【古代吉備王国】謎の巨大前方後円墳

【古代吉備王国】謎の巨大前方後円墳

こんにちは、ワカマツです。

豊かな土地には早くから文明が栄えるといいます。事実、岡山市から西方、総社市にかけては、通称吉備王国と呼ばれる王権が存在したといわれています。

それは「吉備風土記の丘」に今も巨大な姿を横たえる「造山古墳」や「作山古墳」、そして飛鳥の石舞台古墳に劣らぬ石組を残す「こうもり塚」、箭田(やた)大塚古墳牟佐大塚などの石室からも窺い知れます。

5世紀から6世紀にかけて、この吉備王国は大和朝廷に組み込まれていきました。四道将軍の一人、「吉備津彦命」は吉備平野の北方に峨峨としてそびえる鬼ノ城に棲む「温羅(うら)」という鬼人を退治して吉備を平定し、今も「吉備津神社」の祭神として祀られています。

この伝承の背後にあるのは、大和朝廷の吉備征服という歴史的事実かもしれません。だからこそ、鬼ノ城の累々たる石塁は、かっての吉備王国の砦であったということです。

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■前方後円墳の時代

律令体制による古代国家の完成後に、備前・備中・備後・美作の4ヶ所に分割された吉備地方は、その前史においては吉備国として一つの領域として扱われており、有力な勢力が形成されていたと考えられます。

当時の列島社会で、その実態が「政権」であったのか、また、地域国家であったのか、あるいは政治的勢力でしかなかったのか、現代においても確定的な論証を得ることはできません。

日本国の古代国家の形成途上期というべき古墳時代は、列島社会における社会的階層や政治的秩序を、統治者側に立つ首長の葬儀儀礼、即ち首長権の継承礼儀の結果的記念物である古墳に体現させた時代であり、前方後円墳がそのその頂部占めていることから前方後円墳の時代ともされています。

前方後円墳を主軸とした古墳の形成状況を列島社会に展望すれば、中心地が大和国と河内国及びその周辺地域の畿内政権の中核地にあることは一目瞭然ですが、吉備地方の中核域も決して劣りはしない唯一の地方です。

吉備地方の中核域では、巨大前方後円墳の複数の達成、大型前方後円墳の集積的な形成、小型前方後円墳の拡散的かつ量的築成、さらには小型の円墳や方墳の汎地域的な高密度の所在状況等々の、古墳全般にいたる形成状況が、質・量ともに畿内政権中核域に遜色ないと評価されています。

こうした古墳の形成状況が、畿内政権に対抗しうる吉備政権の発想の由来とでもいえるでしょう。

さて、考古学というのはいつも散文的に解釈されがちと思ってしまいます。確固たる論証もなしに1500年以上前の日本を語ったところで、確定ずけられる物的証拠もないまま、すべてが空想の世界で書いていくしかありません。

少し間前に「出雲朝廷」と「出雲大社」について書かせていただきました。これも同様にいろいろな参考文献や旅の途中に訪れて、自分なりに検証し空想を企てています。

実際にどこまで通用するかわかりませんが、あくまでも「歴史はロマン」の位置づけでしかありません。そのことを踏まえて、今回も「日本三大古代王国」のひとつでもある「吉備王国」の夢を広げていきたいと思います。

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■吉備の巨大古墳

吉備地方には「造山古墳」と「作山古墳」の2基の巨大前方後円墳があり、中核域の西に沿って占領しています。また、この他特大の大型墳といえる「雨宮山古墳」もあります。各古墳の概要は次のとおりです。

●造山古墳

古代の行政区画では備中国都宇郡河面郷(岡山市新庄)に所在し、中核域の西部を斜めに横切って吉備津(入江)に流れる高梁川分流の、右岸中程の奥まった平野の背後に突き出した低丘陵先端に立地します。

その低丘陵を取り囲む背後の主尾根には、弥生時代末期の墳丘墓を含む数々の古墳群が展開し、大型前方後円墳も所在しています。

墳丘は、現状で全長350m、高さ31m、後円部径約200m、同高31m、くびれ部幅約145m、前方部先端幅約230m、同高25mの規模を誇り、後円部が前方部より3mほど高い。

墳丘形状は、くびれ部両脇に造り出しを設けた整然とした三段築成なっており、前方部を南西背後の丘陵側に向けています。

畿内の巨大墳や大型墳に見られる楯形の周溝は確認されておらず、痕跡も見い出しがたいみたいですが、後円部墳丘先端両側外で、幅約30m、同全面外で幅20mを範囲とする、平面楯形の外周帯が付属していたと考えられています。

これまでに円筒埴輪や楯・鞍・家等の形象埴輪の破片が採集されており、須恵質も含まれています。内部主体や副葬品に関してはまったく不明であり、前方部頂上に置かれている阿蘇山産凝灰岩製の石棺は、造山古墳北西側丘陵の山麓に所在していた車塚古墳からの出土とされていますが、造山古墳前方部出土の伝承も残っています。

一方、造山古墳の前方部側の背後低丘陵上には現状で8基、古くは10基の中型や小型の古墳が形成しており、この古墳群と造山古墳の関連は、通常「倍塚」とされていますが、定かではありません。

その中には、初期横穴式石室を内部主体とする「千足古墳」や初期須恵器を出土している「榊山古墳」等の明らかに時期差を示している古墳も含まれており、一概に「倍塚」とは言えないところもあります。

●作山古墳

古代の行政区画では備中国窪屋郡美篝郷(総社市三須)に所在し、高梁川分流の上流右岸平野域の一画に横たわる独立小低丘陵の背後側端部に立地します。

周辺の平野背後の丘陵一帯には、弥生時代末期の墳丘墓を含む在地性を示す古墳群の群成が展開するとともに、作山古墳以後の大型前方後円墳も所在しています。

占地状態は、海浜とは完全に隔たっており、後円部墳丘末端が平地に追っており、内陸志向性と判断されます。ちなみに、「造山古墳」とは直線距離で西方に3.5kmに位置し、徒歩にして1時間ぐらいの間に所在しています。

墳丘は現状で約全長280m、後円部径約174m、同高さ26m、くびれ部幅約26m、前方部先端幅174m、同高さ19mの規模を誇り、後円部頂部が前方部頂部より1mほど高くなっています。

墳丘形状は、三段築成になり、南西に向けた前方部の前緑が中央の少し突出した剣菱状をしており、周溝は確認されていません。

造山古墳のような墳丘全域を囲む楯型の外周溝も伴っていませんが、後円部には平地との間に幅約20mの犬走り状の平坦部が認められます。

これまでに、円筒埴輪や蓋・肩甲等の形象埴輪の破片が採取されており、明瞭な須恵質埴輪も含まれています。内部主体や副葬品出土の伝承は不明です。

この古墳は近隣地に共存性を示す古墳に欠け、造山古墳と少し形態が違うような気がしますが、それと同様に在地性の古墳群から離脱した独自性を持っていると認識されます。

●雨宮山古墳

古代の行政区画では備前国赤坂郡高月郷(赤磐市山陽町)に所在し、吉井川と旭川の中間の中級河川である砂川上流域の盆地の南西山麓に立地します。

所在地の背後に広がる低丘陵上には、弥生時代末期の墳丘墓を始めとして、5世紀半ば以前を中心期どする前方後円墳を含む小型古墳の一大群生地が広がっています。

占地状況は、在地性を示す古墳群の立地する丘陵部から離れ、平地状の山麓部に立地し、盆地の水田地帯に近接した内陸志向性そのものになります。

墳丘は、全長約192m、後円部径100m、同高さ23m、くびれ部幅約70m、前方部先端幅120m、同高さ23mの規模を誇り、前方部頂上が後円部頂上より1mほど高くなっています。

くびれ部両脇に造り出しを設けた三段築成になり、前方部が南東に向いています。この古墳は前方部全面側と後円部背後側で幅約40mの平面楯形の周溝を伴い、その外周に幅21m~28mの外周帯が設けており、現状では吉備地方中心地域において、畿内型の盾形滞水周濠を伴う唯一の古墳です。

これまで、この古墳に関する遺物はまったく不明で、埴輪の破片すら採取されていません。

一方、前方部先端側の外周帯外縁から約100mの位置に、この古墳の主軸延長上を占める全長約85mの帆立貝形古墳の「西もり山古墳」と、前方部の外周帯左へ南東約200mの位置に全長約100mの帆立貝形古墳の「廻り山古墳」、さらには後円部背後の外周帯に隣接する小型円墳と、3基の古墳が共存的展開に位置しています。

さて、吉備の大型前方後円墳の概要を実際に見学し、また、自分なりに検証してみましたが、史料等が希薄なため現在見ている姿と、当時の姿とはかなりのギャップがあるといえます。

総合的に考えて、この大型古墳の築造年代は、「造山古墳」が5世紀前半に、「作山古墳」が同中期ごろ、「雨宮山古墳」が同後期ごろと想定していいのではと感じています。

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■吉備の大型前方後円墳の展開

先に揚げた巨大墳や特大の大型墳は、少なくとも吉備中核域の前方後円墳の形成状況における比較検討と相対的位置づけが前提条件となるはずです。

吉備の大型前方後円墳は、現時点で20基が見つかっており、美作地域の1基を除いて、吉備地方南部中央の平野に集中しています。

また、20基の内には、帆立貝形古墳や未確定の5基が含まれており、厳密な大型前方後円墳の数は15基となり、南部中心地域に14基があり、吉備中核域に11基を数えます。

大型前方後円墳は全長165mの「金蔵山古墳」を最大とし、全長85mの「操山百9号墳」最小としています。

吉備中核域における大型前方後円墳の分布状況はこの域の中央を占める旭川下流の平野の左岸域に4基集まっている他は、全体に分散して所在し、巨大墳と特大墳を含めると、構成する平野のほぼ全部にいたる拡散的な築成状態をしていると感じます。

各築成状況は、小型の前方後円墳を伴う小型の円墳や方墳の在地的な古墳とは、一例を除くとまったく認められず、各自が独立的に所在する様子を表しているといえるでしょう。

しかし、完全に孤立したものを除くと、周辺地や立地条件を兼ね合わせて見ると、それらと完全に関係がないとは言えないような気がします。

こうした大型以上の前方後円墳の形成状況は、吉備地方の政治勢力の部族同盟としての体質を反映し、その頂点に君臨した盟主首長のこの地域における持ち回り的な継続、即ち部族同盟の有力構成部族の首長による盟主権の輪番制を物語っていると思われます。

■軍事王国、吉備の古墳世界

吉備中核域に展開する大型前方後円墳は、在地的な古墳群に埋没する中型以下の前方後円墳や、在地性そのものの小型の円墳・方墳との間に、隔絶性とまではいかないものの、社会的階層の上に成り立っていた階層上部の墳墓と評価されるでしょう。

しかし、この状況を定説化している部族同盟の盟主の権輪番制には、一概に同調できない部分もあります。

巨大墳の「造山古墳」や「作山古墳」、これらに次ぐ「両宮山古墳」についても、通説的には吉備全域的な部族同盟に君臨した首長の墓と解かれ、一部には首長の専制化や公権力の発生をこれらに読み取る観点もあります。

私自身が、古墳の部族同盟的解釈を少なからずも不定的な意見を持っているので、これらの古墳についても、畿内政権に対抗した吉備という地方の勢力の盟主首長墓とする見解は深く探らないでおきます。

造山古墳は、盾形周溝を欠落するとはいえ、墳丘形態や葬送形態が畿内の大王陵と同一性を示し、吉備としての自立性にまったく欠けています。

また墳丘規模は築造時点では全国最大規模であり、規模の最終的決断は、葬送や儀礼への参加者数そったものと考えてもおかしくはありません。

そうであったとすると、墳丘三段築成の各平坦部に参加者が1mに一人の割合で単列で立ち合いしたと仮定すると、周辺部だけで約2000人以上となり、頂部の平坦を加えると2500人を超える計算になります。

そして参加者を首長層と考えると、その人員数は到底吉備地方だけで動員できるものではなく、列島的見地から見ても、満たすことのできない数でしょう。

また、造山古墳前方部先端背後の古墳群の形成状況は、畿内の同時代の大王陵周辺に形成されている「倍塚」の古墳群に通じるところもあり、特に帆立貝形古墳の築造はそうした意図を反映するものと考えられます。

だからこそ、勝手な考えではありますが、この造山古墳の示す要因は、とてつもなく力の持った大王の墓ではないかと思うわけです。

作山古墳にしても同じで、古墳時代前半の巨大墳すべてにおいて、築造時点では列島内では最大規模を誇るものであり、そのことを可能にすることには、列島社会唯一の盟主、大王以外に考えられないのではと推測できます。

■まとめ

吉備の巨大墳を大王陵とする、ある意味めちゃくちゃな論理を展開してきました。今まで書きたくても書けなかった皇国観的な歴史論があって、多くの場合、語ることすらできなかったのが現状です。

また、史料等が少ない古墳時代のことであればこそ、色々な推論が思い浮かびます。どれが正しいとはいいがたく、すべてにおいて確定的ではないことを前提に論じています。

現代の人々が自由に立ち入りできる巨大墳はこの吉備地方にしかありません。それが歴史上何を意味するか、古代国家形成後の史論によって、抹殺せざるを得なかった史実も多く存在したと思います。

いまでも造山古墳と作山古墳の地は、吉備の反乱伝承の舞台に想定されています。この地域の動静は、重要遺跡が密集している割には史書に現れていません。

きっとそのことをしっているのは、この古墳に埋葬された人だけが知るものと言えるでしょう。

今日は最後までお読みいただきありがとうございました。(SORA2018事務局 ワカマツ)

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