石垣島を襲った大津波の歴史

災害の歴史

歴史的災害を調べていたら、とてつもない大津波の記録が残っていました。今回は南国八重山諸島で起きた大津波について記してみます。

自然災害には「想定外」という言葉は通用しません。災害の歴史を見ても大地震と大津波はセットになって、常に日本を襲っています。

2011年3月11日に発生した「東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)」、この時に起きた大津波は記憶に新しいと思います。

よく「天変地異」といいますが、やはり歴史から学び、その教訓を生かして未来に繋ぐ、と言う考え方がこれからの日本に必要ではないかと感じています。

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石垣島の大津波、日本史に残る大災害


明和8年3月10日(1771年4月24日)南西諸島の石垣島の南南東約50キロ沖合で地震が発生しました。

マグニチュードは7.4というから、昭和53年の宮城県沖地震と同じぐらいですね。

石垣島といえば私も一度行きましたが、サンゴ礁と透き通るような青い海が印象的なところで、観光地としては絶大な人気を誇っています。

その隣には竹富島・黒島・小浜島といった小島を控え、その西にはイリオモテヤマネコで有名な西表島(いりおもてじま)があります。

さて、この地震は海上の沖合いで発生したので、島内で振動による被害はなかったみたいですが、地震後まもなく津波が八重山・宮古両群島を襲いました。

両群島とも津波は異常退潮で始まり、大波は3回襲来したと記録されています。石垣島では島の面積の約4割が波に洗われました。

石垣島は震源からの津波をまともに受ける位置にあったため、宮良川・磯部川・轟川などに沿って津波は濁流のように駆け上がり、上流で合流し名蔵の方に流れ、島を横断したと考えられています。

津波の到達した最高地点は宮良の北方で、当時の記録によれば二十八丈二尺の地点、つまり85.4メートルです。

この説に疑問を挟む学者もいます。かつては二十八丈は二十八尺の誤記であるとも考えらていました。

しかし、石垣島の郷土史家の牧野清氏は当時の測量技術や、津波によって打ち上げられたと見られる大石が、だいたい海抜20メートルぐらいまの地点まであることなどから、二十八丈二尺は誤記ではないという説をとっています。

牧野清氏はこの地震・津波について詳しい調査をなされ、津波で押し上げられた大石の分布状況など正確に調査をされている方です。

この津波の被害は石垣島で最も大きく、死亡率48.6%に達しましたが、西表島などはサンゴ礁が防波堤の役目を果たしたせいか、死亡率は7.5%に過ぎませんでした。

石垣島の死者は8439人、仲与銘村は全滅し、村の全員283名が亡くなりました。

その他、死亡率80%以上の村は、大浜村(92%)、宮良村(86%)、白保村(98%)、伊原間村(87%)、安良村(96%)です。

この他にも、浸水家屋1003戸、船流失98隻の被害がありました。宮古群島でも津波の高さは十三丈(約40メートル)に達し、群島で死者2548人、船の流失破損76隻の被害を出しています。

津波が過ぎ去った後の移転問題

津波の過ぎ去ったあとに、いくつかの問題が残されました。一つは移転の問題です。当時八重山の政庁であった蔵元や村々は、津波に洗い流されてまったく機能を失ってしまいました。人々は生きるのにやっとという有様でした。

もちろん、再び津波に襲われることを恐れました。こうして、4村と蔵元は今後も安心して住めるよう移転を願い出て、津波の年の冬から移転が始まったのです。移転先は3キロ奥地の文嶺という土地でした。

しかし移転してみると、船着き場から遠く、用水の便も悪く、各地からの税穀などを運ぶのに不便であるなどの理由で、もとの所に帰るという意見が出てきました。

住民討議の結果、再移転賛成567人、反対23人で再移転が決まり、安永3年(1774)にはもとの所に戻ってしまいました。

また、津波で流潰した村々を再建し、復興するために村を移転し、被害の少なかった村からの移住者と合わせて、新しい村を作ることが図られました。こうした新しい村に移住してきた人々は離島の村々からの人が多かったと記録されています。

例えば白保村は人口1574人のところ、津波により1546人が死んだり行方不明になったりして、わずか28人が生き残こりました。

この人々は、上野地というところに移り、そこに波照間島から418人の移住者を受け入れ、446人の村になっています。

このようにして、村の移転が行われたのは、はっきりしたものだけでも8件にのぼりました。しかしその後、何年か後に再び海陸交通、用水、耕作生活の不便などからもとの所に帰った例が多かったみたいですね。

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疫病・飢饉の問題


第二の問題は疫病や飢饉の問題でした。津波によって海水を被った土地の生産力は落ちました。その上、衛生状態が悪化し、次のような凶事が相次いで生じました。

明和8年(1771)津波後、赤蠅発生し牛馬百余死

安永元年(1772)疫病、死多数

安永2年(1773)風干害による凶作、大飢饉、牧牛二千三百頭食べる

安永5年(1776)大飢饉、疫病、死三千七百三十三人

安永6年(1777)大飢饉、死二百人、牛疫により牛馬死百五十

享和2年(1802)疫病、死四百二十五人

天保5年(1834)疫病、麻疹、死六百三十六人、以後天保9年までじつに死千九百九十六人(伝染病みたいだ)

嘉永5年(1852)疫病、麻疹、千八百三十四人死亡

このように明治までの間に凶事が長く続いています。

この記事を書く前に、石垣島の歴史について調べましたが、こういう凶事の記録は津波前にはまったく残っていません。

やはり、このことは津波による間接的な影響がかなり大きかったと考えられます。

八重山の人口の推移をみると、津波前は28992人でしたが、津波により19679人に減り、以後は村の再興の努力にもかかわらずに減少を続け、安政元年(1854)には最低の11216人となりました。

その後人口は徐々に増えたものの、人口が津波以前に戻ったのは、津波後148年経った大正8年でした。

その理由の一つとして、津波による死亡者が女性や子供が多かったこともあげられています。

事実、死亡者のうち女性は57%を占めていました。

また、沖縄の人頭税制度が重圧となって復興にブレーキがかかったことも確かです。

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石垣島を襲った大津波の歴史のまとめ

最後に、「明和大津波遭難者慰霊之塔」、場所は宮良地区のタスナー原という場所にひっそりとたたずんでいます。

慰霊の碑には当時の津波の様子を表した碑文が刻まれています。

リゾートばかりがクローズアップされている現代ですが、その地を訪れたら過去の歴史を知ることも忘れないでほしいですね。

今の石垣島からは想像もつかない出来事ですが、これは石垣島だけではなく、島国である日本ではどこでも起こりゆる災害です。

歴史を紐解いていくと数々の津波災害が日本を襲っています。

今一番懸念されているのは「南海トラフ地震」ですが、地震と火山噴火は周期的に必ずやってくるということを理解していただきたいと思います。

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日本重要文化財に指定されていた「来訪神」10行事のひとつである「宮古島のパーントゥ」が、11月29日午後、国連教育・科学・文化機関(ユネスコ)の無形文化遺産に正式登録されました。

おめでとうございます!

やはり、こういった土着性のある伝統文化の継承というのは、これからも大事にしていかなければなりませんね。

また、ご機会があればお寄りいただければ幸いです。今日は最後までお読みいただきありがとうございました。

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