【箱根温泉】歴史に残る箱根七湯、湯けむり紀行

【箱根温泉】歴史に残る箱根七湯、湯けむり紀行

こんにちは、ワカマツです。

今回は箱根駅伝でもおなじみの「箱根温泉郷」を記していきます。今年の正月に箱根駅伝を見ていて、「そういえば箱根にも3回ほど行ったな」と思い出し、色々と資料をまさぐっていると、各温泉の調べた資料が見つかりました。

近頃では忙しくて、気ままな旅もできないまま、ネタ薄になってきているので、それをまかなう意味でも少し記していきますね。

箱根温泉をネット(グーグル)で検索すると、旅館と日帰り温泉のことばかりで、当然といえば当然でしょうが、特に箱根温泉については、今から書く記事みたいなものはほとんどないので、書く気になった次第です。まあ、またあまり受けないとは思いますが、御容赦ください。

興味がある方だけ読んでいただければと思います。

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🔶箱根七湯の湯けむり紀行

■箱根温泉郷の歴史と概要

箱根には湯元ごとに色々な温泉発見伝説が残されています。正直、多すぎてどれが本当なのかよくわからなくなってきますね。それほど有名な温泉地ですから、伝説・秘話は星の数ほど残されているということですね。

さて、この箱根温泉郷の歴史は古く、まずは、はじまりとして、天平10年(736)釈定浄坊(しゃくじょうじょうぼう)によって、「湯本の湯」が発見されたのを皮切りに、源頼朝の家臣である木賀吉成(きがよしなり)が開いた「木賀の湯」ですね。

その後、温泉湯屋らしきものが出現したのは、江戸時代の寛永年間(1624~1644)湯本に2軒の宿屋がつくられたと聞いています。

そして元禄年間(1688~1704)には、伊勢・富士・大山詣での講中の泊まり客や文人らが多くなり、湯本塔ノ沢宮ノ下堂ガ島底倉木賀芦ノ湯の七湯がよく知られ、後に「箱根七湯」と呼ばれるようになりました。

現在では、この「箱根七湯」に加え、大平台宮城野仙石原(上湯・下湯)二ノ平強羅(どうら)小涌谷姥子芦ノ湖湯の花沢と開けて「箱根十六湯」ともいわれています。

しかし、今回は文化8年(1811)に書かれた『七湯枝折』(しおり)「全10巻」に従って昔ながらの歴史を持つ「七湯」を歩いてみますね。

■湯本温泉

東京から小田急電鉄で約1時間半で到着してしまう「湯本温泉」は、箱根温泉郷の表玄関にあたり、早川と須雲川の合流点にあります。

上記にも書いたように、天平10年(736)釈定浄坊(しゃくじょうじょうぼう)によって発見された箱根温泉郷の中でもっとも古い歴史をもっています。

湯本温泉は旅館やホテルが約50軒ほどあり、箱根の中では一番大きな温泉街ですね。今では、鉄筋造りの大きなホテルが目立ちますが、中でも早川畔の「福住」は、創業寛永2年(1625)という湯本温泉の中で最も古い旅館です。

また、平成14年には国の重要文化財にも指定されており、擬洋建築として、明治の面影を残す貴重な旅館ですね。

※晩翠楼福住公式サイト

この温泉の泉質は単純泉、含石膏弱食塩泉で神経痛やリューマチなどに効能があるという。駅前から国道1号線の早川沿いがけっこうにぎやかで、お土産屋さんやらカフェ、飲食店が軒を並べています。

駅前から早川の橋を渡ると湯本富士屋ホテルがあり、その東側の町役場内にある「町立郷土資料館」には、「箱根八里」「湯治の道」など箱根の歴史資料が多く展示されています。興味のある方は行かれてみてください。

資料館から箱根旧道に出て、元箱根方面に向かうと、北条早雲ら一門の菩提寺である「早雲寺」があります。早雲の子である氏綱が、大永元年(1521)に父の遺命によって建立した寺ですが、豊臣秀吉の小田原攻めで北条氏が滅亡すると寺も焼かれました。

後に再建されて、境内には北条五代の墓のほか、旅に生き旅に死んだ室町時代の連歌師「飯尾宗祇」の供養塔や句碑、戊辰戦争碑などがあり、本堂裏の北条幻庵作の枯山水庭園が美しい。

早雲寺山門を出てさらに旧道を進むと、早雲寺末寺の正眼寺がある。境内の裏山に曽我堂があり、曽我兄弟といわれる地蔵菩薩木像が安置されています。

さらに仇討祈願で参籠していた曽我五郎が、力だめしに突いたという槍突石や兄弟の供養塔などもあります。

さらに旧道を進むと、一里塚跡碑があり、右折して須雲川に出ると奥湯本温泉で、須雲川に架かる橋を吊り橋を渡ったところに、天成園という旅館があり、その庭内に「玉簾の滝」があります。

落差は約8メートル、幅約11メートルで、玉すだれかけたように、水が落ちてくることから名づけられたと聞きます。ホテルの敷地内にあることが珍しく、さらにそこではカモやアヒルも飼われています。餌もやることができ、ちょっと変わった癒しの滝見物ができますよ。

吊り橋を渡って須雲川のせせらぎを聞きながら進むと、湯本温泉の中心街に戻っていく。ゆっくりと温泉に浸かり、早川や須雲川のせせらぎの音を聞きながらの歴史散策はまた格別です。

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■塔ノ沢温泉

箱根湯本駅から箱根登山鉄道の次の駅が塔ノ沢ですね。歩いても国道1号線で約15分もあればついてしまう。この国道がかつて「七湯道」とか「湯の道」とも呼ばれ、この沿線に「箱根七湯」が点在していたのです。

早川に架かる「旭橋」を渡りしばらく進むと、右側に「湯坂道入口」の標識が立っている。この道が『十六夜日記』の著者阿仏尼(あぶつに)が道を急ぐために、足利山は道が遠いので、「岩が根高く重なりて駒もなづむはかり」の箱根山をかこうじて超えた、と記しているところですね。

函嶺洞門を抜けたすぐそばにバス停「塔ノ沢」があり、ここに小屋掛けの椎の木跡がある。伝説の躄勝五郎(いざり)と初花夫婦が、宿敵佐藤兄弟を討とうと、乞食にに身を変え、椎の木に小屋掛けしてチャンスを待ち、ついに本懐をとげたというところです。

塔ノ沢は湯坂山と塔ノ峰が早川に切れ込む、風光明媚な温泉場です。この温泉へは、水戸光圀をはじめ多くの大名や旗本、また江戸の豪商たちが来湯したと聞いています。

水戸光圀に伴われてここを訪れた朱舜水(しゅしゅんすい)は「唐の玄宗皇帝が、楊貴妃と入ったという驪山(りざん)の湯よりも優れているので勝驪山(しょうりざん)と呼ぶ」と塔ノ沢の湯を褒めたたえたと言います。

さらに嘉永年間(1848~1853)に、安藤広重がここを訪れ、広重が描く箱根名所の浮世絵が、江戸の人たちに箱根に対する憧れを一層高めたという。

温泉街の中央、早川沿いに大正時代に建造された国内でも数少ない木造による高層建築の、「環翠楼」という旅館があります。国の有形文化財にも指定されている数少ない数奇屋造りになっています。

 

ここに明治10年の夏、徳川家茂の未亡人の「静寛院宮(和宮)」が病気療養のために来湯したが、滞在わずか1ヶ月の9月2日に病死した。その死を悼んで勝海舟が詠んだ、「月影のかかるはしともしらすしてよをいとやすくゆく人やたれ」の歌碑が庭内にあります。

また、伊藤博文も塔ノ沢が気に入って、しばしばこの「環翠楼」を訪れている。さらに島崎藤村の『』の主人公らが訪れたことが記されている。

塔ノ沢温泉の北方約1キロの塔ノ峰の南腹に「阿弥陀寺」があります。この寺は歌舞伎の『箱根霊験躄仇討』の貞女初花が、夫の躄勝五郎に「ここらあたりは山家ゆえ、紅葉があるのに雪が降る」と語ったところだという。

坂道の両脇にたくさんの石仏が並び、境内のあじさいが特に有名で、別名「アジサイ寺」とも呼ばれている。

■宮ノ下温泉

塔ノ沢駅から箱根登山鉄道に乗り、宮ノ下温泉に向かいます。登山鉄道は途中、早川の河原まで43メートルの出山鉄橋を渡り、スイッチバックをして、大平台駅につきます。そこからさらにスイッチバックを繰り返し、海抜448メートルの宮ノ下駅につきます。

宮ノ下温泉は浅間山の北麓、早川溪谷左岸上にある温泉で、宮城野方面に延びる国道138号と、小涌谷・元箱根方面に向かう国道1号線の分岐点にあたり、箱根温泉郷の中心地です。

温泉街の中央に建つ日本最初の純洋式ホテル「富士屋ホテル」の起源は、南北朝期の武将、新田義貞の子孫義則が木賀彦六を頼ってここに潜居したのを、関東官領方の安藤隼人介が義則を討ち取り、その功績により底倉を与えられ、その子孫が湯屋「藤屋」を建てた時からだという。

その後、明治11年にアメリカ帰りの山口仙之助が「文明開化」の潮流に乗って、「藤屋」を買収して、洋風の「富士屋ホテルとし、外国人専門に開業しました。明治天皇、貞明后妃が宿泊したという。

2001年に廃業した幻の旅館「奈良屋」、ご存知の方も多いと思いますが、箱根登山鉄道の駅の近くにあったと聞いています。

当時は、15000坪の庭園をもつ旅館としても有名で、この旅館の温泉「三日月の湯」は明治初期のドイツ人、マルチンによって、泉質は箱根山中一と折り紙がつけられていたといいます。

「富士屋ホテル」と並び横浜港開港後は、外国人客の奪い合いも多々あったそうです。現在は「NARAYA CAFE」として存続しています。

古くから高級避暑地として有名だった宮ノ下温泉には、外国人客が多く、温泉街のあちこちに外国人向けの横文字看板の骨董品店が立ち並び、歴史の古いわりには、ハイカラだったことがわかりますね。

国道1号線より一段高いところに産土神(うぶすま)で櫛御気媛命を祀る熊野神社があり、宮ノ下の地名は、この神社の下にあるところからなずけられたと聞きます。春には早川溪谷の北岸にそびえる明星ヶ岳にさく山桜が特に美しい。

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■堂ケ島温泉

残念ながら現在は旅館・温泉施設は存在しない。過去には2件の旅館があったと聞いています。ケーブルカーとロープウェイと、それぞれ自家用の設備をもってお客さんを運んでいました。宿泊者以外は乗れずけっこうレアな乗り物だったと聞きます。

話によればこの2件の宿は、宮下温泉の旅館「奈良屋」があった手前から、深く切れ込む早川溪谷へ向かって約10分ぐらい下っていくと谷底に、存在したと聞きます。

宿は緑に囲まれていて、新緑・あじさい・紅葉の季節は特によく、箱根温泉郷の中では一番静寂な温泉場で、新婚旅行向きの別天地であったそうです。

現在はこの渓谷は堂ヶ島渓谷遊歩道が整備されていて、約1.5キロぐらいの道程は、自然の美しさを堪能できる静かな景勝地です。

この「堂ヶ島温泉」はその昔、臨済宗の名僧夢窓国師(むそうこくし)が草庵を結び、温泉を開いたと伝えられています。早川に架かる橋を渡った対岸に草庵跡があり、お堂には仏像が安置されています。

堂ヶ島温泉の泉質は単純泉、弱食塩泉で胃腸病・リュウマチ・神経痛・婦人病などに効能があったという。

■底倉温泉

底倉温泉」へは、堂ヶ島遊歩道沿いに行けますが、車の場合は宮ノ下の信号を国道138号線に進み、蛇骨川(じゃこつがわ)架かる八千代橋を渡ったところですね。正直、この辺の境というのがわかりずらいですが、源泉と開湯によって分かれているのでしょうが、始めて来訪した人にとってはやはりわかりずらいですね。

さて、この蛇骨川の名は、温泉に含まれている桂華(けいか)が沈殿して層をなし、それが蛇の骨に似ているところからつけられたといわれています。現在は、宿が1軒のみ営業しています。

小さな溪谷美を見せる蛇骨川に架かる八千代橋付近から上流へ向かって左岸を登って対岸を見下ろすと、注連縄を張った「太閣石風呂」が見えます。ただ、岩肌に名前が書いた看板があるだけで、湯気が上がっているわけでもないので、少し物足りなさを感じますね。

天正18年(1590)に豊臣秀吉が小田原征伐の際に、将兵の労をねぎらうためにつくったと聞きます。

また、南北朝時代、足利氏を討って南朝の再興を計ろうとした新田義隆が破れて、箱根山中に逃れて、傷の手当のためにこの石風呂に入浴中に追手に見つかり、斬り殺されたところと伝えられています。

話を聞いてみると、この石風呂は今から約35年前ぐらいまでは、少しだが湯気を出していたらしいですね。蛇骨川に湧き出す自然の温泉を利用したもの見たいで、その昔は豊富に湧き出していたとのことです。

ただの水たまりしか見えないかもしれないが、現在もすこしだが湧き出ているとのことです。

この湯は弱食塩泉で、外傷や痔に特効があるといわれており、現在は閉鎖されている旅館「つたや」に伝わっていた『七湯の枝折』(箱根町立郷土資料館展示)の絵巻物にも、底倉の湯で痔の治療を受けている人の姿がユーモラスに描かれています。

さて、話は変わりますが、「箱根彫刻の森美術館」というのがあります。箱根登山鉄道でも駅名としてあるので、わかると思いますが、ここは、「恋人の聖地」として認定されていますね。

正直、行ったことないので美術館の中がどうなっているかはわかりませんが、なぜ美術館が「恋人の聖地」に認定されているかは不明です。

ここは野外彫刻が多いときいています。ただ、制限がいろいろとあり、基本はこういった作品類は触れないと聞いています。もちろん入場するにはお金がかかるので個人判断ですね。

箱根彫刻の森美術館ホームページ

■木賀温泉

底倉温泉から国道138号線を進むとすぐに木賀温泉に入って行きます。源頼朝の家臣木賀吉成が開いたという古い歴史を持つ温泉で、地元の方の話によると、昔から宮ノ下・底倉温泉と並び称されて栄えたが、早川の度々の氾濫に見舞われたそうです。

そのおかげで、いまはわずか3軒の旅館しかない小さな温泉場になってしまったそうです。

江戸時代には子宝に恵まれる湯として知られ、江戸城大奥にも献上されたという話が残っています。泉質は単純泉で、神経痛・リュウマチ・皮膚病・婦人病・胃腸病などにも効能があると聞きます。

明治初年、陸軍教官として来日したフランス人のルポン将軍が、この温泉郷を好んで来湯し、また、作家の川崎長太郎の作品や、山本周五郎の『虚空遍歴』にもえがかれています。

温泉郷の流れる早川は、別名「木賀溪谷」と呼ばれ、見事な渓谷を見せてくれます。やはり一番いいのは紅葉の時期でしょう。

■芦之湯温泉

小涌谷と元箱根を結ぶ国道1号線のほぼ中間に位置する「芦之湯温泉」は標高890メートルの高所にあり、夏でも涼しい避暑地として長期滞在のお客が多いと聞きます。

「芦之湯温泉」は、鎌倉中期の歌人「飛鳥井雅有」が弘安3年(1280)関東下向の折に記した旅日記『春の深山路』の箱根越えの一節に、「あしのうみのゆとて温泉もあり、いかさまにもふしぎなり」と書かれているところから見れば、すでに鎌倉中期には湯治場であったと思われます。

その後、「芦之湯温泉」が湯治場としての装いを整えたのは、寛文年間(1661~1673)で、その当時は6軒の湯宿があったと記されています。

「箱根七湯」中の最高地に位置する芦之湯の「硫黄泉」は、七湯中随一の効能があるといわれ、暑さを避けて来湯する江戸庶民でにぎわったと聞きます。

さらに化政期(1804~1824)には、江戸の文人墨客が芦之湯の「東光庵」に集まり、碁・将棋に興じ作詩や句会をたのしんでいます。

また、賀茂真淵本居宣長清水浜臣(はまおみ)らの国学者もこの庵を訪れています。

芦之湯の隅に老杉が茂る東光庵跡があり、数々の句碑や歌碑が立ち並び、当時の面影を伝えています。

また、明治5年8月、ここを訪れたフランス人法律家ブスケ一行は、男女が混浴する姿を見て驚いたが、皮膚病は伝染しないということが解り、共同風呂に入った、と『日本見聞記』に書かれています。

芦之湯温泉の旅館「松坂屋」は、寛文2年の創業という古い歴史を持ち、『新編相模風土記稿』には「芦の湯箱根七湯の一、七湯の内其効験は此の泉を最とす。その内松坂屋万右衛門の家を巨壁とす」と記されています。

さらに、この「松坂屋」は明治維新に生きたつわものたちが集った場所でもあります。明治2年8月、明治新政府の参議を辞した木戸孝允(もと長州藩)がここを訪れ約1ヶ月間滞在し、この間に西郷隆盛と会見したといいます。

また、勝海舟・山岡鉄舟・乃木希典・副島種臣・山川健次郎・柳田国男ら知名人が宿泊、そして江戸参府の折にシーボルトも泊まり、さらにはベルツも宿泊しています。

芦之湯温泉から国道1号線に出て元箱根方面に進むと、すぐ左側に曾我兄弟と虎御前の墓があります。

ちょうど、箱根駅伝でもよく映る、国道1号線最高地点を過ぎたあたりですね。永仁3年(1295)の銘があり、この五輪塔はもとは供養塔だったが、江戸時代ごろから墓と呼ばれるようになりました。

その先に俗称「二十五菩薩」で、大きな岩石の表と裏に二十数体の仏層が刻まれています。永仁元年の銘があり、大部分が地蔵菩薩です。

この二十五菩薩より「精進池」寄りにあるのが、多田満仲の墓と伝えられている石塔があります。その先には左手の一段高くなったところには、自然石で刻まれた高さ4メートルの六道地蔵があります。

これらの石仏は、鎌倉時代の旅人が、箱根路を地獄を越える思いで旅をしたので、石仏に刻んで旅の安全を祈願したのだろうと思います。

🔶「箱根七湯」まとめ

急ぎ足で「箱根七湯」をまわってみましたが、現在ではこの箱根温泉郷と言われているところは16~17湯もあり、新しい観光施設や歴史・伝説・文学など遺跡を含めて、のんびりと温泉旅行するのにはいい場所ですね。

しかし、近年は歴史ある伝統旅館の廃業が相次ぎ、この箱根温泉郷も安泰ではありません。確かに毎年正月になると「箱根駅伝」も開催されて、にぎやかではありますが、これから先の繁栄を維持するには、時代に合ったニーズが求められるのではと感じます。

今日は最後までお読みいただきありがとうございました。(SORA2018事務局)

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