三陸津波の歴史から見た「東日本大震災」

災害の歴史

みなさんも記憶に新しいとは思いますが、2011年(平成23年)3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)、マグニチュード9.0、発生時においては観測史上最大の地震とされています。

この地震により場所によっては津波の高さが10m異常にも達した地域もあり、壊滅的な被害をもたらした自然災害であったわけです。

何よりも大きな衝撃だったのは、この津波の影響で福島第一原子力発電所の被害による災害でした。

風評被害被害も含め、日本史史上最大規模の自然災害だといわれています。

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三陸海岸の大津波

■三陸津波記録一覧

●貞観11年5月26日(ユリウス暦869年)平安時代
陸奥国に大地震、地震の規模は少なくともマグニチュード8.3以上、家屋倒壊圧死者多く、津波は城下に迫って溺死者1000人上。

●慶長16年10月28日(1629年 江戸時代 徳川秀忠)
陸奥国に地震あり、震害軽くも震後大津波襲い伊達領内にて男女1783人、牛馬85頭溺死す。南部津軽領の海辺にて人馬300余死す

●延宝4年10月9日(1677年 江戸時代 徳川家綱)
常陸国水戸、陸奥国磐城の海辺に津波ありて、人畜溺死し、屋舎流失す。マグニチュード8強、記録が少ない

●延宝5年3月12日(1678年)
陸中国南部領に数十回の地震あり、震害少なくも津波が来襲し多くの家屋の流失す。これも記録が少ない。

●元禄9年11月1日(1697年 江戸時代 徳川綱吉)
宮城県北上川口に津波来襲、牡鹿郡にて船300隻流失、溺死者多し

●宝暦元年4月26日(1751年 江戸時代 徳川家重)
高田大地震の余波として陸中国に津波あり、この時の記録もなぜか残っていない。

●天保7年6月26日(1831年江戸時代 徳川家慶)
仙台地方に大地震ありて、牙城の石垣崩れ、海水溢れ、民家数百を破りて溺死者多し

●明治29年5月5日(1896年)
午後7時半過ぎに起これる海底地震により、三陸沿岸は午後8時ごろより9時過ぎまで大津波来襲。死者21953人、負傷者4398人、流失家屋10370棟。

●昭和8年3月3日(1933年)マグニチュード8.1
午後2時頃地震あり、約30分後三陸及び北海道日高沿岸に津波来襲、死者1592人、行方不明者1421人、負傷者 1258人、流失倒壊家屋7263戸生ず

●昭和35年(1960年)
チリ地震による津波来襲。午前3時半の小津波から4時35分の大津波をピークに平常に戻るまで70回におよぶ小津波が観測された。死者129人、流失全壊家屋2409戸。

この中で明治29年5月5日に発生した津波の記述を、関係資料を参考に書いてみます。

この日は旧暦で5月5日、端午の節句の日に当たっていました。

したがって昼過ぎから親戚や知人がお互いに招きあって、御馳走や酒を振る舞い和気あいあいの内に村人は過ごしていました。

また日ごろの労を癒す意味でも、ほとんどの人が浜にいなかったようです。

日頃と違って早寝した家も多く、これが家屋の流失はともかく、溺死者がおびただしい数にのぼった一因ではないかといわれています。

ほとんど全滅に近い被害を受けた磯浜地区を例にあげてみます。

当時、気仙郡は1町11カ村で死者数は6800人余りを数えました。

唐丹村(とうにむら)は現在の釜石市ですが、人口2800人余りのうち、2500人が溺死しています。

釜石町は1200戸のうち流失をまぬがれたのは100戸余りだったと記されています。

地区別災害一覧

●鵜住居(うのずまい)村両石(りょういし)
144戸中、流失家屋は142戸、死者182人

●十三浜(じゅうさんはま)村相川(現、宮城県北上町)
43戸中、流失家屋は38戸、176人中、死者161人

●歌津村田ノ浦(宮城県歌津町)
55戸中、流失家屋は52戸、半壊3戸、404人中、死者209人

●歌津村中山
39戸中、流失家屋は33戸、214人中、死者154人

●階上(けしかみ)村明戸(青森県階上町)
89戸中、流失家屋は86戸、半壊1戸、588人中、死者432人

●唐桑村(宮城県唐桑町)
54戸中、流失家屋は50戸、半壊1戸、406人中、死者337人

●重茂村里集落(宮古市)
50戸中、流失家屋は50戸、250人中、死者250人、全滅

被害の大きかった場所を抜粋して載せています。

このほかにも各地域で計り知れない被害が出ています。

当時の災害記録では最終的に、死者21953人、負傷者4398人、流失・全壊家屋10370戸、流失・破損船舶7022隻、溺死馬955頭、溺死牛259頭という記録が残されています。

三陸海岸史上最大の爪痕を残したのが、この明治29年の三陸大津波です。

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測候所記録による津波の推移


当時の宮古測候所の記録によると、地震発生は6月15日(旧暦5月5日)、午後7時32分7秒、震源は測候所の東南30~35里の海底、東経149度・北緯39度であり、津波観測の記録は次のように残っています。

7時50~55分 急激に潮位低下
8時07分 第一波押し寄せる
8時15分 第二波
8時38分 第三波
8時48分 第四波
8時59分 第五波
9時16分 第六波
9時57分 第七波

7回の津波来襲時分は、湾の方位と形状によって多少違いはありますが、この観測基準をもとに湾口の向きや形状、湾内地形、集落分布の違いによる時間差把握が容易になります。

これは貴重な記録です。

この観測記録によると、第一波から第七波までの間には2時間という時間の幅がありますが、第四波以降は津波の勢力が急激に減少していったことが、潮候図で確認されています。

したがって、被災各地の家屋の流失・全壊、船舶の流失・全壊、人畜の溺亡のほとんどは第一波と第二波によるものであり、場所によっては第三波の追い打ちによって被害の枠が広げられたのでしょう。

特に激しかったのは第二波みたいで、およそ10分間で8回往復し、被災各地の最大波高を記録しています。

気仙郡広田村では30.6メーターを記録して、その他にも20メーター以上の最大波高を記録しており、いかに激しい津波であったかがわかりますね。

高台への復興の動き

明治29年の端午の節句の夜に津波に根こそぎさらわれた三陸海岸、集落の復興を津波が襲来しても安全な高台に移して進める計画を立てています。

また一方、前家族溺死の家については、生存者が力を合わせて養子縁組をして、家名をつなぎとめる努力を惜しみなく続けています。

しかし、「天災は忘れた頃にやってくる」といわれますが、津波はわけても長い。

あまりにも長い年月のインターバルをおいて襲ってくる「忘れた頃に」を地でいく典型的な「自然災害」です。

明治29年の津波は「天保」の津波の60年後であったし、昭和8年の津波は「明治」から37年後、昭和35年のチリ地震津波は27年後です。

だからこそ被災地の「復興計画」は目論み通りにはいかなかったみたいです。

3年、5年、7年と経過していくうちに、毎日の漁労が浜から遠い住居で、しかも坂道の登り降りの往復では、時間も労力もロスが多くて不便である。

元屋敷に家を復興しなければ、死んだ家族の霊が浮かばれない。

また、山村からの入籍、海辺とは縁のない町から来た家名継承者たちは、津波体験がなく、津波の恐怖を知らないので、いつ襲ってくるかわからない津波、一生に一度あるかないかの津波のために、急坂の上に家を築くことに難色を示したといわれます。

したがって大正を迎えた頃には、ほとんどの津波被災地が、元屋敷跡に復興されてしまいました。

九死に一生を得た生き残りの人の中には、日常の不便に耐えてでも高台に住居を置く人はごくわずかであったと記録されています。

さて、昭和8年3月3日、桃の節句の日の午前2時31分、大地も崩れるかと思う激震に見舞われた三陸海岸は、2時50分前後から著しく潮位が下がりました。

明治の津波から37年後のことです。

津波は「また、忘れた頃に」やってきました。

この津波による流失家屋は7263戸、明治の津波に比べたら3割ほど少ない計算です

目論みどうりに住居の高台移転が進められていたら、被害はほとんどなかっただろうと思います。

死者は1592人、行方不明者は1421人、合わせて3013人です。

ここでも3000人以上の人が命を奪われています。

この時は漁に出ていた漁師が潮の潮位に気づき、また地震の揺れで目覚めた人も多くいて、いち早く高台に避難した人が多かったと聞きます。

しかしながら、被害は膨大でした。

残念なことに「のど元過ぎたら熱さ忘れる」で、人間は何度も同じ過ちを繰り返していきます。

重茂姉吉の「大津波記念碑」、知っている方もいると思いますが、ここに書かれていることはこうです。

高き住居は児孫の和楽、想えば惨禍の大津浪 此処より下に家を建てるな 明治二十九年にも昭和八年にも津浪は此処まで来て部落は全滅し 生存者僅かに二人 後に四人のみ 幾歳経るとも要心あれ

と書かれています。

この碑は明治と昭和の津波の最高点より高い所に建立され、毎日往復する元の集落跡地と現在の移動地との間にあります。

明治29年の津波後に果たせなかった高台移転を、昭和8年の津波の洗礼によって果たし、すべての人々がこの悲惨な災害を忘れないように戒めている、貴重な石碑です。

先人の忠告は偉大です。

これを見たとき、過去の津波が、ただの歴史上の石碑となっていることに気づきました。

これは戒めですよ。

だからこそ先人は紙ではなく、石に刻み込んで永年にわたり、すべての人を救うように願ったのだろうと感じました。

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三陸津波のまとめ

関東大震災は地震火災という二次災害の広範囲な広がりによって、震災史上に残る膨大な災害を記録した。

しかし、この地震によって発生した津波のことはあまり知られていません。

房総半島から相模湾一帯を襲った津波は、熱海で12メートルを記録し、三崎6メートル、州の崎8.1メートルで死者は数百人にのぼったといわれています。

大震災の陰に隠れてしまってあまり公表されていません。

「津波」といえば三陸が代名詞のようになっていますが、十勝沖、新潟沖、南海道沖、八重山諸島、奄美大島と歴史を振り返れば、日本にはいくらでも津波の実例が出てきます。

この「三陸海岸の大津波」(東日本大震災)もテレビで多くその生々しさを映し出してきました。

三陸津波は35年周期、新潟は150年周期、南海道は140年周期というサイクル説があります。

まさに「忘れた頃に」です。

わずか数分の間に大きな被害をつくりだしてしまう「津波」、強大で破壊的エネルギーをもった自然の産物です。

人間は自然には100%勝てない。

だからこそ自然の力を知ることが大切なんです。

災害は「忘れて頃に必ずやってくる」!

また、ご機会があればお寄りいただければ幸いです。今日は最後までお読みいただきありがとうございました。

※旅好きブログです。私が旅をした記事や観光関連の記事を載せています。見てくださいね!

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