。

第一に宗麟の夫人が大のキリシタン嫌いで、宣教師の国外追放を叫び続け、家臣一人一人棄教を迫ったといいます。

たまりかねた宗麟は夫人を離縁しています。

さらに、日向侵攻の失敗もキリスト教が遠因となりました。

つまり、日向に理想的なキリシタン王国を作ろうとする宗麟の目的が、神仏信者の多い家臣に理解されなかったと言う事ですよ。

その上、出陣に際して、かつて家臣たちが武運長久を祈った柞原(ゆすはら)八幡宮へ弓を放ち、進軍の途中には手当たり次第に社寺を焼きました。

これでは神仏信者が素直に指揮に従うはずもありません。

結局、大友軍は耳川で島津勢に大敗をきしたということです。

ちょっとやり過ぎましたね。

政権を維持する意欲を失った宗麟は、家督を長男の義統(よしむね)に譲り、自らはキリスト教に没頭しましたが、天正15年5月、58年の生涯を閉じました。

後を継いだ義統は、秀吉の圧力に屈して棄教し、キリシタン式の宗麟の墓も打ち壊して恭順しました。

しかし、文禄2年(1593)の朝鮮の役で、窮地にあった友軍を見捨てたため、豊後一国を取り上げられ、ここに大友氏400年の歴史に終止符を打ちました。

これが大友宗麟と大友家の大まかな流れになります。

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大野川流域と大陸文化

大分の海に流れ込む大きな川のひとつに大野川があります。

久住・祖母・傾の山々から流れ落ちる水を集め、竹田市周辺でまとまりながら川幅を広げ、豊後の田畑をうるおして海に注いでいます。

その河口付近が鶴崎という地名で、ここには天正の昔、宗麟の乱行を宥めようとして大友家家臣「戸次鑑連(べつぎかねつら)」が京都から踊り子を呼んで踊らせたという、「鶴崎踊り」が伝わっています。

それぞれのグループごとに揃いの衣装を着て、お囃子の櫓を中心に七重、八重の輪になって踊ります。

この踊りは大分市鶴崎公園のグランドや鶴崎小学校のグランドで毎年8月の中旬の土曜日に行われているとのことですね。

また、この小学校のグランドの片隅に、鶴崎城跡碑がありますが、説明版によると、この城を築いたのは大友義鑑の家臣「吉岡宗歓(よしおかせいかん)と記述されています。

宗麟の天正6年の日向侵攻の失敗は先に触れましたが、以後、島津氏は着々と勢力を蓄え、豊後乱入の機会をうかがっていました。

天正14年、ついに日向境から侵入した島津軍の一隊が鶴崎城を攻撃、このとき、宗歓はすでに亡く、孫の統増(むねます)が城主を勤めていました。

しかし、宗麟に従って出陣していたため、この城を守ったのはその母「妙林尼(みょうりんに)」でした。

城は大野川・乙津川に挟まれた平地にあり、守りに不利と見るや妙林尼は薬研堀(やげんほり)を掘らせて菱を植え、柵を結い、その外側に落とし穴を掘って防戦しました。

島津軍は16度も攻めましたが結局撃退され、和睦の使者を立て、妙林尼もこれに応じました。

しかし、翌天正15年、秀吉が大軍を率いて島津討伐に九州へ向かったという知らせが入ると、島津軍は豊後から撤退しました。

妙林尼はかねて手配していた伏兵にこれを襲わせ、見事に鶴崎城を守り抜いたといいます。

さて、鶴崎小学校の前を南に行くと、幕末から明治の初頭にかけて活躍した尊王の教育者「毛利空桑」の塾、「知来館」があります。

由布院の「金鱗湖」の名付け親としてでも有名ですね。

左手の門から庭に入ると、知来館の南側に旧宅「天勝堂」が向かい合っています。

知来館は2階建てで、かなり質素なたたずまいですが、約180年前のままの遺構を見せてくれています。

この旧宅の西隣には平屋建ての毛利空桑の記念館があり、空桑関係の史料や文献、遺品類が所狭しと展示されています。

その毛利空桑ですが、寛政9年(1797)に鶴崎の常行(つねゆき)というところで生まれ、幼少のころから「脇蘭室(わきらんしつ)」に学び、のちに蘭室の高弟子「帆足万里(ほあしばんり)」や肥後藩「時習館」の諸学者に師事し、28歳の時に「知来館」を開いています。

門弟子は1000人以上と言われ、のちに首相となった「山本権兵衛」や海軍中将になった「磯部孫一郎」もここで学びました。

常行には明治17年(1884)88歳で没した空桑の「日本国儒者毛利到(本名)墓」があります。

意外に知られていない毛利空桑ですが、日本を代表する儒学者であり、後の明治政府確立への源になった人ですね。

さて、少し話はそれましたが、大分の県道21号線沿いを東に進むと左手に葛木地区があります。

ここは通称「獄門原」と呼ばれ、多くの殉教者の血が流されてきました。

現在は「キリシタン公園」として静かなたたずまいを見せていますが、県道から入り常妙寺を右手に見ながら奥へと進んで行きます。

一番奥の広場には、高さ3m、横5mの青銅の記念碑が立っています。

そこには今にも十字架にかけられようとしている老夫婦と孫娘の3人が、5人の役人に囲まれながら、キリストの聖像に祈りを捧げる姿が浮き彫りにされています。

この葛木地区は宗麟の時代、「葛城弾正」の知行地となり、弾正は入信して「オルガンチノ・タンジュー」と称しました。

住民も領主にならって次々と入信し、葛木は江戸時代、豊後で最多の殉教者を出すこととなりました。

松平氏が長崎奉行所に提出した「豊後大分郡・玖珠郡切死丹宗門親類書」貞享3年(1686)によると、葛木からは92人が召し取られています。

その中には、一族系塁全部が処刑された家もありました。

そして、これらのキリシタンの墓石は作られず、あっても無名のものがほとんどでした。

キリシタン弾圧は長崎だけではなく、大分でも繰り広げられていました。

特に宗麟以降キリスト教に改教する人が増え、幕府は長崎と同様に弾圧を次々と強めていったといわれています。

よく、隠れキリシタンといわれていますよね、大分にもかなりの信者がいたといわれています。

現在でも大分市はキリシタンの方は多いですよ。

大分石仏文化

さて、キリシタン公園から県道21号線を大分市内に向かって進むと、大分川に架かる滝尾橋を渡ります。

大分には数々の石仏が残っていますが、これは大野川や大分川を通じて大陸系の北九州文化が浸透してきたことを物語っています。

石仏の豊富さは、宝庫と言われている国東半島と比較されるほどです。

市街地のはずれの大野川と並行して流れる大分川の丘陵地帯には「元町石仏」がたたずんでいます。

丸彫りに近い高さ5.15mの摩崖仏で、どっしりとした重量感持っていますね

伝説では百済から来朝した「日羅(にちら)」の作と言われています。

穏やかな表情をうかがわせていますが、頬の欠損がひどく、全体的にも腐蝕が進んでいます。

どうにか修復はできないものかと思いますね。

元町石仏から大分川をやや上り、対岸に渡ると小高い丘の中腹に「曲石仏」があります。

ここには3つの石窟が彫られひとつの石窟入口には門番のような多聞天と持国天が刻まれ、奥には如来像が安置されています。

この如来像は他の石仏とは違い、頭部、胸部がそれぞれ別の石で彫られていて、それを組み合わしています。

さらに大分川の支流、七瀬川沿いに2つの石仏があります。

高瀬石仏と口戸石仏です。

七瀬川を間近に眺める岩肌に5体の石仏が彫られているのが高瀬石仏。

中でも目を引くのが左側に立つ「深沙(しんじゃ)大将」です。

朱髪は天に向かって立ち、胸には9個のどくろの瓔珞(ようらく)を、腹部には童女の面を表し、左手には青蛇を巻くという怪異な形をしています。

深沙大将は、唐の三蔵法師が西城に経本を求めて旅をした時に、法師を守護した鬼神といいます。

大分には、中世以前に北九州から流れて来た大陸文化が華を咲かせ、国東半島に続き数々の石仏を残したのでしょう。

また、時代とともに多くの石仏が壊されていき、今に残る石仏はごく一部と考えられます。

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大友宗麟キリシタン大名のまとめ


大分市最後の訪問地、「戸次河原古戦場跡」へと向かいました。

天正14年12月12日、大友宗麟・義統父子が四国の長宗我部元親・信親父子の援軍のもと、豊後に攻め込んだ島津義久の軍と戦い、敗北した場所です。

国道10号線を犬飼方面へと南下し、戸次の町を過ぎて中津留に来ると古戦場碑があります。

眼下には青く澄んだ大野川が流れていて、鶴崎城跡のあった河口付近のゆったりとした流れとは打って変わって、流れの激しさがあり、瀬に傾く水の勢いは、豊富な水量とともに醸し出す流れの音が、山肌に響き渡るようです。

この古戦場を見下ろす山崎の丘には、信親の墓が訪れる人もなく、静かに春の日差しを浴びていました。

今回の旅は、「旅ブログ」空 2020に記載している恋人の聖地「田ノ浦アイル」と「別府湾サービスエリア」を取材した中での歴史の旅でした。

古代に大陸文化をいち早く取り入れた大分、そして中世に華開いたキリシタン文化、大友家とともに歩んだこの大分は、別府とともに歴史的に魅力の尽きない街です。

またお寄りいただければ幸いです。今日は最後までお読みいただきありがとうございました。

※旅好きブログです。私が旅をした記事や観光関連の記事を載せています。見てくださいね!

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