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【日本の年号】起源と解説

【日本の年号】起源と解説

こんにちは、ワカマツです。

今回は旅ブログにはあまり関係ない記事になりますが、ご容赦くださいね

2020年2月1日、ひとつのメールが届きました。

その内容として、「日本の元号はいつごろからはじまったのですか、また、誰がどうやってきめていたのですか」という質問でした。

この質問は、この「旅ブログ」空にきたわけではなく、もうひとつのワカマツblogの方に寄せられた質問でした。

歴史を中心としたブログで、私の得意とする分野ですが、日ごろから、旅ブログもみてくださっている方なので、本人の許可をとり、質問の回答を記事にしていくことにしました。

メールで回答しようかと思いましたが、回答文があまりにも長くなるという問題が生じ、どうせなら記事にしてしまおう、と思い実行に移した次第です。

さて、実際にこの質問は、学校でも簡易的に習っていると思います。

また、ネットで調べたらいくつかの記事はありますが、内容があいまいで、詳しくは書かれていないのが現状です。

日本の元号が「平成」から「令和」に変わり、この元号に関しても一時期ネットでも多く検索されていましたが、ワカマツblogでも、元号について書いていたので、よくアクセスがありましたね。

さて、今回は私が持っている元号についての史料をもとに展開していきます。

この資料は昭和62年に作成したもので、少し古いのですが、今でも十分に通用するものと思います。

定説文だけではなく、私の史論も含まれているので、ネットで検索してもこの内容は絶対に出てきません。

興味のない方には大変申し訳ないと思っていますが、少しだけでも日本の歴史に耳を傾けてくれればと願います。

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■日本の歴史とは?

今回は難しく書くつもりはありません。1万字はゆうに超えてしまうので、あくまでも大雑把に書いていくのでご容赦くださいね。

日本国家としての日本の歴史は、正直、そんなに古くはない、というのが私の見解です。

なぜこのようなことを書くかといえば、日本の歴史を深く掘り下げていくうちによく言われる「謎の4世紀」という言葉が存在します。

なぜ、このような言葉が出てくるかといえば、簡単にいうと何も史料的な物が残っていない、もしくは見つかっていない、というのが現状です。

歴史については、特に古代に関しては、単一国家と言われている日本ですが、けっしてそうではない部分がかくされていると考えています。

このブログでも記している、「古代出雲王朝」とか「吉備王国」、そして近畿地方を中心として勢力を拡大してきた「大和政権」、ある意味、日本の三国志みたいなもので、さながら古代戦国時代だったかもしれません。

そういった中で、少しずつ制圧や吸収を繰り返して、よくいう「大和政権」ができあがっていったのだと思います。

しかしながら大和政権が日本の統一国家だったかというと、一概には言えない部分があります。

北に目を向ければ、アイヌ民族を中心とした大きな勢力が君臨しており、また、南に目を向ければ九州の南半分を勢力圏とした隼人族を中心とした軍事大国が存在してたことも事実です。

これらを大和政権が制圧したかというと、これもまた、一概には言えないでしょう。

さて、日本には、国家の礎となる歴史書が存在します。みなさんもご存知の『古事記』・『日本書紀』ですね。

ここで登場する「日本武尊」さん、この方は歴史書の中では、ロミオとジュリエットみたいなもので、悲劇のヒロインですね。

開湯伝説でも書いているとうり、最後は白鳥になり宇宙へと羽ばたいていく、また、その化身たちが高僧であり動物であって日本全国の温泉を発見したのだと、壮大なる私論ですが、確かにこれに似た人物がいたとされているのも推理されています。

また、「記紀」に記されている「日本創生神話」の世界、海外にも似たような神話が存在しますが、この当時、それをまねて書いたとも思えず、日本全国にあった「風土記」を集めて編集し作り上げた物語なのかもしれません。

「風土記」というのは、「記紀」が編纂される以前に存在していた、各地方の暦書みたいなもので、実際には、調書的な存在で、「記紀」みたいな神話的要素は含まれていませんでした。

ただ、この中から色々な要素を抜き出して書いたことは事実でしょう。だからこそ、「記紀」が編纂されたのちはこの「風土記」が存在すると、つじつまが合わなくなるので、故意に消滅させたと言われています。

しかしながら、写本を含めて日本全国に今でも5つの風土記が存在していますが、その中には、「出雲国風土記」のように原本が残っているものもあります。

この中には「記紀」に記されている「八岐大蛇伝説」などは一切書かれていません。主役である「須佐之男命」や「大国主命」も名前を変えて、小さな村の村長的な存在だったようです。

このように日本の歴史は(世界でもそうですが・・・)、古くなればなるほど、また深く掘り下げていくほど、つじつま合わせが大変だったことが読み取れます。

だからこそ、歴史はロマンであり、そのロマンに引き寄せられて深く入って行くと、意外に散文的であるともいえるでしょう。

■最初の元号は誰がどうやってきめたのか?

さて、本題に入って行きますね。

古代日本を探る時に、どうしても必要となるのが先にも記した「記紀」の存在です。

特に、この年号に関しては、少しあいまいな点があり、定説では「大化」が日本における正式な年号のはじまりとされています。

しかしながら、それ以前の26代継体天皇の時に、「善化」(もしくは善記・善紀ともいう)とか、32代崇峻(すしゅん)・33代推古朝に「法興」とかいう元号が存在したという見解もあります。

皇極天皇4年(645)6月12日、中大兄皇子と中臣鎌足らは、蘇我入鹿を殺し、翌日、大臣蘇我蝦夷を滅ぼしました。

14日、皇極天皇が弟の孝徳天皇に譲位し、中大兄皇子はその皇太子となり、ここに新政府が誕生し、19日に元号を建てて「大化」とした、と『日本書紀』に書かれています。

もともと、元号というのは中国古来の制度ですが、それを模範にしつつも、日本独自の元号をはじめて建てたことは、日本の独立国家としての立場を、明確にすると同時に、一大政治革命に着手する新政府の意図を内外に示すためだったのではないでしょうか。

さて、この「大化」という文字ですが、『呂氏春秋』の「姦邪(かんじゃ)去り賢者至りて大化を成す」とか、『漢書』の「民の為に利を興し害を除き大化を成す」などから採ったもので、その文字に込められた意味は、大化改新の理想、目標を表していると言えるでしょう。

では、この「大化」という文字を元号に用いた人物は誰でしょう。

通常で考えるならば天皇と思うかもしれませんが、じつはそうではないんですね。

まずは、天皇に対して進言し、「大化」という文字を選定した人物がいます。

それは、新政府の政治・文化の顧問に任命されたとする「旻(みん)法師」と「高向玄理」であるとされています。

旻は24年間、玄理は37年間も隋・唐に留学しており、中国の文物・制度に精通していたからです。

この2人の進言を中大兄皇子が孝徳天皇にとりつぎ、天皇の同意をえて建元されたと推定されています。

大化6年(650)、「大化」から「白雉(はくち)」と改元され、これが改元の最初となったのですが、白雉年号は孝徳天皇の崩御により、わずか5年で終わり、そのあと天武天皇の晩年、686年に「朱鳥(しゅちょう)」という元号が建てられたものの1年で終わり、再び元号は中断しました。

しかしながら、「大化」・「白雉」・「朱鳥」という元号は、必ずしも広く用いられてはなかったみたいです。

それだけに中国とは違い、この時代では特別に元号を重視する傾向が定着していなかったということでしょう。

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■元号が本格的に広く用いられた時期は?

さて、それでは元号が継続的に、かつ広く使用されるようになったのはいつ頃なのか、ということです。

それは、「大宝」以降であり、701年、皆さんが御存知のとおり「大宝律令」というのが完成しました。

その中に、「およそ公文に年を記すべくば、皆、年号を用いよ」と規定され、ここに年号の制定、使用がはじめて成文化され、公文書には年号を用いることが義務づけられたのです。

ところで、その後の年号はどうやって決められていたのか、建元・改元の理由はブログにも書いている通り、さまざまな理由がありますが、その具体的なプロセスに関しては、正史に関係記事がないので、平安前期までの様子はまったくわかっていないのが現状です。

平安中期以降になると、宮廷の儀式書や公家の日記などに詳しく書かれているので、確定的な史実として公表されています。

■元号が決められるまでの流れ

それでは、どういうプロセスをもとに元号が決められていたのかを簡単に説明していきます。

まず、天皇より大臣に改元の意向が伝えられます。

●大臣は仰せをうけたまわって文章(もんじょう)博士に文字を撰ばせます。

●文章博士は中国の経史から佳字を選び、出典を付記して年号勘文を大臣に答申します。

●大臣は公卿を所定の日時に会議場に召集します。

●大臣は蔵人(くろうど){天皇の秘書}を通じて、年号の勘文をいったん奏上し、天皇から「年号を定め申せ」との仰せをいただきます。

●その際、天皇は年号勘文の中に、適当な案がないとおもったら、他の案(以前に未採用になった文字など)を添えて下します。

●公卿たちは、大弁(大政官の高級職員)が年号勘文を読み上げると、そのひとつひとつについて適否の意見を述べて議論を尽くします。これを「難陳」といいます。

●そして適当な文字をいくつか選んで、天皇に奏上します。

●すると天皇は、重ねて「この中よりいずれの年号を用いるべや」と公卿たちに諮問します。

●公卿たちは再び会議を開いて年号案をひとつにしぼり、蔵人に介して奏上します。

●天皇はその最終案をそのまま認め、新年号を公布するための詔書を作るように命じます。

●大臣は中務(なかつかさ)省の内記に詔書を起草させます。

●その草案を天皇に奏して諒解を得ます。

●ついで、草案を清書し、天皇に見てもらい勅裁の印に天皇みずから日付を記入します。

●この詔書は中務省に下され、年号が公布されます。

と、いった具合に流れていくのが基本でした。めんどくさいですね。

年号は天皇が勅定することを建前としていますが、天皇がひとりですべてを行うのではなく、実際には、天皇の意向をうけた大臣が文章博士らに新年号の案を選び出させることから始められ、ほぼ上記のような手続きを経て、制定・公布されました。

この手続きは江戸時代末期まで大筋において変わらなかったのですが、江戸時代には幕府の同意を必要としていました。

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■まとめ

さて最後に、近代にいたってはどうゆう流れだったのか、ということを説明しておきます。

明治の改元にあたり「一世一元の制」が定められ、ひとりの天皇に対してひとつの元号であって、江戸時代まで続いたひとりの天皇がいくつも改元することができなくなりました。

また、明治42年の「登極令」において、「天皇践祚(即位の意味)ノ後、直ニ諮詢(しじゅん)シタル後、之ヲ改ム。元号ハ、枢密院ニ諮詢シタル後、之ヲ勅定ス」と規定されました。

明治天皇崩御の直前に西園寺公望首相は、5人の学者に新年号案の撰進を求め、提出された数案のうちから3案を政府案として選びました。

やがて天皇が崩じ、直ちに大正天皇が即位すると、天皇は枢密院に新年号の撰定を諮詢しました。

山県有朋を議長とする枢密院は、政府案の提出を求め、その中から「大正」を選んで天皇に奏上しました。

天皇はこれを採択し、戒厳の詔書を渙発して新年号を公布しました。

「昭和」・「平成」・「令和」に至るまで基本的な流れは変わっていません。

ご存知のとおり、平成から令和に改元されるとき、特例法案をつくり、天皇の崩じ無くして改元が成立しました。

今後もこういった流れの中で元号はつくられていくとは思いますが、元号というのは、日本独自の文化に成長し、世界でも認知されるようになっています。

西暦もいいのですが、なにか味が薄いですよね。

いまからは「令和」の時代です。日本人である以上、元号を大事にしていきましょう。

今日は最後までお読みいただきありがとうございました。

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※「歴史」・「生活」・「政治・経済」のブログもあります。また、全国各地の温泉にまつわる開湯伝説も紹介しています。読んでくださいね。

ありがとうございました。  
                                  宗像大社 本殿

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