日本史の七不思議に迫る! 解明されない歴史!?

日本の歴史

昔から、どう考えても理解できないとか、科学的に不可解な現象などを7つ取り上げ、七不思議とよんできましたよね。

別に7つでなくてもいいのですが、言葉的に語呂ががいいのか、古くから地方ごとに色々な不思議なことを7つに整理して、広く公表してきたのが「七不思議」と呼ばれるものだと思います。

話の内容は、時代ごとに入れ替わったりするときも多々ありますが、こういうものは読んでいて面白いと感じることが多くあり、勉強にもなります。

ある意味一定していないというのがネックですが、まあ、あまり深く考えないでサラッと読むのがいいのかもしれません。

技術は進んでいき、自己主張や私論をブログに載せて公表することもできる時代になってきましたが、これもこのワードプレスのおかげだと感謝しています。

さて、今回は「日本史の七不思議」と題して記していきますが、歴史を調べていく中で、どうしても理解しがたいことが出てきますが、調べれば調べるほど謎が深まる事項も数多く、切りがありません。

その中で、あくまでも自前観ですが、日本史を見ていく中で理解しがたいものをとり上げて紹介していきます。

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七不思議 1 なぜか土偶が破損している不思議


土偶」といえば、縄文時代の代表的な遺物ですが、早くに人体の省略形の姿をしたものが出現してから長期な渡って造られてきましたが、始めのうちは東日本に限って分布していました。

後期になると近畿以西でも発見されるようになって、徐々に全国に広がっていきました。

大きさは、高さが30cmほどのものを大型としますが、有名な土偶では、青森県つがる市の「亀ヶ岡石器時代遺跡」のように「遮光器土偶」と呼ばれるものがあります。

エスキモーが遮光器をかけたように大きな目を表現していることからこの名前が付けられています。

その他、顔面の形から「ハート形土器」、「ミミズク形土器」などと呼ばれているものがあります。

ところで、「土偶」はいかなる用途で作られていたのだろうか、という疑問がいつもつきまとっています。

形や大きさから見て、ちょうど土製の人形といった感じを受けるため、古くは縄文時代の人々、とりわけ子供の遊び道具として作られたとする考え方がありました。

この「玩具説」は、現在はあまり支持されてはいません。

土偶の形をみると、胸のあたりに隆起した乳房が表現されており、ときには腹部を膨らませて、明らかに妊娠した女性の姿を示しているものもあり、出土したすべてのが女性像とみられることから、妊娠・出産に何らかの形でかかわる呪い的なものではないかと考えられています。

つまり、生殖と関わっていて、宗教的・呪術的儀式の対象だとする考え方ですね。

しかし、ここにどうしても理解しにくい点があります。

それは、現在までに土偶そのものは、数千点が発掘され出土していますが、ほとんど全部と言っていいぐらい、土偶の一部が破損しています。

しかも、長きに渡り埋もれていて自然に破損したわけでもなく、故意にその部分を破損させたような跡があり、不思議でなりません。

これまでの出土例を見ても、足の片方がなかったり、腕が途中で折れていたり、頭の一部が欠けていたりと、完全な物は1%にも満たないという状況です。

縄文土器の場合、たとえ破損していても、その付近から破損した部分が出土し、接合することが可能ですが、土偶の場合には、いかに広範囲な発掘調査をしても、破損部分の発掘ができずに接合することが難しいとされていて、現在でもほとんどが見つかっていません。

このことは、わざと土偶の一部を壊し、それを粉々にした可能性を物語っていると考えます。

実際に研究の中で、現在考えられているひとつの説は、足の悪い人が、土偶の足を折って病気やケガが早く治るように祈り、頭が痛かったり、頭に病気を持った人が頭の部分を壊し、病気やケガなどが早く治るように祈ったものと考えるのですが、現実は定かではありません。

それと最後にもうひとつの説ですが、ちょっと理解しがたい面もありますが、「芋類」の株分け栽培につらなる農耕儀礼だったとする解釈がなされています。

しかし、これもなかなか根拠が見つからず、真相は定かではありません。

どちらにせよ、本当の用途は過去にさかのぼり、その時代に行ってみないと真相は究明できないでしょう。

すべてが推測でしか表現できないことが辛い所でもあります。

最後に「遮光土器」の「宇宙人説」ですが、夢があって面白いとは思いますが、まずありえない、ということですね。

この土偶に施されている紋様は確実にエスキモー・アイヌ系の、日本列島に古くから土着していた人たちであることは間違いないでしょう。

いわば「日本人」のルーツにあたるということかもしれません。

七不思議 2 「いまだに使われていた用途がわからない「酒船石」

飛鳥には不思議な石造物がいくつかあります。政策意図、すなわち用途が不明な奇妙な石が点在しています。

例えば、橿原市白橿町の「益田の岩船」と呼ばれている巨石は、長さ11m、幅8m、高さ4.7mで、上野の面を平らにして四角いい穴が2つあり、墳墓説のほか、天文観測を行った星占台とする説があり、どのような目的で作ったかは明らかではありません。

明日香村にある「酒船石」も同様、確固たる用途が解っていません。

飛鳥寺の東の道を南下したところに位置する逝廻丘に置かれており、長さ5.3m、幅2.3m、高さ0.8mほどで、「益田の岩船」ほど大きくはなく、「酒船石」には上の面に幾何学模様があり、いろいろな説は飛び交ってはいるものの、確固たる説得力がないのが現状です。

酒船石は両端が割り取られてしまっているため、もとの形がどのようなものであったかはわかりませんが、円とか楕円、半円の形をしたところに溝が通り、それぞれ結ばれています。

「酒船石」と呼ばれるようになったのは、正式には不明ですが、すでに江戸時代には「長者の酒ふね」という表現もみられ、古くから酒をしぼる槽と考えられていたことが伺えます。

造られたのは7世紀ですが、この「酒船石」のことは文献に出てこないため、表面に細い溝で繋がれたくぼみの意味は不明でした。

これまでにもいろいろな解釈が試みられており、ひとつは、酒船石の名が示すように、酒の貯蔵に用いたとする説。

酒の貯蔵にこのような円や溝が必要なものか私にはわかりませんが、何らかの液体を流して沈殿させる装置だったとする考え方はいまでもかなりの支持者が多く、菜種油の製造説、あるいは辰砂、朱の製造説などが言われています。

ところが、この酒船石の東40mほどのところに、酒船石へ引いたものと思われる土管や石樋が見つかっていることから、単に水を流して鑑賞するための施設、すなわち庭石だったのではなかったのかという説もあります。

その他、上記の「益田の岩船」と同じように天文学に関した星占台ではないかとする説、天体の運用と方位に何か関係があるのではないかとする説、さらに、呪術際祀説などがあり、いまだに結論は出ていません。

この酒船石の南西約400mのところからも似たような石が出土しており、それらとの関係も総合的に研究が重ねられています。

この時代はやはり、大まかなものは石か木で作るしかないわけで、何が出てきても不思議ではないし、現代人では考えられない使用用途を博しているかもしれません。

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七不思議3「邪馬台国」の位置が決まらない不思議

『魏志倭人伝』に出てくる「邪馬台国」の所在をめぐっては、ご存知のとおり昔からの長い論争の中にあります。

ある意味、この「邪馬台国論争」自体が日本の歴史になるのでは、と思うぐらい、古くから色々な説が論じられてきました。

出雲説、阿波説、伊豆説などもありますが、やはりメインになっているのは「大和説」と「九州説」でしょう。

「耶馬台」は「ヤマト」と読めることから、大和の字が浮かんできて、「大和説」が唱えられています。

邪馬台国の位置については『魏志倭人伝』によると、九州の北岸である「伊都国」から南へ水行10日、陸行1月というように読み取れますが、そのままの行程で邪馬台国の所在地を求めると、九州のはるか南の海上になってしまいます。

そこで、大和説の論者は、南へ水行10日、陸行1月というのを南は東の誤記と考え、東へ水行10日、陸行1月とし、大体、大和に到達すると解釈したわけですね。

それに対し北九州説の論者は、水行10日、陸行1月とあねのを、水行ならば10日、陸行ならば1月と並列的な読み方をして、しかも1月とあるのを1日の誤記と考え、伊都国を起点に放射状に「奴国」・「不弥国」・「投馬国」へ至ると解釈し、邪馬台国は北九州にあったとする説を唱えました。

事実、築後国山門郷であったり肥後国山門郷がともに「ヤマト」と読めるのでこの説も有力視されてはいます。

このように「大和説」・「北九州説」の2つに分かれていますが、そのどちらかをとることによって、「大和朝廷」の理解が大きく変わってきます。

邪馬台国が大和にあったとすれば、女王卑弥呼による邪馬台国が、北九州にあった末盧国や伊都国などを支配下においていたことを示し、日本の統一時期は3世紀前半まで遡らせることができます。

しかし、邪馬台国が北九州ににあったとする北九州説をとれば、北九州諸国が邪馬台国の支配下に入っていただけで、後の大和朝廷とは直接的には連続していないことになり、日本の古代国家の発達がかなり違ったものとしてあらわれてくると考えます。

先に見たように、大和説をとるためには『魏志倭人伝』に南とあるのを東に読みかえなければならない無理があり、北九州説をとるにしても陸行1月を1日と読みかえなければならない無理があります。

とにかく、どちらにしても無理があり、『魏志倭人伝』の読解だけでは容易に決着がつかないと言えるでしょう。

しかし、これだけの研究史の蓄積があり、また、考古学の発掘調査が飛躍的に進められているにも関わらず、大和にあったのか北九州にあったのか決着をみないのは不思議でならないところがあります。

極論からいえば、この邪馬台国が現存したのか、というところからの話になるのではと思います。

正直、中国の史書は昔から誇大表現も多く、かなりいい加減にしか書いていないことも多くあり、研究者を悩ませてきました。

日本史においても3~4世紀にかけては「空白の時代」といわれるほど、資料等が残っていません。

後は、発掘調査の出土に頼るしか方法がないのですが、現在に至るまで邪馬台国が現存した、または卑弥呼という人物がいたという事実は一切見つかってはいません。

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七不思議 4 630年間も日本独自の通貨を持たなかった不思議

日本には皇朝十二銭と呼ばれる貨幣がありました。

多分、「皇朝十二銭」といってもほとんどの方が知らないと思います。

一番初めは和銅元年(708)の和銅開弥(わどうかいほう・わどうかいちん)で、その年5月に銀銭、8月に銅銭を鍛造し、やがて銀銭が廃止され、銅銭のみが流通していったとされています。

それ以降、万年通宝・神功開宝・隆平永宝・富寿神宝・長年大宝・貞観永宝・寛平大宝・延喜通宝と続き、天徳2年(958)には乾元大宝が出ていますね。

富本銭(ふほんせん)が和同開珎より古いとされて天武12年(683)と推定されていますが、実際には定かではないのが現状です。

よく確定的に富本銭が一番古いと書かれている方がいますが、あくまでも推測であって、それを裏付ける物的証拠はなにも見つかっていません。

信じないようにしましょう^^

さて、和同開珎・万年通宝・神功開宝の3種類が奈良時代に、それ以降の9種類が平安時代になって造られて、流通しているんですが・・・・・。

ところが、・・・そう、ところがです、乾元大宝を最後に、わが国では貨幣が造られなくなってしまうんですね。

なぜかよくわからないのですが・・・・・。

銅貨の銅が採れなくなっというならば話は分かりますが、例えば日明貿易の輸出品をみても、日本から主要輸出品として銅がいっぱい入っているんですね。

当時、日本は世界でも有数の銅の産出国だったんですよ。

銅山や銀山は日本各地あり、この時代から採掘が徐々に進められていたんですね。

国内の銅の産出があるのに、なぜか乾元大宝以降、国内では銭貨の製造は姿を消してしまい、自国の年号が入った銭貨が造られたのは、実に630年ぶりだったのです。

豊臣秀吉が、天正15年(1586)に「天正通宝」というものを造っていますが、これが日本独自の貨幣の復活とされています。

ただ、天正通宝は、奈良・平安時代の皇朝十二銭とは違い、かなり異質なものでした。

というのは、皇朝十二銭は銅貨であり、実際にそれが流通して売買をしていましたが、天正通宝は金貨と銀貨の2種類で、しかも一般流通用というわけではなく、賞賜(しょうし)用・贈答用だったのです。

翌年に造られた「天正大判」も同じで賞賜・贈答用でした。

多分ね、秀吉さんはさらさら流通させるつもりは最初からなかったんだと思いますよ。

通貨というよりは勲章みたいに考えて作らしたのではと考えています。

それに代わるものとして、中国から「宗銭」や「明銭」などが「渡唐銭(ととうせん)」という形で日本に輸入され、それらの輸入銭が市場に流通していたということです。

つまり、通貨を外国から輸入するという事態が600年以上も続いていたわけで、通貨発行権が国家の機能のひとつとすれば、平安時代の中期以降、秀吉の時代までは、やはり不思議な時代たったのかもしれません。

つくるのがめんどくさいからか、それとも技術的なものなのか、・・・・・

はっきり言ってなぜ独自通貨を製造しなかったかはいまだに不明なんですよ。

不思議でしょ!

七不思議 5 築造者・築造時期不明の女堀の不思議

群馬県赤城山南麓に「女堀(おんなぼり)」と呼ばれる大きな堀があります。

前橋市上泉町から伊勢崎市国定町までの幅20mないし30mの堀が、実に長さ12kmに渡って掘られています。

ところが、この大規模な堀が、いつ、何のために、誰が築いたのか、何ひとつわかっていないのが現状です。

土地の人の伝承では、女堀という名の由来にからめて、女の人がかんざしで掘ったとか、尼将軍として有名な「北条政子」の時代に掘られたとか言われていますが、とにかく、この堀に関する史料がほとんどなく、謎は深まるばかりです。

堀であるから今でも一部が水がたたえられ、使用されていますが、少し前までは夏はプールとして、冬は下駄のスケートリンクとして、子どもたちの格好の遊び場にもなっていたみたいです。

しかし、無用の長物として、大規模な土地整備事業のため女堀そのものが破壊される危険が大きくなったために、ようやく保存の動きがあらわれて、昭和54年から発掘調査が進められて一部は国の史跡に指定されています。

この発掘調査で、いくつかの事柄が明らかになりました。

そのひとつは、女堀が用水堀だったということです。

二つ目は、利根川からの引水を計画して工事が進められていたようですが、途中で放棄されたということです。

三つ目は女堀は天仁元年(1108)の浅間山噴火後に開削されたことが明らかになり、また四つ目として、単純計算すれば、1日100人の人が作業を行ったとして、10年近くの歳月を要したという事実です。

こうした発掘調査の成果にも関わらず、依然として、誰がいつこの女堀を掘ったかという謎はそのまま残っています。

また、12kmにも及ぶ大規模な堀について、この堀を掘ったことを物語る文献資料が、現在までのところ一点も見つかっていないということですね。

この発掘調査によって、それまで伝説的に言われていた推古天皇の時代に掘られたという線は消えましたが、誰がいつ築造したかという問題は未解決のままです。

しかし、中世の大土木工事であった事はいうまでもなく、土木技術史の観点からも注目を集めるようになり現在のところ、12世紀の中頃、淵名荘(ふちなのしょう)という荘園の開発領主である「淵名大夫兼行」を中心とした同族連合が開削したとする考え方あります。

さらに、13世紀に上野国守護となった「安達氏」によって進められたとする説、また安達氏滅亡後、この土地を支配した執権「北条氏」が開削したとする説が提起されていますが、いずれも決定的な証拠が見つかっていないのが現状です。

これだけ大規模な遺跡にも関わらず、どこにも書かれていないというのもすごいことです。

まあ、水路的な線が有力視されていますが、そうだったようにも思えます。

もしかしたら、

浅間山の火砕流よけだったのかもしれませんね。勝手に思っています。

七不思議6 沖縄が日本に帰属することになった不思議

沖縄のことが、日本の文献に初めて登場してくるのは、天平勝宝5年(753)のことで、『阿児奈波(あこなわ)』と記されているのが初めてです。

それに対し中国側文献では『隋書』に「流求」と見えています。

もっとも、この「流求」については、沖縄をさすとする説と、台湾をさすとする説の両方があり、一定していません。

11、12世紀ごろ、日本でちょうど平安時代から鎌倉時代に移行するころですが、沖縄では「按司(あじ)」、いわゆる古代豪族が各地に登場し、グシク(城砦)を造りそして戦い、やがて14世紀の初めには、山北・中山・山南の3つの小国家が出現し、ここに「琉球王国」を造りあげました。

特に中山王の「察度(さつと)」が応安5年(1372)に明との間に正式に朝貢関係を成立させた点は注目されます。

ところで、琉球はジャワ・ボルネオなどの南方貿易の基地であり、また明との中継貿易基地ともなり、薩摩の島津氏が琉球渡航印判状を授与する権能を許されており、島津氏との関係は緊密でありました。

ところが、文禄・慶長の役の時、豊臣秀吉が島津氏を通じて兵糧課税を命じたため、かえって明に傾き、関ヶ原合戦後、徳川家康の来聘(らいへい)要求にも応じてきませんでした。

慶長14年(1609)、島津氏は大軍を率いて琉球に攻め入り、その結果、琉球国は島津氏の支配する特殊な属領となりました。

これが島津侵入事件と言われるものですね。

しかし、琉球王国はそのまま存置されており、日本とは別個な独自の国家として体制を保っていました。

したがって、清国との間にも支配被支配関係を結んでいたので、これを「両属政治」などと呼んでいます。

さて、両属政治が清算されたのは、このブログでも記している、明治に入ってからのいわゆる「琉球処分」でした。

つまり、明治4年(1871)の廃藩置県によって鹿児島県に編入され、清国との朝貢関係を停止させ、明治12年の沖縄県設置という一連の動きでした。

こうして、「琉球王国」という独自の国家が日本社会に組み込まれていったわけですが、魂胆とした形での帰属に、やはり奇異の念をいだかざるおえません。

ただひとつ、この時点で日本がこの沖縄を帰属させなかったとしたら、アメリカ・ヨーロッパ諸国の植民地に、高い確率でなっていたでしょう。

これがよかったのかはなんとも言えませんが、沖縄が諸国の植民地になっていたら、沖縄だけではなく、奄美地方もすべて占領されていたでしょう。

だからこそ、明治政府は躍起になって沖縄を取りにいったのだと思います。

七不思議 7 天皇制が存続し続けた不思議

ひとくちに「天皇制」といっても、時代によってその内容はかなり違ったものとなり、古代の天皇制、中世の天皇制、近世の天皇制、そして近代の天皇制は違うし、敗戦後の現代の天皇制はまた異なります。

しかし、一貫として天皇制が存続しつづけたことは、やはり日本の不思議のひとつだと思います。

古代の天皇制は、近代の天皇制とならんで最も天皇制らしい天皇制だと感じています。

律令制度という組織だった機構を立てて、天皇自身が権力機構の頂点に立っていました。

ところが、中世の天皇制というとなると、やや趣が変わってきて、天皇自身による日本全体の支配とならなくなります。

具体的にいえば、鎌倉幕府の成立により、関東御陵・関東御分国、さらに地頭領に天皇の力が及ばなくなり、その状態は室町時代、戦国時代につれてひどくなり、天皇制そのものの存在すら否定される状況でした。

それにも関わらず天皇制が存続しつづけたのは、例えば、織田信長が四面楚歌の状況を迎えた時、勅命による講和という手を考え付いたように、天皇制に存続意義を認めていたからです。

そして、近世の天皇制になるのですが、近世の天皇の位置は、よく言われるように十万石の大名と同じでした。

公卿領等を合わせても十万石にしか過ぎなかったからであり、わずかに様々な儀式を司るところに、その存在価値が認められていたにすぎません。

では、そのような近世の天皇制が、再び古代天皇制のような絶対者として近代に復活したのはなぜだったのか。

幕末の倒幕政治過程において、雄藩連合の誰か一人を統領に選ぶことが困難な状況で、それまで儀礼にのみかかわってきた非権力的・非政治的存在としての超越的な天皇制が担ぎ出されたとする見方が多い。

古代的な、あるいは近代的な絶対者としての天皇制ではなく、「象徴」としての天皇制の時期があったことが、天皇制存続の大きな理由であったと考えられます。

それは近代の歴史をみればまた同じで、敗戦後の天皇制の存続にかかわる問題は「象徴」となることで存続を得ました。

日本国家との関係を考える時、この先何百年もの間、この独自の天皇制は存続していくと思うし、また、過去の歴史を繰り返すように、歩み続けると思います。

でもね、これからもそうですが、日本には「天皇=象徴」、これが大事だと思いますよ。

大統領制の云々ではなく、日本人の気質ですよ。

日本史の七不思議に迫る!まとめ

今回は「日本の歴史、七不思議」として取り上げてみました。

また、7つだけ取り上げるというのも難しいもので、正直、四苦八苦しております。

自分の主観がほとんどなので、長い日本の歴史の中で、気になった事項を取り上げていこうと考えております。

本当は『古事記』・『日本書紀』なんて、日本に唯一残された公的な歴史書なんですが、不思議だらけですからね。

特に古代に関しては各地の風土記を無視して、壮大な物語を作り上げていますよね。

どこの国もそうですが、国の誕生に関しては、神話的要素を持ち入れたいという願いが込められています。

不思議は歴史のロマンであり、また散文的でもあります。

ただ、私も歴史的な記事を書いている以上、見てくれるみなさんに少しでも興味を持ってもらおうと考えて書いています。

また、ご機会があればよろしくお願いします。今日は最後までお読みいただきありがとうございました。

※旅好きブログです。私が旅をした記事や観光関連の記事を載せています。見てくださいね!

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