浅間山の大噴火、歴史に残る大災害

災害の歴史

「天明の大噴火」と呼ばれ世界史にも影響を及ぼした浅間山の大噴火、記録に残る限りでも日本の歴史において、最大の噴火による災害をもたらしています。

今回はその大噴火の記録を記した資料の中から、具体性のある記述を参考に書いていきます。

天明の大噴火は世界史にも大きな影響を及ぼしたといわれています。

激しい地震、地鳴り、大火砕流、そして集落をおそった土石流、これらすべてが日本の火山史上最大級の噴火でした。

今回はあまり出回っていない資料から、当時の浅間山のリアルな噴火を書き記していきます。

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浅間山、大噴火までの経緯

冬の浅間山

天明3年(1783)7月の浅間山大噴火、当時の呼び方に従うなら「天明の浅間焼け」は、記録に残る限りでは、日本の歴史において最大の噴火による災害をもたらしました。

噴火の時期が長く、災害も火山灰の落下による農作物被害、火山岩の落下や溶岩による火災など二重、三重に広範囲の人々に被害を与えました。

中心となったのは、火砕流という溶岩の一種が岩石と入り混じった熱泥流という特殊な土石流であって、山から流れ出した熱泥流は、浅間北麓の村々を呑み、さらに吾妻川に流れ込んで、鉄砲水として沿岸の村々を襲いました。

直撃を受けた鎌原村(現、群馬県吾妻郡嬬恋村鎌原)では、約100戸、村民570人のうち477人の命が失われ、村は全滅しました。

この浅間山の爆発による死者総数は1151人といわれ、被害としてはポンペイ市民2000人余の命を奪ったブェスピアス火山の爆発被害より小さいのですが、爆発の凶暴性は深く人々の印象に残ったということです。

浅間山は日本の代表的活火山であり、その活動は古くから知られています。

現在のところ『日本書紀』の天武天皇14年(685)3月の条に、

「͡是の月に、灰、信濃国にふれり。草木皆枯れぬ」

とありますが、浅間噴火を伝える最古の記録とみなされています。

その後も天仁元年(1108)、蒙古襲来の年の弘安4年(1281)などの噴火が記録されています。

考古学でいうと群馬県高崎市の「日高遺跡」・「同道遺跡」などから発見された弥生時代や平安時代の水田跡が、榛名山と浅間山の噴火によって埋没したものであることが知られています。

特に日高遺跡の平安時代の水田では、25歩の人間の足跡がそのまま火山灰に埋もれて発見されて話題を呼びました。

この水田は、天仁元年の噴火で埋もれたものと考えられています。

群馬県警察本部鑑識課の足跡研究室で分析したところ、この古代の農民は、25歩の歩行中に3度、精神的に動揺が認められるという。

この農夫を脅かしたのも浅間山の爆発ではないでしょうかね。

その後も浅間山は40数回の爆発を記録しています。

特に江戸時代には火山活動が活発であったとみえ、慶長(1603~1609)、正保・慶安(1644~1649)、明暦・寛文(1655~1661)、享保の前期と後期(1717~1723・1728~1733)など、前後5回にわたって6、7年間続く活動期がありました。

この後宝暦4年(1754)、安永5年(1776)と噴火があり、それからさらに7年目が、天明3年の大噴火となりました。

夏の浅間山
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浅間山の長期にわたる爆発

旧暦4月8日は卯月八日といって信仰登山の山開きの日でした。

浅間山への登山もこの日から始まります。

天明3年の噴火はじつに、この翌日から始まりました。

長年にわたって天明噴火の資料の発掘を続けてこられた萩原進氏が発見、紹介された史料に、浅間の裾野に吾妻川の渓谷がくい入る大笹村(嬬恋村大笹)に残る無量院の住職が書いたとみられる手記『嬬恋村誌』があります。

そこには、

天明三卯四月九日初に焼出し、煙四方に覆、大地鳴ひびき、戸障子ひびき地震の如し

と書いてあります。

浅間の噴火は空中高く煙を噴き上げ、石や灰を降らす活発なタイプで、だからこそ「焼ける」とか「浅間山がはねる」とか表現されたのでしょう。

噴火は1日で終わりましたが、その後、5月25日に活動は再開し、26日午前には大きな爆発があって、広い範囲に灰を降らせました。

そして6月18日の夜、またもや爆発があって上州側の山麓には火山から噴き出した小石が三寸も積もりました。

この後次第に活動は激しさを増し、27日、28日にも爆発が繰り返されました。

28日の場合、昼間から火山灰が降っていたが、夜中になって噴火は激しさを増し、大地がしきりに鳴動し、噴火の黒煙の中からしきりに稲妻が走った、と記されています。

おのおの身の毛をよだて、見る者汗を流し、魂を失斗なり

と例の無量院住職の手記にも記されています。

翌29日には、はるか離れた伊勢崎でも振動が感じられたといいます。

この頃から連日爆発が続き、火山活動は益々激しくなっていきました。

7月の上旬には、信州・上州・相州・武州と関東一円に灰が降るようになったと記されています。

その上、7月6日の午後に、これまでになかったほどの大爆発が起こりました。

きびしきこと天も砕け、地も裂かと皆てんとうす

と、この時のことを無量院住職は記しています。

街道に沿った信州側の追分・沓掛宿(いまの中軽井沢)などでは、老人・子供や家財道具を岩村田や小諸などへ避難させるまでになりました。

『信州国浅間ヶ岳の記』という記録によると、

この日午後2時ごろから大いに山が鳴りわたり、黒煙が噴き上げ、突き上げ押しまくり、数十丈高く天をおおい、稲光が火打石の火花のようにとびちって日中から火柱の上がるさまがすさまじくみえた。

鳴動は次第に強く、畑の農夫も往来の旅人も、ただあきれはてて空を眺めては胸を冷やすばかり。

夜に入ると噴火はいっそう目立って、山頂付近は紅に染まり、雲のなかから火玉が四方八方へととびちていく。煙は東へなびき、西の方へは煙のなかから大小の石が落下する。

山伝に流れ出した溶岩は南西の方へむかい、裾野の山林に落ちかかって山火事となる。そのさまは数万の松明をならべたようである。

硫黄まじりで青い火もあり、天を焦がし、地を焦がし、鳴動はしきりに強く、人々は寝る者のなく、神棚へ灯明をあげて懸命に祈りをささげるはかり。

戸障子・唐紙は地震のように、「わたりわたり」と鳴りはずれる。
明くれば七月七日、七夕の日であるが、追分・沓掛宿では夜明けをまって皆、逃げ出してしまった

と、伝えています。

浅間山の噴火
6日の爆発は、京・大阪から北は佐渡島、東は蝦夷の松前、南は八丈・三宅島まで響き渡った、と記されていますが、少し大げさな表現でもないとは言えませんが、加賀藩でも鳴動を聞いたという記録も残っています。

また江戸の知識人、杉田玄白もこの時の音を聞いたと記録に残っています。

大笹には各地の大名から問い合わせの使者が集まり、問屋で庄屋でもあった黒岩長左衛門という人がこれに応接して、噴火の委細を記した書付を渡してやったというから、遠隔地における反応を地元で把握していたのかもしれません。

7日も朝10時ごろから夕方まで爆発が続きました。

「夕方、少しおさまり、灰が降ったかと思うと、夜になって鳴動がおこり、数千の雷のようであった。

沓掛宿では一斗樽ほどもある焼石が家の屋根を打ち抜いて落下し、畳を焼き切って火事になった」、と記されています。

その後も大石と火玉が降ってくるので、上を下への大騒ぎとなり、ふみとどまっていた者も提灯や松明を掲げ、家財を牛馬につける者、布団、ざる、戸板、などありあわせの品を笠の代わりにして落石を防ぐ者、我先に逃げようと大騒ぎをしています。

最終的にもっとも被害を出した北鹿の上州側でも、人々は恐れおののいてが、信州側のように避難の記事がないのが不思議でした。

結果的にこれが損害を大きくし、多くの人命を失わせたのですが、なぜ逃げなかったのか、これはいまだに不明です。

この時の上州側の様子も無量院住職の手記に記されています。

上州側でも爆発音は百倍きびしく、地の動くことは千倍という有様であった。

大笹村では、村人たちは飲食を忘れ、身の置きどころもなく浅間の方ばかり眺めている始末である。

そこえ山から熱湯が湧きだして押し下し、浅間の裾野南木山一帯の林が燃え上がり、一面火となった。

石の落下すること雨のようであったという。(現代語略)

浅間山、天明の大噴火図
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運命の大爆発(天明の大噴火)

こうして運命の日、7月8日がやってきました。

「前日は一時激しい雨が降ったが、この日は晴れで鳴動もいくらか静かに思われた。午前10時頃、草木が突風に揺れ動いたかと思うと、突然それは来た」、無量院住職が記しています。

熱湯一度に水勢百丈余り、山より湧出し、原一面に押出し、谷々川々押払い、其跡は真黒に成

同じ吾妻郡内の一目撃者は、それを「黒鬼」に例えています。『浅間焼出大変記』より。

まず朝から石塔を倒すほどの強風があり、次に黒鬼のように見えるものが、鎌原・川北・大前などの村々を押し通した。

大地を動かし、家を囲い、森、何百年と年を経た老木もみな押し砕き、砂津波が土を掻き立て、電光を発し、振動する。

そこえ第二波の泥火石が百丈あまりも高く打ち上げ、あたりは暗くなり、電雷がとどろき、天地は崩れ、火柱が空を突き抜くばかりの修羅場が2時間余り続いた。

あとはただ一面の泥海のようになっていたと記されています。

火山爆発では岩石片の混ざった1000度ぐらいの熱い灰が大量に噴き出すことがあります。

これを火砕流といい、それが山肌を滑り降りながら山腹の土砂や川の水を巻き込んで熱泥流となります。

表層雪崩と同じように抵抗が少なく、重力で加速されて、鎌原村あたりでは時速100キロにも達する熱泥流となっていました。

目撃者の記録にもあるようにそれは一瞬のうちに山を駆け下り、途中で3つに分かれて、それぞれ家をのみ、木を倒し、つむじ風のように斜面を下って吾妻川に流れ込んだそうです。

浅間山、鬼の押出し
鎌原方面に流れた分流は幅3キロあまり、鬼押出しから鎌原村を直撃し、さらに小宿・大前・細久保等の計4か所の村を飲み込んでしまいました。

この後、第二次に噴き出した溶岩が、現在の鬼押出し付近の景観を形つくったといわれています。

これらの熱い泥流はさらに吾妻川に入って勢いが衰えず、時速40キロの熱泥交じりの鉄砲水となって下流に下りました。

坪井村・長野原村などがこの水に押し流されています。

この黒い流れは、昼頃には利根川の合流点に達し、関東平野を下って夕方までに320キロ下流の銚子から太平洋へと広がっていったとのことです。

この黒い流れの物凄さは、近年、鎌原で発掘が進められて次第に明らかになっています。

当時の記録では意外にあっさりとしか記録されていません。

本当に地獄を見た人は、すべて死んでしまっていたからです。

鎌原村では黒い流れが襲ってくるのをみて、壮健な者は高台に逃げようとしたが、泥流の方が早く、人間を次々と飲み込んでいきました。

足弱な者が、やむなく村の背後の丘にある観音堂へ逃げ上がったが、泥流は頂上まで達しなかったのでからくも助かった、といいます。

鎌原観音堂の前には石段が15段だけ残っています。

本来の階段は170段前後といわれていました。

いつの頃からか「天明の生死を分ける15段」といわれ、今もその言葉を刻んだ碑が傍らに立っています。

実際には発掘調査で約50段ということがわかっています。

浅間山、天明の大噴火時、生死を分けるお寺

泥流におそわれた下流の村々

吾妻川に流れ込んだ泥流も、なお猛威を振るいました。

現在でも吾妻川は深い谷が美観を形造っていますが、谷沿いの乏しい土地に営まれている人間の生活は、突然の異常水位にひとたまりもありませんでした。

10メートル以上も水位が上がったことがわかっています。

坪井村という村は押し流されてその後ついに再建されませんでした。

長野原の宿も土砂に埋もれました。

死者319人、馬80頭余りが死んだといいます。

この辺りは宿場としての馬数が多かったと記されています。

その下流の吾妻渓谷の狭い谷では、岩石や押し流された樹々、家などが溜まってダムになり、一度増水しました。

いくつかの支流で川が逆流したという伝承があるのは、このためでしょう。

その後、水はダムを突き破って、岩島村・原町・中之条を次々と襲いました。

吾妻川もこのあたりでは谷が開け、両岸に平野が広がり始めます。

勢いのついた泥流は小野上村あたりで一度広がって被害を大きくしました。

北牧村では147軒全戸が流失、川島村・南牧村などの現在、渋川市に属する地域にも大きな被害を与えました。

利根川に入っても、真っ黒な泥流の勢いは衰えず、旧河川敷の村々を押し流しました。

桃木川・広瀬川などの支流や天狗岩用水の取水口にも土砂が入り込んで川をふさいでいます。

高崎付近で鳥川と合流するあたりで川が広がるので、被害は少なくなりますが、流れが弱まるので土砂溜まっていきます。

このため利根川は水路が変わってしまったという記録が残っています。

上流から流れてくる黒い水、そこに浮かぶ木材・家屋・畳・人間や牛馬の死体は下流の人々を驚かせました。

そして黒い水は銚子から太平洋に入って海を黒く染めたといいます。

一方関宿から旧利根川、つまり江戸川に流入して東京湾に注いだ水もありました。

江戸にも流れ着いた死体があったことは、柴又の題経寺、東小岩の善養寺など、東京都内の江戸川沿いの寺に今も流死人を供養する石碑が物語っています。

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浅間山の大噴火、歴史に残る大災害のまとめ

天明3年の噴火は7月8日の大爆発で終わったわけではなく、小爆発や鳴動は9月の末まで続いたと記されています。

7月8日の熱泥流による損害は、死者1151人、流失家屋1061戸、焼失家屋51戸、倒壊家屋131戸というのが一応の概数みたいです。

各種の記録が伝える恐怖の凄まじさに比べて、数字が低いように感じますが、実際にはまだ多く被害が出ており、数字的に把握できないかったのが現実であったのでしょう。

この他関東一円に農作物被害も多く出ています。

泥流に覆われた土地は長い間使い物にならず、復旧にも長い間かかっています。

火山の噴煙の中に含まれている微粉子は成層圏にのぼり、偏西風にのって地球全体に拡散して何年にもわたって太陽の放射熱を遮り、異常気象を引き起こすことがあります。

アメリカの歴史研究家の中には、フランス革命に先立つ1780年のヨーロッパの異常気象、それにもとずく凶作が社会的不安をもたらし、革命の一因となったという考え方があり、この異常気象の原因の一つに浅間山の噴火が指摘されています。

その意味でもこの「天明の大噴火」は世界史に残る大災害であったことがわかります。

また、ご機会があればお寄りいただければ幸いです。今日は最後までお読みいただきありがとうございました。

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