【道後温泉】歴史と観光スポット

【道後温泉】歴史と観光スポット

🔶古湯、道後温泉3000年の歴史

■道後温泉の概要と実情

こんにちは、ワカマツです。
今回は日本三大古湯のひとつ、「道後温泉」について歴史や観光を見ながら紐解いていきます。

道後温泉は、四国・愛媛県松山市(旧国伊予国)に湧出する温泉である。日本三古湯のといわれその存在は古代から知られる。古名を「にきたつ」(煮える湯の津の意)といい、万葉集巻一に見える。なおかつてはこの周辺が温泉郡(湯郡)と呼ばれていたが、これはこの温泉にちなむ地名である。

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伝統ある温泉ではあるが、近年そうも言っておられない現状がある。松山市の道後温泉の旅館の数がこの20年間で半減し、宿泊可能人数も3割程度減っていることが報道された。民間調査機関「いよぎん地域経済研究センター(IRC)」によると、「旅行需要は団体から小人数・個人に移行したが、道後温泉はバブル期前後に団体需要を踏まえた宴会場などの設備投資を進めた」と、低迷の原因を機動的な対応の遅れによるものと指摘している。

道後温泉の旅館数は、1989年には58軒(収容人員9404人)だったが、2009年には31軒(同6665人)になった。

道後温泉街はその中央にある道後温泉本館を中心としている。本館自体が観光施設であるが、その横には「道後麦酒館」という地ビールを飲める店があるなど、飲食施設が充実しつつある。

温泉本館前から、市内電車の道後温泉駅まで、L字型に道後温泉商店街があり、土産物店や飲食店などが軒を連ねている。L字の角のところに、椿の湯がある。こちらも共同浴場であるが、料金も本館より安く、地元の人の利用が多い。

市内電車の道後温泉駅前には、放生園という小公園があり、坊っちゃんからくり時計、足湯、湯釜などがある。駅前広場には夜間は坊っちゃん列車の機関車と客車が留め置かれ、ライトアップされている。また、坊っちゃん、マドンナ、巡査の衣装をまとった観光ボランティアガイドも出て、からくり時計の動く時間には観光人力車も集まり、とりわけ夜8時前後は賑やかになる。

従来は道後温泉街には昼間の楽しみが少ないと指摘されていたが、放生園に足湯ができて、楽しみが増えた。足湯は湯釜を取り囲む形でベンチが作られ、腰を下ろして足を温泉に浸け、歩き疲れを取ることができる。

ただここ10年間で観光客数は横ばい状態ではあるものの、起爆的な要素を備えたものがなく、大幅に伸びる傾向にないのが現状である。

■道後温泉の歴史

3000年の歴史を誇る、日本最古の道後温泉は、古代、熟田津(にきたつ)の岩湯、あるいは伊予の湯桁(ゆけた)と呼ばれていた。その名は「古事記」「日本書紀」「伊予風土記」「万葉集」に登場する。

斎藤茂吉が「一首の声調大きくゆらいで、古今まれなる秀歌」とほめた額田王(ぬかたのおおきみ)の万葉歌ーーー

熟田津に船乗りせむと月待てば 潮もかなひぬ今は͡漕ぎ出でな

斉明天皇の7年(661)正月6日、難波(おおさか)を出港した西征の船団は、14日(新暦2月21日)に熟田津(当時道後付近にあった港)に着いた。熟田津の石湯(現在の道後温泉)には、仮宮がつくられた。

この船が目指すのは、唐と新羅の連合軍を相手にする百済軍の救援である。船出にもいろいろある。気ままな旅立ちもあるが、この場合は戦に向かっての船出である。どちらかというと、気は重い。「今は漕ぎ出でな」の言葉にそれを感じる。

熟田津の石湯が当時、どのような様子であったかは明確ではない。すでに、かなり知られていた湯であったことは間違いない。

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「伊予風土記」の逸文、「釈日本記」によれば、推古天皇4年(596)聖徳太子の入浴が記されている。聖徳太子はこの温泉のすばらしさに感動して碑文を一首残した。それによると、椿がたがいに枝をさし交わし生き繁ってあたかも天寿国にいるようだとたたえている。

道後温泉には、史跡、名所に一番から二十八番まで四国霊場にの札所にちなんだ「道後村めぐり古里しらべ帖」がある。その二十五番に故事にちなむ椿湯がある。

斉明天皇が来湯した時、すでに68歳の老女帝であった。一行の中心は中大兄皇子(のちの天智天皇)、大海人皇子(のちの天武天皇)の兄弟。従ったのは額田部王、中大兄の娘で大海人の妃である大田皇女、鵜野讃良皇女(うののきらら)「後の持統天皇」らで、二人は遠征中に大伯皇女(おおく)・大津皇女・草壁皇女を出産したのである。

額田部王はそのころ中大兄・大海人兄弟いずれの許におられたかはわからないが、初期万葉のヒーロー・ヒロインたちの湯あみ光景はいかばかりであっただろうか。熟田津の歌碑は現在松山市の護国神社境内にある。

斉明天皇からおくれること54年目、神亀2年(725)には、山部赤人が来湯し、「にきたづに船乗りしけむ年の知らなく」と往時を回願した歌を作っている。山部赤人のこの万葉歌は、道後温泉本館にある湯釜に刻まれている。明治の書家「草壁鳴鶴」の筆である。

天平勝宝元年(749)僧行基が越智氏と湯釜を設ける。元歴2年(1184)には河野氏が温泉郷(ちのたち)を建設。正応元年(1288)一遍上人が湯釜に南無阿弥陀仏の六字の名号を記した。河野通有の依頼による。

この湯釜は後でふれる現在の温泉本館ができるまで使われていた。温泉史上貴重なもので、現在は湯釜薬師にある。県指定の文化財。

建武年間(1334~38)河野通盛、道後に湯築城をつくり本拠とする。永禄5年(1562)河野通直は、新たに浴場を経営し、毎月5日・10日・15日・20日・25日と晦日は、一般人の入浴を禁じ石手寺一山の僧たちを入浴させた。多数の荒法師の入浴が、一般人の入浴を圧迫したため、その調整を図って温泉経営権を石手寺末寺の明王院に委託した。

そのころ、湯築城下と石手寺の間に市場が開設され大いににぎわった。いまも下市・上市の地名が残っている。

天正13年(1585)河野氏が滅亡。湯築城は廃城となり道後温泉は衰退していった。

慶長8年(1603)加藤嘉明(かとうよしあき)が松山城を築城し温泉を監督する。温泉浴室を男女分けて今日のような形態を整えたのは、松山藩主松平(久松)定行の寛永15年(1638)のことで、領主による積極的な温泉経営が行われるようになり、今の道後温泉の基礎ができていった。

松山藩は、温泉場の修理改築を推進し、入浴収入をほしいままにした。歓楽街もできた。ところがこれを取り締まるのに武士が当たることには、さまざまな不都合が発生した。そこで、江戸時代後半にはもともと鍵屋であった明王院を正式に温泉の鍵あずかりに任命すると同時に、藩の機関として温泉経営と温泉街の取り締まりを行わせた。

明王院は現在でいう温泉役場と観光協会の性格を持っていた。明和4年(1767)湯文を配布、「湯治人手引之事」「湯に浴様(いりょう)之事」などを客に配った。いまでいうパンフレット、入浴の心得みたいなものである。

さらに湯治客は一週間に湯銭三分を鍵屋明王院に納付させた。入浴税のはじまりである。また宿も斡旋したみたいだ。明王院指定の「湯元六軒」は協定旅館の設定である。湯治宿は、宝暦4年(1754)25軒、明和年間(1764~71)72軒、文化6年(1809)53軒の記録がある。

天保12年(1841)に十軒茶屋が設けられ、遊郭が組織されたが風紀を乱すというので差し止められ、灯が消えたようになる。そこで町民の請願によって安政3年(1856)再開されるということもあった。

明治維新後、道後温泉は、松山藩所有だったのをついで一時国有となったが、間もなく町民有志が組織する源泉社が経営を行った。明治22年(1889)町制施行と同時に、源泉社顧問である伊佐庭如矢が町長となり、町が管理運営かる次第となる。

道後温泉のシンボルとなっている道後温泉本館は、伊佐庭町長がかなりの反対を押し切って、お城大工の坂本又八郎に命じ、三層の桃山御殿風の、当時としては画期的な建築を完成させた。

明治28年、市内一番町から道後へ軽便鉄道が開通し、湯治場から保養、観光温泉地へと変容する。

■道後、文学の華

夏目漱石が松山中学の英語教師としてやってきたのは明治28年の春である。「道後温泉はよほど立派なる建物にて、八銭出すと三階に上がり、茶を飲み菓子を食い、湯に入れば頭まで石鹸で洗ってくれるような始末、随分結構に御座候」と手紙を書いている。新築ほやほやの温泉本館に入ったのである。

松山で夏目漱石は、病気療養のため帰省していた正岡子規と再会する。小林一茶の来游があったとはいえ、万葉以来、伊予の土壌に文学の華を開かせたのは子規である。そして、漱石の「坊ちゃん」も生まれた。

漂泊の俳人山頭火は昭和15年にこの地で生涯を終えている。

朝湯のよろしさ もくもくとて 順番待つ

一人さみしさが 温泉にひたりて 秋の夜

万葉から現代まで、道後を貫くものは「憩い」そして「安らぎ」であるからであろう。

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🔶松山の観光

■道後温泉 飛鳥の湯泉

新しい湯屋「道後温泉別館 飛鳥乃湯泉(あすかのゆ)」が誕生。飛鳥時代をイメージした建築様式を取り入れた建物で、 温泉の癒しと、愛媛の伝統工芸を使ったアートの刺激とを同時に味わうことができます。道後温泉は日本書紀にも登場するほど長い歴史があります。「道後温泉本館」、その姉妹湯の「椿の湯」は、どちらも観光客のみならず地元の人も足繁く通う人気の温泉施設。そして2017年9月26日、ここに新たに「道後温泉別館 飛鳥乃湯泉」(以下、飛鳥乃湯泉)が加わりました。

■松山城

松山城は「日本100名城」「美しい日本の歴史的風土100選」などにも選定されています。美しさもさることながら、難攻不落ともされる固い守りの工夫が随所に見られるのもこの城の魅力の一つ。市内を一望する海抜132mの勝山(かつやま)山頂に本丸がある。

松山城を築いたのは、関ヶ原の戦いで功績を認められた加藤嘉明(よしあき)。愛知県三河生まれの加藤嘉明は、慶長8(1603)年にここに移ると同時に地名を「松山」とし、その名が今に至ります。
しかし嘉明は、城の完成直前の寛永4(1627)年に会津へ転封されてしまい、その後に出羽国(山形県)から入った蒲生忠知(がもうただちか)の時代に完成しました。松山市の中心にあり、市内を一望する勝山の頂に建つ松山城。江戸時代からの現存12天守のうちの一つで、天守をはじめ合計21棟もの重要文化財を有する名城です。わが国最後の完全な城郭建築といわれる城。

山頂までは徒歩なら4ルートあり、いずれも所用時間は20~30分で車両は通行不可です。体力に自信があれば築城当時を偲びながら徒歩で登るのも一興ですが、ロープウェイやリフトで楽に登る方法もあります。リフトに並走するロープウェイは10分間隔での運行。約3分で山頂へ到着します。


■坊ちゃん列車

坊っちゃん列車は“松山市民の足”路面電車(地元では「市内電車」と呼ばれます)の線路を走ります。ただし乗車駅は限られていて、JR松山駅前・古町(こまち)・松山市駅・大街道(おおかいどう)・道後温泉、合計5つの電停からのみ、乗ることができます。
料金は大人(中学生以上)800円、小児(6歳以上12歳未満)400円、ともに税込

■坂の上の雲ミュージアム

施設名 坂の上の雲ミュージアム
所在地 愛媛県松山市一番町三丁目20
電話番号 089-915-2600
アクセス 【電車】
JR松山駅から市内電車「道後温泉行き」乗車、「大街道」駅下車、徒歩2分
【車】
松山自動車道松山ICから約20分
営業時間 9:00~18:30(入館は18:00まで)
定休日 毎週月曜日(休日の場合は開館)
参考価格 一般 400円
65歳以上 200円
高校生 200円
中学生以下 無料
駐車場 なし(周辺に有料駐車場あり)
公式サイトURL https://www.sakanouenokumomuseum.jp/

司馬遼太郎の作品『坂の上の雲』をテーマにしたミュージアムは、松山のまちづくりの拠点となる施設として2007年に開館しました。作品をより深く知ってもらえるようにという思いから、1296回にも及ぶ新聞連載の壁面展示や、主人公の秋山好古、真之、正岡子規に関する直筆資料、映像、ドラマで使用された小道具や衣装などが展示されています

。建物の設計は世界的建築家の安藤忠雄氏。ゆるやかな坂道を登ったところにある三角形の建物は建築物としても見ごたえがあります。

🔶道後温泉まとめ

伊予の国は明るく穏やかな風土を持つ。災害も少なく親藩ゆえのゆとりがある。そのうえに最古からある温泉を持つ。遊びこころ、風流を愛する気風は四国随一だろう。温泉本館には神の湯、霊の湯、二階に広間、又新殿、坊ちゃんの間などがある。

振鷺閣(本館3階)で打ち鳴らす太鼓の音を合図に「朝湯会」に行く。道後温泉本館にいたる歴史を見ると、さながら日本の国温泉生成の歴史を見る思いがする。地震で温泉が止まること14回、温泉管理は豪族ー寺院ー藩ー町有志ー町と変転してきたが、根強く蘇生した。

各旅館に内湯が引かれたのは昭和31年のこと。だが外湯である本館の魅力は失せない。「伊予風土記」の中に、道後に別府の湯を引いたという伝承がある。むかし、「遊び別府、湯治道後」と言われた。だがこれからは、新しい湯治のあり方を追求していくのも、今後の道後温泉の使命ではないだろうか。

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