【日本の名湯】と名作の旅(前編)

【日本の名湯】と名作の旅(前編)

こんにちは、ワカマツです。

温泉に関することなのですが、こういう記事を書いて、果たして読んでくれるのか少し心配ですが、文学と温泉との結びつきを兼ねてから調べていた時期があり、書き残しの記事ではないですが、少し記してみたいと思います。

温泉の旅を続けていると、歴史関連のことを深く掘り下げて調べたりするのですが、その中で必ず出てくるのが文豪たちとの出会いでした。

これは意外に切っても切り離せない存在感があって、時に、その温泉で出筆した作品が、後に大きな話題を生み、その温泉の知名度も一気に上がり観光客を呼び込むという相乗効果が多々起きています。

大分の別府温泉群馬の草津温泉石川の山中温泉愛媛の道後温泉と挙げれば切りがありません。今回はそういった温泉と名作について、簡単ですが書いてみました。興味のない方はごめんなさい。

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🔶名湯と名作の世界

■「登別温泉」と有島武郎(北海道)

北海道の開拓以前から知られていた「登別温泉」は、当地に縁りの作家が数多く訪れている。明治32年の暮れ、友人の森本厚吉と訪れた有島武郎は、正月2日の日記に「余等は再び札幌の俗界に帰えらんとす」と、当時この登別温泉が秘境であったかを示している。

札幌生まれの森田たまが、第一滝本本館(道内では最も古い温泉旅館)の別館で、自炊する母に従い1ヶ月余りをそこで過ごしたのは、小学校3年生の明治37年である。

ところで有島武郎には、全文がAとBという二人の青年の往復書簡の形式で書かれた「宣言」という恋愛小説があるが、その発端がこの登別温泉である。

この夏僕が母と共に、北海道の登別温泉に行ったのは、君が知っている通りだ。(中略)やがて敷石と平らに、滑らかな湯のひたひたと溢れる湯槽の側に立膝をして、手抜で胸のあたりを湿しながら、湯気の間を、祖父を目探っていたが、そこにもう一人若い男のいるのに気付くと、五体に張る恥じらいに思わず手足を縮めて、首垂れてしまったその可攦さ

とあるが、なんともこの時代にしてみたら、目に見えるような、青春の息吹が感じられる光景である。

有島武郎は明治11年、東京生れ。札幌農学校卒業後、3年間アメリカに留学。帰国後、母校の英語教師となる。明治43年、創刊された雑誌「白樺」の同人となり、文学活動をはじめる。

大正5年、妻と父の死を機に、本格的な創作活動にはいり、『カインの末裔』『小さき者へ』『生れ出づる悩み』などを次々に発表。大正8年には改稿をかさねた『或る女』を完成するが、第1次世界大戦後の社会運動の波に内的動揺をきたし、大正11年、有島農場を解放。大正12年、波多野秋子と共に自殺、生涯を終えている。

さて、この作品にも登場する「第一滝本本館」という旅館は、登別温泉の中でも有名ですね。安政5年(1858)江戸の大工職人であった滝本金蔵が渡道し、長万部に入植。幌別村に転入した後、登別村へ移り住んだのが始まりとされています。温泉を掘るきっかけとなったのは、滝本金蔵が皮膚病を患う妻のために湯小屋を設置したことで始まりました。

現在営業している北海道内の宿泊施設の中で最も歴史があると言われています。観光経済新聞社主催の『人気温泉旅館250選』による5つ星の宿に認定されており、BIGLOBE主催の『みんなで選ぶ温泉大賞』では毎年上位にランクインしているほか、『ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン』改訂第2版による1つ星観光地になっているなど、北海道内有数の旅館となっています。日帰り入浴も行っていますね。

登別温泉といえば「地獄谷」ですが、ここは、日和山の噴火によって生じた爆裂火口跡で、登別温泉の中心的な観光名所になっています。

地表には小さな火口や噴気孔、湧出孔があり、ガスと高温の温泉が湧き出しています。観光用の遊歩道も設けられており、奇怪な光景を1周10分から15分程で楽しむことができます。また、大湯沼までの遊歩道も整備しています。

やはりこの登別温泉も温泉と火山の位置関係に属しており、日和山は標高377メートルの活火山です。現在でも山頂からは噴気を出しており、一帯が気象庁の常時観測火山に指定されている場所です。

■「鉛温泉」と田宮虎彦(宮城県)

花巻駅からバスで約40分、花巻温泉よりなお奥の、豊沢川の渓流に望むところに鉛温泉がある。現在では5つの源泉を有し、湯量も豊富ですべてが源泉かけ流しの温泉です。

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ここは田宮虎彦の代表的な短編小説「銀(しろがね)心中」の舞台となっている温泉ですね。

二、三日、ちらちら降っては消え、消えてはまた思い出したように降っていた牡丹雪が、不意に吹雪きはじめた。いつか粉雪になってサラサラとかわいた音をたてている。ゴオッと風が唸った。硝子戸ごしに、その風にまきこまれて、激浪のようにのたうちまわっている吹雪の灰ずみいろのうねりが、佐喜枝の瞳に移った。

「東京のお客さん、吹雪だどォ」湯宿の下男の源作が、廊下を小走りに走りながら怒鳴るように声をかけて、そのまま帳場の方へ階段をおりていった・・・・・

これはその書き出しである。

夫の甥珠太郎の肉体を忘れることができずに、家出をしてこの温泉に会いにきたのだが、佐喜枝はその男に捨てられてしまい、吹雪の夜の河に入水自殺する。

そこへ女を探しに来た宿の下男源作が後追い心中を遂げる。といったストーリーですね。簡単に見てしまえば、ただの愛欲物語的なもですが、1952年に映画化されて、かなり好評だったらしいです。

私も読みましたが、私的に言えば、書き出しから何かを予感させるし、タイトルに引かれたところがあります。また、吹雪のために電灯が消えて、吊りランプに灯りがともされながら燃える、そういう情景が、一途な女の愛欲の炎のでもあったような気がします。

けっしてエロ小説ではないですね。れっきとした文学作品です。温泉が絡む小説には、意外とこのような愛欲的な物語形式が多いような気もしますが、人間の情欲に満ちた描写をまざまざと描いている様は、人が誰でも持っている心の裏側に潜む幕攦を醸し出しているようです。

あと、宮沢賢治の童話「なめとこ山の熊」にもこの鉛温泉は登場します。開湯は600年前とされています。桂の木のたもとから湧出している温泉に白猿が浸かっていたところを発見したとされています。一般に言う動物発見説ですね。

豊沢川沿いに一軒宿の「藤三旅館」(ふじさんりょかん)があり、自炊部(現在は湯治部へ改称)を有し、湯治場でもあります。建屋の地下に位置し、立ちながら入浴する足元湧出の温泉「白猿の湯」が名物ですね。深さ約1.25メートルと日本一深い、自噴の岩風呂であると言われています。

ここの温泉は本当に珍しく、立って湯に浸かるという面白さがあります。おまけに一軒宿ですからね。こういう温泉も本当に珍しいです。知る人ぞ知るといった感じでしょうか。

■奥日光湯元温泉と葛西善蔵(栃木県)

大正13年9月、葛西善蔵は、ただれた生活による神経の病で小説が書けなくなり、奥日光湯元の板屋旅館へ逃避して2ヶ月滞在しました。そこで苦吟を重ね、ようやく口述筆記によって「湖畔手記」を仕上げました。湖畔というのは湯の湖のことであると称しています。

40歳に近づく頃から生活も荒れ、執筆もほとんどが口述筆記となり、嘉村礒多がその任にあたった。晩年は東京の、現在の世田谷区三宿界隈に住んだが、肺病が重くなり、1928年(昭和3)3月23日、41歳で死去しました。

もともと、酒乱であり、性格も破天荒であったみたいですね。小説家としての地位を確立しますが、性格による私生活は波乱であり家族を養っていくこと自体が困難であった見たいです。

葛西の作品は、ほとんどが自らの体験に取材した私小説といってよいもので、そこに描かれた貧困や家庭の問題は、その真率さで読者に感銘を与えています。一方、妻を故郷に置いたまま別の女性と同棲して、子もなしたことへの批判は当時から根強く、それへの反発が葛西の作品の底流にあるといわれています。

雲の山が、いつの間にか、群山を圧してしまっている。湖水は夕景の色に変わっている。自分は少し散歩してこよう。

白根山、雲の海原夕焼けて、妻し思へば、胸いたむなり

秋ぐみの、紅きを噛めば、酸く渋く、タネあるもかなし、おせいもかなし

湯滝のさき、十五町ほど湖畔の道を、戦場ヶ原を眸の下に眺められるあたりまで、道道花を摘みながら、ゆっくり歩いた。原一面薄紫色に煙っていた。何といふ美しい眺めだろう。十八九年前の思ひ出から、自分は夕闇の迫ってくるのも忘れて、しばらく立っていた。湖水の暗い色は、冷たい戦慄を伝へた

暗い心境小説ですね。しかし、昔の白根山近辺の風光や、湯元、湯の湖のほとりの自然とその土地の人々の生活を、よくとらえて描いている作品であると感じます。

生活の悲惨さのなかで、それを逆手にとったような葛西の文学には、人をひきつけるところがあり、それが葛西の作品を広めているところがあったのではと思います。

この湯元温泉に来たきっかけも、本当は自分の手でもう一度小説を書きたいと、また、湯治すればそれが叶うのではと微かな期待を込めて訪れたような気がします。

これから晩年にかけての執筆はすべて口述筆記でした。悲しいかな自分で書けない自分の姿に苦悩した人生を送った、素晴らしい近代の小説家だと思います。

さて、奥日光湯元温泉は、栃木県日光市の奥日光湯ノ湖畔、金精峠の麓にある温泉郷ですね。知っている方も多いとは思いますが、江戸時代文政年間に成立した「日光山志」(植田孟縉著)では日光湯元温泉を中禅寺温泉八湯(ちゅうぜんじおんせん はちゆ)と記しており、明治期に編纂され刊行された「古事類苑」ではこの書を引用し日光温泉としている。

湯ノ湖畔に約15軒のホテル・旅館があり、同じ日光市内にある鬼怒川温泉のような歓楽色は全くない温泉です。湯には湯の花が浮かび、温泉街には温泉地ならではの硫黄臭が漂う。温泉街の中央には足湯があり、無料で利用できる。

源泉地の隣には日光山輪王寺別院の温泉寺があります。これは8世紀に勝道が当温泉を発見した際に建立し、その後途絶えていたもので、現存する構造物は1973年(昭和48年)に輪王寺によって建てられたものです。お寺にも温泉が引かれており、参拝客は男女別の共同浴場として利用できます。

■越後湯沢温泉と川端康成

国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。

向こう側の座席から娘が立って来て、島村の前のガラス窓を落とした。雪の冷気が流れこんだ。娘は窓いっぱいに乗り出して遠くへ叫ぶやうに、

「駅長さあん、駅長さあん」

明かりをさげてゆっくり雪を踏んで来た男は、襟巻で花の上まで包み、耳に帽子の毛皮を垂れていた。

もうそんな寒さかと島村は外を眺めると鉄道の官舎らしいバラックが山裾に寒々と散らばっているだけで、雪の色はそこまで行かぬうちに闇に呑まれていた。

この書き出しだけで、誰もがすぐわかりますよね。川端康成の名作『雪国』の書き出しですね。そしてそこは「湯の街越後湯沢」、駅の中まで温泉の湯が引いてあって、入浴施設「酒風呂 湯の沢」がある。もう、お湯の匂いがもうそこから旅人のまわりに立ち込めている。そんな情景が似合う駅でもあります。まあ昭和の時代ですが・・・

今は駅も近代化されていて、昔の情緒ある駅舎は見られませんが、在来線で上野から3時間以上もかかっていたのが、今は新幹線でものの1時間で到着するので便利になりました。

雪国』の舞台となった場所は、主に上越国境である清水トンネルを抜けた湯沢温泉ですね。この作品も『伊豆の踊子』同様、川端康成氏の旅の中で出会った一人の女性から端を発しています。

川端康成氏は、故意に地名を隠しているが、1934年(昭和9年)6月13日より1937年(昭和12年)まで新潟県湯沢町の高半旅館(現:雪国の宿 高半)に逗留していたことを随筆『「雪国」の旅』で述べています。

その時に出会った女性が駒子のモデルとなった芸者の「松栄」ですね。本名は丸山キク、1916年(大正5年)に新潟県三条市の貧しい農家の7人姉弟の長女として生まれ、1926年(大正15年)、数え年11歳で三条を離れて、長岡の芸者置屋に奉公に出された女性です。

なお川端は、主人公の島村については、「島村は私ではありません。男としての存在ですらないようで、ただ駒子をうつす鏡のやうなもの、でしょうか」と述べている。

『雪国』の書き出しを詠んでいると、「島村」という人物が川端康成氏を写した存在だと思っていました。ところがこの作品は、男と女の恋愛感情を超えたところに焦点があり、むしろこの雪深い越後地方での、世相や習慣などをこの小説の中で語りたかったのではないかと思います。

川端が滞在した高半旅館は建替えられていますが、雪国を執筆したという「かすみの間」は今でも保存されています。また、湯沢町歴史民俗資料館にモデルの芸者が住んでいた部屋を再現した「駒子の部屋」があり、湯沢温泉には、小説の冒頭文が刻まれた文学碑が建てられています。

不思議なもので、温泉と小説には深い関係があります。時に男と女の人間模様が、大小少なからずもクローズアップされていきます。やはり温泉と名作の中では、雪が必要であり、この雪の降る情緒ある情景がすべてを魅了していく野でしょう。

🔶まとめ

簡易的に、抜粋みたいな形で綴ってみましたが、明治以降の文豪たちが残した、名作の世界とその舞台となった情緒あふれる温泉郷、あまり興味のない方はおもしろくないとは思いますが、たまにはこういう記事も書いてみたくなります。

後編もいずれ出していきます。今日は最後までお読みいただきありがとうございました。

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