安政の大地震、震源地は南海トラフだった!?

災害の歴史

安政の大地震」とよく歴史上で表記され、江戸を中心に起きた地震のことに思われがちですが、この安政年間で起きた地震は南海トラフが大きく動いた時期でもありました。

日本中に多大な被害を与えた「安政の大地震」、今回はこの地震をテーマに記していきます。

江戸時代の中期以降、日本全国で巻き起こった自然災害、周期的にも1800年代の時期に集中していると思えます。

現代でもそうですが、この江戸時代に関しては自然が相手ですから、ほとんどといっていいほど予想が立たなかったろうと思います。

地震・津波・豪雨・火山噴火・飢饉、日本で起こるすべての災害が、日本を襲った時期なんですね。

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日本中を巻き込んだ「安政の大地震」

幕末の歴史を語る時、必ずと言っていいほどイメージが湧くのが幕末の志士たちですよね。

坂本龍馬をはじめ西郷隆盛、高杉晋作と数えれば切りがないですよね。

現代は特に、テレビやSNSで視覚的に時代像を創り上げているがゆえに起こる現象とでもいえばいいのでしょうか。

しかし、歴史の転換期であったこの時期は、なにも幕末の志士たちだけが進む方向を考え、行動を起こしていたわけではないのです。

そうした事態の最たるものは、嘉永6年(1853)の黒船来航です。

これに劣らない衝撃を与えたのは、幕末に日本各地で勃発した地震でした。

自然災害が単なる自然災害に収まらなかった事が歴史を大きく動かした一つの要因と考えられます。

確かに、黒船来航は日本人にとっては世界観の改変を迫るほどの、インパクトの強い破壊的な衝撃を与えました。

これとほぼ同時期に前後して起きた一連の地震災害は、人々に身体的レベルでの恐怖や緊張を与えただけではなく、黒船来航の出来事と融合して、実体的な危機感をもたらし、「世の中が大きく変わるかもしれない」、という感覚を庶民に植え付けるほどのものだったと考えます。

さて、その一連の地震災害の歴史を理科年表で見てみます。

●弘化4年(1847)3月24日・善光寺地震

北信越および越後西部、倒壊家屋29633戸、死者8600人余り

●嘉永6年(1853)2月2日・小田原地震

倒壊家屋約3300戸、死者24人

●嘉永7年(1854)6月15日・伊賀上野地震

伊賀・伊勢・大和・難波および関西地方一円、倒壊家屋3994戸、死者1144人

●嘉永7年(1854)11月4日・安政地震

東海・南海道、また房総から土佐に至るまでの沿岸域の大津波、倒壊流失家屋8300余り、死者(圧死300人余り・溺死300人余り)、焼失家屋600戸

●嘉永7年(1854)11月5日・安政地震

畿内・東海・北陸・南海道・山陰・山陽の広範囲、倒壊家屋60000戸以上、津波による流失家屋15000戸以上、焼失家屋6000余り、死者3000人余り

●安政2年(1855)10月2日・安政江戸地震

江戸市中のみの累計で、焼失倒壊家屋14346戸余り、あくまでも町人のみで、死者4500人以上

嘉永7年11月の両地震は一体のものとみなされ、嘉永7年は安政元年となることから、安政南海地震と呼ばれているものです。

今でいう南海トラフ地震ですね。

とにかく、この年表を見ても理解できると思いますが、幕末にたて続けに5回もの大地震が日本を襲っています。
これらの地震については、当時、瓦版なので沢山出回り、直接の被害者たちだけではなく、遠隔地の人々にもその被害の模様は一部知られていました。

特に、善光寺地震安政東南海地震は、地震に続いて二次災害が起こり、被害を膨大なものにしたことから、瓦版もそうした模様を題材に取り上げたものが多いみたいです。

善光寺地震は、信州善光寺平一体襲ったものですが、この地震で大規模な山崩れが起こり、犀川が堰き止められて流域の村々が水没しています。

その後、川が決壊し再び大きな被害をもたらしていて、松代藩領は、その城下も含め膨大な痛手を被りました。

また、嘉永7年11月の安政東南海地震は、東海道から九州に至る太平洋沿岸の地域、および内陸部の広い範囲に渡って被害を及ぼしています。

これは海洋性地震であったため、地震の直後から津波が発生しました。

この津波で、下田港900戸余りの大部分が流失ししたんですね。

この折、日本との開国交渉のため沖に停泊していたロシア船ディアナ号が津波に襲われ難破しました。

この事実は庶民に対してほとんど公表されておらず、また、瓦版にも載りませんでした。

政治向きの事項であったがためのことでしょうが、私的な手紙・日記・見聞記録等では安政東南海地震を語る際では、必ずと言っていいほど書き止められていることです。

また、この時は大阪にも津波が押し寄せており、この津波の高波で大阪市中の河川に大船を乗り込ませました。

このため小船で逃げようとした人々の上に大船が乗り上げて、多くの犠牲者を出しています。

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安政江戸地震

先の一連の地震の中でも、人々にもっとも大きな衝撃を与えたのが江戸の地震です。

「理科年表」からの抜き出しでは、物的・人的被害の面で他の地震を上回る数字は出ていませんが、次に書いていく事項から、江戸地震は客観的な数量把握からはわからない、計り知れない社会的影響を与えていたと考えられます。

また、安政江戸地震は完全にその被害が把握されているわけではありません。

町方の被害は、町民4500人と当時の記録から知られています。

ただ、ここになぜか武家地の被害報告が一切なされていません。

それに、寺社奉行管轄の府内寺院の僧侶、神社の神官などの被害もまったく不明です。

また、町奉行支配地外の周辺農村の被害も少なからずあるはずなのに、断片的な集計に留まっています。

だから、安政江戸地震の量的被害集計は本当の意味で把握されていないのが現状です。

従って被害は膨大な量に及ぶことが想像できます。

ではなぜそこまで被害集計ができなかったのか、逆に言えば、なぜ全貌の被害把握を幕府はしなかったのか、ということになります。

これにはこの時代の江戸の特殊な位置づけが、かいま見えてきますね。

江戸の市中の約60%以上を占めていた武家地、各大名の上・中・下の屋敷、組屋敷、その他用屋敷などが含まれています。

このうち大名屋敷における各藩の被害については、幕府が直接調査するということはありませんでした。

藩邸は幕府から拝領したものではありますが、邸内の人事は各藩法があってそれに従ています。

幕府が直接関与できる領域ではなかったからです。

しかし、今回の地震被害については、稀な災害でもあり、藩が少なからずも被害報告を幕府にしていたみたいです。

こうしたものを集計すると、安政2年時点での大名266家のうち、被災の江戸藩邸は160、そのうち焼失したものは23、この全体の圧死あるいは焼死した数は1860人以上と推定されています。

これでもすべてを把握できていないのが現状です。

現時点でわかっている資料のみの集計であって、今後発掘での資料把握ができるのであれば、さらに被害の数値は大きく膨らむでしょう。

この中に旗本・御家人等の数字が一切書かれていません。

当時では旗本は5600以上、また御家人に至っては17000人以上いたはずです。

これを考えるとこの安政江戸地震の被害は膨大なものと思われます。

また、幕府が受けた被害は、当然、膨大な被害になっています。

地震後幕府は旗本・御家人に対して救済策を公にしています。

それによれば、百石以上は、類焼・全壊・半壊の被害度に応じて、禄高に沿った拝借金、九十俵以下の小禄の者へはやはり禄高に応じた御救金を与えるというものでありました。

その規定に従って拝借金・救済金を受けた人は17282人、また、猿楽・触流の者182人への手当ても支給しています。

これを見る限りでも震災後の救済活動で、膨大な資金の流失があり、人的被害を含めて、幕府の損害は計り知れないものがあったみたいですね。

もちろん正確には公表はされていません。

ちなみに救済金総額はこの当時で約85000石にあたるといわれています。

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地震による関東一円の被害

さて、もう一つ、江戸の地震は江戸だけに被害を及ぼしたわけではなく、おそらく地震学上からは震源地を地図上に落とし、被害状況を把握することも、地震の解明につながる重要な意味を持ちます。

しかし、地震の社会的影響となると有感地点といった客観的な基準が立てられない場合も多いですね

しかも情報伝達のルートが現在よりもはるかに遅い江戸時代に至っては、社会的頻度を測定するのは困難を極めるのではと感じました。

例えば、関東農村部の取り締まりに強力な力を発揮した「関東取締出役」などは、この地震に対して不良分子の不穏な動きを封じるため、各農村を廻り、また組合村々の代表者を集めて拙論に忙しかったと言います。

そして各村毎に、村内外の見廻りを強化するための議定を作らせ、百姓に連判させて、その意を徹底させています。

この際の村方議定書が現在でも各村に残されています。

江戸近郊、あるいは組合村々の農民たちは、こうした連判書の作成過程で、江戸では何かただならぬことが起きていると感じた者も少なくはなかっただろうと思いますね。

また、旗本領の多い関東農村地域では、農民たちはもっと直接的な被害を被りました。

もちろん、地震の家が倒壊したり、死者が出たという例も認められています。

こうした例を除くと、地頭である旗本の江戸屋敷が倒壊した、あるいは焼失したといったことのために、名主は被災見舞いに府中に出かけたり、領民は屋敷不請金の負担や手伝いのために、出向いたりと何かと応じなければならなかったのです。

こういった一連の負担が、関東一円の農民にも課せられていたため、江戸を遠く離れた山村に暮らす農民であっても、江戸地震の影響を、単なる情報というレベルではなく、実体的な形で受けていたことがわかります。

江戸地震が与えた社会的被害

先に、この地震が江戸だけに留まらなかったと言いましたが、日本全国に、もっと詳しく言えば、日本全国の藩に大きな被害と負担金額を背負わせることになりました。

この地震で江戸藩邸では、推定で約44%もの死者が出ているものとされます。

その統計的数字を明らかにすることはできませんが、人的被害がなかった藩邸でも、家屋の一部が壊れたり、石垣が倒壊したり、門定が破損したりと少なからずも被害が出ています。

例えばわかっている範囲で、最も被害が大きかった津軽藩では、88人もの死者を出しています。

津軽藩では地震の3日後弘前に飛脚を飛ばしました。

藩主順承(ゆきつぐ)は弘前にいたため無事であったみたいです。

藩主在国で事が早くに決定されたのでしょう。

翌13日には急速入用金二千両が江戸に送られることが決定しており、14日に弘前を出発し11月2日には江戸藩邸に到着しています。

また、大工・鳶・屋根屋・左官などの職人が次々と送り込まれています。

また、福岡藩では死者4人、けが人3人を出していますが、極めて軽症で済んだ藩でもあります。

そうであっても、地震のための諸入目金として百両、同じく建物の修復金として千五百両、ほかにも御入財金という名目で三千両、さらには、上水手入金を含め計五千五百両もの金額が国元に調達依頼されています。

こうしたものはほんの一例に過ぎません。

現在残されている史料はあくまでも断片的であり、すべてを把握したものではありません。

諸藩では御料金の調達のために領地の有力者に強制的に献金をさせたり、庶民に至っても先に述べたように、江戸藩邸の修復救援のための、今でいうボランティア活動みたいなものを強制させたりと、大混乱な状況下であったことは間違いありません。

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安政の大地震、震源地は南海トラフだった!?のまとめ

さて、この時期に起きた江戸大地震、日本だけではなく少なからずも諸外国の人々にも影響を及ぼしました。

こうした一連の自然災害は地方で起きるのと、今でいう首都圏で起きるのとでは大きな違いが出てきます。

安政7年に起きた南海トラフ大地震は、地方の広範囲にわたって被害を及ぼしています。

こういった災害記録は、公式的にはほとんど公表されていないのが現実です。

また、社会的影響化の中で、各藩の財政のほとんどが赤字状態であったことに、大きな打撃を加えています。

当然の如く予期せぬ地震の大出費で藩政は大きく揺らぐことになりました。

幕府自体も多くの損失をこうむり、徳川家の屋台骨を揺るがすことになります。

したがって政治的にも日本は大きな転換を迫られるきっかけのひとつとして関与されたのではないでしょうか。

この安政地震からすでに160年以上が過ぎています。

南海トラフの周期は100年~150年と言われています。

この嘉永から安政に起きた一連の地震が現在に来たら、果たして日本政府はすべてに対応できるでしょうか。

にわかに広がりを見せている南海トラフ地震、直下型も怖いですが、もし海上沖で発生した場合、必ず広範囲で太平洋側は津波に襲われます。

三陸沖津波(東日本大震災)の記憶がまたよみがえります。

そうならないように防災対策を急ぐべきではと思ってしまいますね。

また、ご機会があればお寄りいただければ幸いです。今日は最後までお読みいただきありがとうございました。

※旅好きブログです。私が旅をした記事や観光関連の記事を載せています。見てくださいね!

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