出雲大社造営の謎と古代出雲朝廷

出雲大社造営の謎と古代出雲朝廷

こんにちは、ワカマツです。

日本有数のパワースポット、「出雲大社」はなぜ造営されたのか、いろいろな説がありますが、古代日本にはいくつかの大和王朝とは別に古代王国があったと推定できます。その中でもよく言われているのが、軍事王朝と言われた「吉備王朝」、そして宗教王国「出雲王朝」、この二つの巨大王朝がどのように大和政権と結びついて行ったのかを記していきます。その中でも今回は「出雲王朝」について詳しく記していきます。

少し長くなりますが、あくまでも史料と史書に基づいた私論であり、公的な論文ではありません。旅をしながら歴史好きな私が勝手にやっていることで、趣味を超える域ではないということをお伝えしておきます。興味のある方は読んでいただければと思います。

🔶タブーの解禁

出雲大社に間近い「荒神谷遺跡」から358本の青銅剣と青銅の矛16本および銅鐸6個が相次いで出土したので、その背景として「出雲朝廷」の規模が問題視せられてきましたが、出雲朝廷の規模がありきたりの地方政権とは大いに異なるものであったことは、日本一の規模を誇る「出雲大社」が古代から実在していたのだから、早くからわかっていたことでもあります。

それにも関わらず、この出雲大社に象徴される古代出雲朝廷の実体追究にみるべきものがなかったのは、それを冷厳な史観によって追究することが、大和朝廷中心の皇国史観にとって、プラスではなくてむしろマイナスだと信じられてきたからにほかなりません。

やはり神代史に深入りすると、歴史研究に対して挫折する可能性を含んでいるという事実があり、思うように語れなかったという日本独自の皇国観が邪魔をしていたところがあります。

現代に至っては古代史の研究も自由にできますが、その流れの中で来ている日本の歴史研究に対する観念すべてが自由とは言えず、とかくいろいろな流れの中で閉鎖的に作用してきたのが現状だと感じています。

今回はここで大和朝廷以前の「葦原の中つ国(あしはらのなかつくに)」、別名「細戈千足国(くわしほこちたるのくに)」の文化遺産とも言うべき「出雲大社」について、少し突っ込んで掘り下げてみたいと思います。

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🔶国譲りの条件と政権の替わった年代

第一は出雲大社創建の動機ですが、これは言うまでもなく出雲朝廷の主宰者たる「大国主命」と高天原政権を代表する「建御雷神(たけみかづちのかみ)」との国譲り談判の結果であって、その創建の条件を『日本書紀』記載の「高木の神」の勅(みことのり)によって示せば次のとおりです。

夫(そ)れ汝(な)が治(しら)す顕露(あらは)の事は、是吾孫(わがまご)治すへし。汝は以て神事を治すべし。また汝が住むべき天日隅宮(あめのひすみのみや)は、今供造(つく)りまつらむこと、即ち千尋(ちひろ)の縄(たくなわ)を以て、結(ゆ)ひて百八十紐(ゆひ)にせむ。
その宮を造る制は、柱は高く大(ふと)し。板は広く厚くせむ。叉田供佃(つく)らむ。叉汝が往来(かよ)ひて海に遊ぶ具(そなえ)の為には、高橋・浮橋及び天鳥船、其供造(つく)りまつらむ。叉天の安河に、亦打橋造らむ。叉百八十縫の白楯供造らむ。叉汝が祭祀を主(つかさど)らむは、天穂日命(あめのほひのみこと)、是なり

これによると、天孫族が出雲朝廷の政権を継承する代わりに、天の日隅宮を創建して提供することになっていますが、『古事記』をみると話は次のとおりまったく逆になっています。

この葦原の中つ国は天つ神のみ子の命のままに献(たてまつ)りぬ。ただ僕(あ)が住所(すみか)は天つ神のみ子の天(あま)つ日継(ひつぎ)知らしめさむ。

富足(とだる)の天の御巣の如、底つ石根に宮柱太しり、高天の原に氷木(ひぎ)高しりて治めたまはば、僕(あ)は百足(ももた)らず八十(やそ)クマデに隠(かく)りて侍(さもら)はむ。(略)

出雲国の多芸志(たぎし)の小汀(おばま)に天御舎(みや)を造りて、水戸(みなと)の神の孫櫛八玉(くしゃたま)の神膳夫(かしわで)となりて、天つ御饗(みあえ)献る(略)

これによると、出雲朝廷側が大和朝廷側に対して天皇と同じ宮殿を造って提供するように要求しています。前者はどちらかといえば恩恵ですが、後者は明らかに要求です。

ここは大事なところであって、あとでこの相違から問題が生じることになりますが、いずれにしても国譲りをきっかけとして、宮殿まがいの大社建築の天の日隅宮の創建が決まったということです。

問題はこれがいつの時代のことかという点であります。国譲りの代償として出雲大社の創建が決まったのは前記のとうりですが、この話がおこなわれた年代について、定説らしきものがいまだに見当たらないのが現状です。

それは記紀の記載が不確実な伝承の寄せ集めであって、実年代に関する考証がおびたたしく不十分だからにほかなりません。

しかし内外の古文献を比較対照して時代考証をおこなってみると、国譲りのことは、倭の五王の中国への働きかけが始まった5世紀の初めことと想定されます。

それは倭王が東晋の安帝に朝貢したのが413年であることが『晋書』に記載されているからで、この時代の倭王が国譲り後の大和朝廷を代表する王者だったことはほぼ確かだったからです。

この国譲りついて神代史をくわしく研究した「津田左右吉」氏は、これは出雲勢力の大和朝廷に対する抵抗と従属とについてのおぼろげな言い伝えをまとめたもので、それは比較的新しい時代のことであろうと語っています。

私もこれについては依存はないのですが、これをさらに具体的に言えば国譲りは大国主命と応神天皇との間でおこなわれた政治的取引だったのではないかと思います。

応神天皇は仲哀天皇の皇子で、その御母は神功皇后だとされていますが、『記紀』によるとこの天皇は筑紫宮で誕生し、神功皇后の没後即位して東征を志し、大和の軽島豊明宮(かるしまのとよあきらのみや)いまの奈良県橿原市と、難波の大隅宮(おおすみみや)いまの大阪市東淀川市を皇都としたことからになっています。

こうしたことから神武天皇の説話の主人公は応神天皇だろうとする見方もありますが、違う記事でも少し話したように御母である神功皇后の新羅征討は、事実無根の神話に過ぎないという説が定説であるがゆえに私泥観が多いのも多々であります。

しかし、神代の伝承をすべて神話の世界で事実無根にしてしまうのは少し暴投であって、裏付けすることができないことには確説にはどうしてもならないのですが、事実無根とはおもえないことが多いのも事実でもあるということです。

それは、大和朝廷と妥協する以前の出雲朝廷は新羅の分国視せられていたことが、中国の関係の史書などによって明らかにされているからです。

したがって、このような見方をすると、出雲朝廷との度重なる和平交渉に失敗して使節まで斬殺されてしまった大和朝廷勢力が、その門罪のための兵団を出雲に派遣したことは有り得ることであり、これが新羅征討の神話に置き換えられたこともありゆると考えるからです。

この点から考えることは、大和と難波の宮殿はバラックに毛の生えたようなもので、ある意味出雲を攻めるための前線基地みたいなものかもしれません。

だからこそ、この天皇の時代に、出雲大社のように壮大な建物を造営して、これを寄進することなどできるはずもありません。だとすると、国譲りの直後、5世紀の初頭に天の日隅宮(出雲大社)が造営されたとしても、それは決して壮大な神殿ではなかったということになると思います。

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🔶神殿の大改築と規模の推移

ところが「危険過ぎれば神忘れる」といい、また「咽喉元過ぎれば熱さ忘れる」のたとえのとうり時間の経過と共に感謝の念は薄れるものです。

そうした点から言うと東遷した大和朝廷の基盤が固まって、仮の皇居が本式の壮大な皇居に改築または造営されたからといって、出雲の日隅宮を新宮殿と同じ規模のものにできるわけがありません。

これは明らかに国譲りの時の協定違反だから、旧出雲勢力は面白くない。そうなると旧出雲朝廷勢力の多くが全国各地の豪族であって、大和朝廷勢力はその上に君臨しているだけだから、放っておけば重大な事態に直面することになりかねない。

『古事記』は、この微妙な問題を取り上げ、自分の皇子が言語障害児だったために悩んでいた垂仁天皇の夢枕に立った大国主命がこう告げたとしています。

わが宮を天皇の御舎(みや)のごと修理(かた)めたまはば、御子かならずま言(ごと)とはむ・・・・・と、かくさとしたまふ時に、太ト(まじない)に占(うらな)へて“いずれの神の御心(魂)ぞ”と求むるに、ここに祟りたもふは出雲の大神の御心なり、故、その御子をその大神の宮を拝(おろが)ましめに遺はし・・・・・(下略)

そこで天皇は、皇太子に菟上(うなかみ)王を添えて、出雲に下向せしめ「出雲のいはくまの曾宮(そのみや)」を拝せしめたところ、たちまち皇子が口をきくようになったといいます。

「故(かれ)、天皇歓(よろこ)ばして、すなわち菟上王(うなかみ)をかえして神宮を造らせしめたまひき」

これはそれまで「いはくまの曾宮」と呼ばれていた神社を新造して出雲神宮としたということですが、この夢枕の件は説話に過ぎません。

では、実際の神宮新造のねらいは何であったかと言うと、それはこれにより旧出雲朝廷グループの離反を防ぐのが真のねらいであった見るべきだと思います。

しかし、それはそれとして垂仁天皇は第11代天皇ですが、応神天皇は第15代天皇であって、この間には4代の隔りがあります。

だから応神天皇時代に国譲りがあり、その後に大国主命の神殿が誕生し、それが神夢によって大改築されたとなると、これは垂仁天皇の時代ではなくて、応神天皇以後の時代でなければ、年代的につじつまが合わないですね。

そのような点から言ってこの曾宮の神宮の切り替えは6世紀初頭ではないかと思います。

仮にそうだとすると、安康天皇(第20代)、雄略天皇(第21代)のころとなりますが、この時代は国力が充実して、対外積極政策が推進されていた時代です。

例えば、第21代雄略天皇(武)は、その実力が認められて、南宋の順帝から「使持節都督・倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓・六国諸軍事安東大将軍」の位を与えられています。

したがって、出雲の曾宮(天の日隅宮)を、大きくて立派な出雲神宮に一新するくらいの余力はあったと考えられます。しかし、神殿の規模がどの程度のものだったかは一切不明です。

出雲大社の略年譜を見ると、斉明天皇5年(659)に、天皇の勅(みことのり)によって、出雲大社の神殿が大改修され、この時から神代の様式が改められ、変わって現代に見られるような大社造りの正殿式が採用されたとあります。

その正殿式というのは、高さ七丈(約25m)以上と定められ、七丈以下のものは仮殿式といったとあります。ここで注目すべきは、この神殿の高さ七丈以上とするという定めです。

なぜならば、古伝によると古代の神殿は三十二丈であり、それが中古には十六丈に縮まり、それがさらに八丈にまで縮まったとする伝承があるからです。ここで少し神殿の規模について考えてみます。

天禄元年(970)の『口遊』(くちあそび)には「雲太、和二、京三」の記載があります。この「雲太」は出雲国の「城築(きづき)明神殿」、「和二」は大和国の「東大寺大仏殿」、「京三」は京都の「大極殿」のことですが、これによると平安時代の出雲(城築)大明神の神殿は、奈良東大寺の大仏殿より高大であったことがわかります。

ところが、それが禍して、この神殿はその後度々倒壊しています。判明しているところだけを拾っても、その倒壊は長元4年(1031)、康平4年(1062)、天仁4年(1112)、保延7年(1142)、承安2年(1172)の5回にわたっています。

このことから言えるのは、中・古代の出雲大社が柱の長い異常な形式の神殿であったということです。そのために鎌倉時代に入ってから神殿の規模が縮小されましたが、それでもひょろ長く、そして高い形は残っていました。

それは当時の絵図でによってわかっていますが、寛文7年(1667)の造営で、規模をやや大きくして総高八丈とし、これと同じ規模で延享元年(1744)に造営したのが、いまの本殿です。

このように神殿の規模や様式には、さまざまな変化がありましたが、古代の神殿の実際の高さが最高三十二丈という途方もない巨大神殿であったとする伝承の真偽は確かめようもありません。

倭の五王のトップである「仁徳天皇」は5世紀初頭の王者とみられますが、「延喜式」によると和泉国大鳥郡にあるこの大王の御陵(みささぎ)は、東西・南北各八町という巨大古墳です。

実際はこれが本当に「仁徳天皇陵」かは定かではありませんが、この時代にこれだけの巨大古墳を造れる技術力と経済力を持っていた大和朝廷が、旧出雲勢力を引き付ける戦略的手段として巨大な出雲大社を創建した可能性は大いにあると感じています。

秦の始皇帝は紀元前200年代の人ですが、この人の手で史上最大規模の「万里の長城」が大増築され、また1万人の収容力を持った大宮殿の「阿房宮」(あほうきゅう)も創建しました。その遺跡は、いま発掘途上にあり、世界はその雄大な規模に驚いています。

5・6世紀の倭は中国の「宋」・「斉」・「梁」・「晋」、その他諸国と活発に接触していました。その結果、この時代に中国・朝鮮の各国から相次いで儒教・易・暦・医・天文・機織の技術が伝来しています。これと並行して、土木・建築の技術が伝来してきました。

出雲大社がいまよりはるかに巨大なものであったとする考え方は、古伝の伝承だけではなく、事実上かなり高い確率でありゆることだと思います。

🔶神殿の三様式

そこで古代の神殿建築についてもう少し掘り下げてみたいと思います。神社の神殿には3つの形があります。

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■大社造り

神社建築最古の様式で、切妻造り・妻入り。桁行二間、梁行二間で、入り口は正面に向かって右に寄って設けられています。神殿内には中心柱があり、向かって右側の奥に神体を側面向きに安置します。

出雲大社が本殿がその代表であつて、これを「おおやしろつくり」と言います。昔の国家神道時代には、大・中・小に分けて、第一位の神社を「大社」と言いました。

■神明造り

神社本殿形式のひとつで、切妻造り・平入りで、屋根に反りのないものを言います。両妻棟下に各遊撃柱、棟持柱を有し、その柱は堀立式とし、千木は屋根を貫通して高く聳えます。また、茅葺屋根の頂に左右から泥障板(あおりいた)を加え、樋貫をもってつなぎ、その上に甲板をかぶし、その上に鰹木(おつおぎ)を乗せます。伊勢神宮のものをこの代表としています。

■吉備津造り

これも神社本殿形式のひとつであって、代表的なものが岡山県にある「吉備津神社」の本殿形式です。内々陣・内陣の外に中陣・外陣をめぐらし、屋根を翼入り母屋造りとしたものです。

そこで、この中の大社造りについていうと、古代の出雲大社は十六丈から三十二丈もあったと記しています。問題はその際の神殿の格好はどんなものであったかということです。

これについては諸説がありますが、鎌倉時代の「出雲大社乃近郷絵図」にのっている大社の神殿図をみると、それは「吉備真備の入唐絵図」に描かれた神殿図に似ています。

この人物は吉備国の豪族の出であり、その入唐は716年でした。帰朝後、彼は右大臣まで出世しましたが、おそらくこの入唐絵図は、彼が在唐中当時の出雲大社や吉備津神社の模様を絵図で示し、これを中国の画家が描き上げたものではないかと思います。

そうだとすると、背の高い出雲大社は、下駄ばき神殿だったということになります。でなければ十六丈とか三十二丈の神殿など考えられないからです。

ではなぜ倒壊の危機を冒してまで、こんなに丈の高い大社造りをしたのでしょうか。それはこれがいまの灯台または望楼の役割を果たすことを期待していたからかもしれません。

視認方式で海上を航行する際、高山がなければ何かそれに代わる目標があってほしいことになります。だとすると簸川平野の一角に摩天楼まがいの出雲大社が聳えていると、確実に稲佐浜目指して接岸できることになります。

新羅の港を出た船が対馬暖流に乗って北上すると、島根半島の根っこに突き当たります。出雲が古代日本の大陸向け窓口となったのは、このような交通上の利点があったからだと思います。

そうすると出雲大社が無理をしてでも丈の高い神殿であることが望ましかったのですが、中世に入ると構造船が発達して、大陸との往来は北九州と釜山航路が主となり、それだけ出雲の重要性が低下したと考えられます。だから大社の神殿も徐々に小さくなっていったのでしょう。

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🔶出雲大社の神徳

出雲大社の社号は、時代の推移と共に変わっていきました。その社号の主なところをひろってみると次のようになります。

「天の日隅宮」を最初として、「出雲大神宮」、「巌神之宮(いわがみのみや)」、「石くま之曾宮(いわくまのそのみや)」、「天之日栖宮(あまのひすのみや)」、「出雲宮」、「城築大明神(きづきだいみょうじん)」、「杵築大社」、「杵築宮」、「天之御舎(あめのみあらか)」、「所造天下大神宮(あめのしたつくらししおおかみのみや)」、「大穴牟遅神社(おおあなむちじんじゃ)」、などと数が多いですね。

しかし呼び名は変わっても中身は変らないのだから、この呼び名にいちいち理由をつけることもないわけですが、「神宮」と「神社」の区別には若干こだわりたいところがあります。

それは、神宮は宮殿につながり、神社は氏(うじ)の神につながると思えるからです。しかし、この祭神には大国主神としての性格と氏族神としての二重の性格があるのだから、そのどれであってもよいということになります。

したがって、「天照大神」の「伊勢神宮」よりも、「大国主命」の「出雲大社」は格が低いなどということはあり得ません。

次に、肝心かなめの祭神についてスポットをあててみます。神様にもいろいろとありますが、この神様ほど神名の多い神は絶対にいません。ということは、この神の活動範囲がそれだけ広いということになります。

『古事記』・『日本書紀』・『古語拾遺』・『出雲国造神賀詞』・『大倭神社注進状』、その他に見える神名中の主なところを示すと次のようになります。

「大国主大神」・「 大己貴神(おおなむち)」・「顕国魂神(うつしくにたま)」・「大国魂神(おおくにたま)」・「大物主神(おおものぬし)」・「大物主奇甕魂神(おおものぬしくしみかたま)」・「八千鉾神(やちほこ)」・「大地主神(おおぢぬし)」・「葦原色許男神(あしはらのしこお)」・「三穂津彦神(みほつひこ)」・「伊和大神(いわ)」・「広矛魂神(ひろほこだま)」・「兵主神(ひょうしゅ)」・「所造天下大神(あめのしたつくらしし)」・「国造之大神(くにづくり)」・「大穴牟遅之神(おおあなむち)」・「幽冥事知看大神(かくりごとしろしめす)」。

この多神名については、前記のとうり活動範囲が広かったということもありますが、もうひとつは「素戔嗚命(すさのおのみこと)」と「稲田比売」の間にうまれた「大己貴神」の末裔に、国譲りするまでのあいだに付けられた神名であって、特定の一神の呼び名ではないとする説です。

したがって、複数の神が出雲大社の主祭神とみていいのではないかと思います。この中の二つの神名由来について、少し触れていきます。

■八千矛神

『古事記』によると、諸々の天つ神が「伊邪那岐(いざなぎ)」及び「伊邪那美(いざなみ)」の二神に対して、天の沼矛(ぬほこ)を賜って、この漂える国を修理(おさ)め固めなせと詔(みことのり)された。

その結果誕生したのが「大八州国(おおやしま)」であり、別名「細戈千足国(くわしほこちたるのくに)」でした。両神のいとし子である「素戔嗚命」が、これを継承して「葦原の中つ国」を造り、これを拡大強化したのが「所造天下大神」の「大己貴神」でした。

これは、この日本列島における国造りが天の沼矛に象徴される青銅器文化時代のことだったということであり、大己貴神の別名が「八千矛神」というのは、この神が青銅器文化の頂点に立った神だったからということになると思います。

明治初年刊の『出雲問答』は、このことをこういっています。

「八千矛とは多くの矛を持ち給へる義なり。そのわけは天下を経営し給う時に広矛を杖として邪神をはらい平げましし因って八千矛神という由大倭神社注進状にみえたり」

島根半島の西部は青銅の産地でした。これを開発し、神名火山(かんなびやま)の麓で青銅製の剣・矛・銅鐸等の武器や祭器はもちろん、食具や農具まで作ったのは「スサノオ」を頂点とする「出雲族」であったと思います。

その出雲族を率いた大己貴神が前記のとおり青銅製の八千矛を杖として邪神の砕き平定しものだと考えるし、伝説だけではなく、事実であったと思えるのは、最初に記した「荒神谷遺跡」から発掘された大量の青銅器が物語っています。

この出雲大社が青銅文化のシンボルであることは、青銅製の大鳥居によって早くから認識されていました。毛利大膳大夫大江綱広が、この高さ5.8m、幅4.3mの日本一の大青銅鳥居を寄進したのは、寛文6年のことでしたが、これを「島木型明神鳥居」といいます。

このように見ていくと、荒神谷からの青銅器の大量出土は、決して偶然ではなかったと思えます。

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■大国主および所造天下大神

『出雲問答』はこう述べています。

「大国主は天下の主という意なり。一国の領主を国主という。その国主の主にたつ神を大国主の神といふなり。また所造天下大神または国作坐大神(くにつくりまししおおかみ)といふは、天下を経営(つくり)給へる御功徳(おいさを)により称え申すみ名なり」

これによってわかるように、出雲大社の主祭神大国主大神は青銅文化のシンボルであり、大八州国の最初の統一王朝の経営神であったと思われます。

これに対して天孫族(大和朝廷)は鉄器文化のチャンピオンであったということです。大国主命が、次の時代は鉄器文化の時代であることを予見して、葦原の中つ国を天孫族に譲り、政界を引退して、「天の日隅宮」にこもり、日本列島の一元化を軌道に乗せ、中国や朝鮮半島の強国による植民地化を防いだとも考えてもいいのではと思い、この私の史論を終わりにさせていただきます。

最後までお読みいただきありがとうございました。古代の歴史を考えるといろいろな仮説が考えられて、尽きることがありません。歴史というものは考えれば考えるほど本当におもしろい!

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