【ハレー彗星】次回はいつだ、1910年の大接近!

【ハレー彗星】次回はいつだ、1910年の大接近!

🔶ハレー彗星に抱くロマン

こんにちは、ワカマツです。

トップページに記させていただいた、「歴史カテゴリー」の追加、その第一弾として取り上げたのが「ハレー彗星」の記事です。”できたらもう一度見たい”という気持ちも込めて、また無駄な長生きを目論んでいる意味でも、取り上げたいテーマでした。

1986年に見たハレー彗星は、ただの星にしか見えませんでした。できることなら「ほうき星」と言われるように、尾を引いて大空を優雅に飛ぶ姿を見てみたい、やはり私の大きなロマンですね。

■ハレー彗星の歴史

ハレー彗星は、ほぼ76年周期で回帰し、肉眼でも見えるような尾を引いて現れるが、地球との位置関係によってすばらし見え方をする時とそうで無い時があって、当たりはずれが大きい。

当った例としては、1910年(明治43)の大出現で、この時はハレー彗星と地球が正面衝突する形で出会い、見事な姿が確認できたと言います。また外れるのは、上記にも記したように1989年(昭和61)で、2月に9日にハレー彗星は太陽にもっとも近づくことになったのですが、この時は太陽を挿んで地球とは正反対の側に位置し、肉眼では尾を引く姿がほとんど見られませんでした。

実際に歴史上の中で過去30回の出現記録が残されていますが、そのうちの半分は世間の関心を引かなかったみたいです。よくハレー彗星が夜空に尾を引いて現れ、その都度ごとに大事件が起こり、世の中を不安と恐怖に陥れるストーリーが描かれますが、残念ながら事実無根の話ですね。

例えば、江戸時代の庶民世相年表として有名な『武江年表』を見ると、ハレー彗星の出現は慶長12年(1607)の頃にたった8文字で記録されているだけです。

大彗星としては1680年1811年1843年1858年に現れたのが大きくクローズアップされており、ハレー彗星はそれほどの大彗星として注目されていた存在では無かったといえます。

もうひとつは、ハレー彗星が現れれば、必ず地球に大異変や大災害が起きると思われていることも、何の根拠もありません。地球上では毎年どこかの国で、何らかの事件が起こっているのだから、一時期よく騒がれた、「ノストラダムスの大予言」でなくても、彗星とはかかわりなく何かが起きています。

天文学という学問は、ロマンに満ち溢れているかに見えますが、実はきわめて散文的です。あくまでもロマンは後から無理に後付けされて追いかけてくるように感じます。だから逆に深く掘り下げていくと、自分が思っていたことよりも、ロマン性が薄れてくるということですね。

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■日本最古のハレー彗星観測

日本における天体観測は7世紀に始まります。推古天皇12年(604)正月1日より、初めて暦日を用いたことが『日本書紀』に記されています。

この2年前、百済の僧観勒(かんろく)という人物が来朝して、暦・天文・地理・さらには陰陽道などの書物を貢物として献じたことが文献に見えています。おそらく彼の指導によって暦日の採用が認められ、天文学についての知識も教えてもらったのでしょう。

その結果がこうです。

推古36年3月2日(628)日ハエ尽キタリ(日食の記録)

舒明6年8月(634)長星南方ニ見ユ(彗星のこと)

舒明7年正月(635)彗星東ニ見ユ

舒明9年2月23日(637)大星東ヨリ西ニ流レ音アリ

という記録が残されています。

暦日を用いることによつて初めて天体現象の記録も可能となったのであったし、更に天智天皇10年(671)4月25日(現行暦で6月10日、「時の記念日」)に初めて漏刻(水時計)を設置し、鐘や太鼓を打って時を知らせることも行われた。

天智天皇の皇子、大友皇子(弘文天皇)と対立して、壬申の乱(じんしん)(672)を起こした天智天皇の弟大海人皇子は、弘文天皇即位後、半年余りで皇位を奪い、第40代天武天皇となり、一時近江に移っていた都を飛鳥浄御原宮(きよみはらのみや)に遷して飛鳥朝を復活させました。

『日本書紀』が伝えるところによれば、天武天皇は易学陰陽道を修め天文学の達人であったといわれています。つまり星占いとか天文運気の観測に興味を持っていたらしいですね。

その証拠に、天武天皇3年(675)に、「正月5日に、始めて占星台を興す」という記述が『日本書記』の中に見られます。

占星台とはどんなものだったのだろうか。おそらくそれは宮殿の一角に建てられ、石垣か櫓を高く組んだ上に望楼を載せたようなものであったろうと思います。現在、近鉄岡寺駅西方の丘の上に「益田の石舟」と呼ばれる方形の巨石が置かれています。これが占星台の遺構ではないかとする説がありますが詳しいことはわかっていません。

この占星台を用いて、3回の彗星観測が行われています。

天武5年7月(676年8月~9月)星東ニ出テ、長サ七、八尺、九月天ニオワル

天武10年9月16日(681年11月2日)彗星見ユ

天武13年7月23日(684年9月7日)彗星西北二出テ、長サ丈余

この3回目の684年の出現こそ、まさにハレー彗星である。

長さが一丈あった余りあったというのは、現在の物尺ではピンとこないのと思うが、当時は中国から伝わった尺と杖という器具があって、それを片手に伸ばして空に当て、天体の大きさや距離を測定したらしいですね。

当時の一尺は、空の中の角度で一度半に相当すると考えられ、例えば七、八尺といえば、長さ十度前後の尾を引いていたことであるし、一丈余りは十五度ないし二十度という感じです。

もちろん肉眼で見えたのだから、人々を驚かすには十分であったはずです。とにかくこれが日本で最古のハレー彗星の記録というわけです。

西暦684年の出現にはもうひとつ記念すべきことがあります。それは彗星の世界最古のスケッチがヨーロッパで残されていたということです。

ドイツのニュルンベルクの「ハルトマン・シェッデル」という人物が書いた『ニュルンベルク年代記』の中に、西暦684年にあたるページに、木版で大きな彗星の図が押されており、

彗星の出現によって、さまざまな災厄がもたらされた。大雨が降り、雷と稲妻が3ヶ月も続き、その間に多くの人々や家畜が死に絶え、畑の作物は枯れしぼんでしまった。引き続き日食と月食が起こり、人々をさらに不安と恐怖に陥れた。

という文章が添えられています。

では、日本の情況はどうだったのだろか。この前後、新羅、百済等の帰化人や使節が続々と朝貢しており、大陸の文物が盛んに採り入れられたようですね。

天武天皇は中央集権制度を目指して、天皇政治を確立させようとして、天下に号令を出し姓や爵位を定めて身分階級制度を決め、天皇の威令もかなりいきわたっていたと思われます。

ただこの年の10月14日、日本を揺るがせた大地震が起きています。この地震は明らかに太平洋プレートと南からのフィリピンプレートの動きによって生じたもので、土佐の国では広大な地域の田畑が陥没し、遠く離れた伊豆の海に、高さ三百丈(海抜100メートル)の島が隆起したと『日本書紀』は伝えている。今でいう「南海トラフ地震」ですね。

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■彗星の出現と日本人の考え方

彗星が出現すれば悪いことが起きる。凶星である、災害を振りまく星であるとあると人々は信じているかの如く、書かれていますが、そのような考え方は西洋の占星術の思想であり、中国伝来の陰陽道からの発想であって、どうも日本人には彗星に対して恐怖感や凶兆といった考え方が強かったとは思えない節もあります。

その証拠を幾つか挙げてみましょう。

10世紀中にハレー彗星は912年、989年の2回出現している。ハレー彗星ばかりではありません。その他大小取り混ぜて18個の出現記録が残っていて彗星の大豊作といってよいみたいです。延喜5年(905)4月の大彗星の時は『扶桑略記』の記述によれば、「長さ三十余丈」と書かれています。

額面通りに計算すると、尾の長さは450度余りとなって、天空を一巻き以上してしまうことになる。多分なんだかの間違いだとは思いますが、かなりの大彗星だったことがわかります。

この頃は第60代醍醐天皇の御代(898~929)で、やはり藤原氏全盛の頃、世の中の動きもきわめて落ち着いていたようで『愚管抄』にもこのように書いてあります。

此の御時、彗星たびたびいでけれども、めでたく徳政をおこなはければ、事もなくてのみ過ぎけると申しつたへたり

と治世をほめたたえている。これで見ると一応、彗星は天の悪いお告げと考えてはいたようには思いますが、政治がきちんと行われていたために、何の事件も起こらなかったということを記しています。

ところが同時代に意外な記述がみられます。天慶4年(941)3月の『扶桑略記』の記録にはこう書いてあります。

春三月西の方に相当って星有り、其の光白虹の如く、本は細く末は漸に広がり、十里(多分丈の間違い)程ばかり、二カ月を経る。世人其を号して曰く穂垂星と。その秋の年度、天下すこぶる豊かなり

彗星の形を稲穂の垂れる形と見て、豊作のしるしと喜んだらしいのです。その一方では「戈星」(ほこぼし)・「鉾星」という名でも呼ばれており、彗星の出現と共に、その災いを払う祈願や修法もしきりと行われたようですね。

永延3年(989)7月、一条天皇の御代、ハレー彗星が出現しているが、これも『日本略記』や『扶桑略記』にはしっかりと記録が残っています。しかし何故かこの時は天変であると称し「永延」を「永祚」と改元していて、凶変のしるしとして恐れる風潮も現れています。多分政治的な不安材料があったのでしょう。

こういう時の一番の材料となるのはやはり思想ですね。仏教や陰陽道の変転思想がこのような考え方を起こしたのかもしれない。

ところが「穂垂星」または豊年星的な庶民の考え方もずっとあって、江戸時代から明治まで受け継がれてきたのだから面白いですよ。

例えば文化8年(1811)の秋、北の空に現れた「フラウゲルグス彗星」は、ヨーロッパの観測では頭部の直径180万キロ(太陽の直径140万キロ)、尾の長さが2億キロという途方もない大彗星であったと記録されていますが、日本でも確認されています。『武江年表』には次のように記されています。

八月上旬、毎夜暮時、北の方に箒星(ほうきほし)あらわれ出ずる。下旬は西に見え、また暁にも東に見る

更に興味深いのは、信州の俳人「小林一茶」の『我春集』(おらがはる)にも記されていますね。

文化八年七月二十六日頃より北方七星の辺りに稲つかねたらんやうなる星現るる。老人豊秋の印なりといふ。

その土地の古老は稲穂の形をした彗星が、豊年満作の印であると見立てていたのは、平安時代からの庶民の見方を継承していたものです。

不思議なことに、この1811年の大彗星は、ヨーロッパではナポレオンのロシア敗退(1812年)を予兆などと言われているが、フランスではブドウが大豊作でこの年につくられたぶどう酒は、「コメットワイン」と呼ばれて珍重されたという。

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■星石の謎

江戸時代という時期は、日本の天文学が西洋の影響を受けだして、かなりのレベルに達した時代でもあります。天体観測も幕府に仕える天文方によって、きちんと行われていたし、『武江年表』を見ても彗星の出現記録はかなり多い。ただ残念なことに、その見たままの姿を描いたスケッチとか絵画は、19世紀になってからものがあるだけです。

それのほとんどが専門家の観測報告で、錦絵のようなものは一枚も残っていないのが現状です。

その中でただひとつ不思議な石碑が存在します。通称「星石」と呼ばれていますが、その存在に気づいたのは、山梨県八代郡八代町の郷土史家「中村良一」氏であると言われています。中村氏は隣町の御坂町竹居に、奇妙な石が転がっているのを発見したという。

この石の長さ1.3メートル、四角い柱のような天然石で、幅35cmの平ぺったい一面にハッキリと太陽と月、北斗七星、冠座かと見えるU字型の星列、その他にも星らしき凹みがあり、右側に「八百萬神」・「一道弾流」という文字が刻み込まれています。

注目すべき点は北斗七星のひしゃくの背のあたりと、柄の一番はしの星の位置に彗星のような線刻が見られることです。明らかに一つの凹みをあらわした頭部から、やや先広がりの尾が出ている様子はどう見ても彗星です。

中村氏の詳しい調査でもこの石碑の由来、制作年を示すものは何一つ見つからなかったという。

この「星石」は現在、御坂町竹居の室部地区公民館の庭に展示されているが、以前はすぐ近くを流れている川を少しのぼった上流の二つの川の合流点にあって、いつの頃かわからないが、二つの集落の間でこの石の所有権について、奪い合いがおこなわれていたことがあったと聞いています。

この不思議な「星石」について、彗星研究家の「長谷川一郎」博士は、北斗七星と彗星の位置関係が、慶長12年(1607)に出現したハレー彗星がたどった道筋とよく似ていることを突き止め、この土地の人々が何らかの祈願か信仰のシンボルとして「星石」を刻んだものではないかと考えているみたいですね。

■1910年のハレー彗星

ハレー彗星と名のつく彗星になってからの歴史は極めて浅いですね。イギリスのエドマンド・ハレーが76年周期で回帰することを突き止めたのは、1682年の出現の時です。

彼の仮設で証明されたのは、その次の回帰、1759年のことで、ハレー彗星の名が定着したのもこの時以降です。その後の出現は1835年、1910年、1986年のたった3回なのだから、まだ260年ぐらいしか経っていません。

ハレー彗星の名が一躍クローズアップされたのは、1910年(明治43年)の大出現です。時代の節目であるがゆえにタイミングも良かった。しかもロシア革命・第一次世界大戦前夜の出来事でもあったので、世界を混乱に導いていきました。

なんといってもこの時、世間を狂乱の渦に巻き込んだきっかけは、1910年5月19日、ハレー彗星の尾の中に地球が入り込んでしまうであろうという予測でした。

専門家の計算でこんな恐ろしいことが起こるとハッキリ公表されたのは、ハレー彗星が来る前年の夏頃、まだハレー彗星の回帰が確認される前でした。

更に追い打ちをかけたのが、同年10月に発表された、ハレー彗星のスペクトルの中から、シアンガス(青酸ガス)の存在が確かめられて、人々の恐怖をあおったのです。

実際に当時の新聞紙上にも、おだやかではない記事が掲載されています。長くなるので抜粋はしませんが、簡単に言えば今では報道としてありえない表現として、「人類はみな窒息して死滅するであろう」とハッキリと記されています。おそろしい。

とにもかくにもハレー彗星は雄大な姿を地球人に見せつけて去って行きました。明治という時代の終りと新しい近代の息吹を感じさせる大正、そういった時代背景を背負ってハレー彗星は回帰してきたんですね。

■ハレー彗星まとめ

ハレー彗星の過去の歴史を調べるとその当時の治世が本当によく読み取れる。特に1910年の出現にいたっては世界が狂乱の渦に巻き込まれています。それに比べて私が見た1986年の回帰は残念でした。

あと約44年後、生きているだろうか、その時代はもうハレー彗星の旅と称して、宇宙船が飛び交っているかもしれません。またネット社会でブログというカテゴリーがまだ残っているとしたら、この記事が一日10万PVぐらい行くかもしれない。

そういうことを夢見ながらこの記事を締めくくりますね。今日は最後までお読みいただきありがとうございました。

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