雲仙普賢岳の噴火、火砕流の歴史

災害の歴史
1991年に起きた雲仙普賢岳の大火砕流被害、みなさんも記憶に新しいと思います。
過去にすさまじい大噴火を起こした雲仙、地震から始まり火山噴火、そして大火砕流、最後に大津波が発生し広範囲にわたり被害を発生させたわけです。
今回はこの雲仙岳(いくつもの山から形成されている総称)の噴火の歴史を実話を交えてお伝えしていきます。
12月に入り朝夕の気温がかなり下がってきましたね。
東北・北海道では雪の被害も出てきていますが、九州北部では日中も日差しがあれば15℃近くまで上がります。
紅葉も終わり冬本番にですが、体が寒さに慣れていないこともあり、朝の寝起きがつらいです。
しかし、ガソリン代が相変わらず高い水準で推移しています。
産油国の増産見送りもあって、これからも高値で推移する様相ですが、企業にとってもまた個人にとってもこの先大きな痛手になりそうな気がします。
私も近頃では燃料計の針を常に気にしながら車を走らせています。

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進まない国と自治体との連携

国会議事堂

火山噴火時に登山者や観光客、周辺設備の利用者らを安全に避難させるため、市町村に法律で義務づけられた「避難促進施設」の指定について、対象となる123市町村のうち約8割にあたる97市町村が、今年8月末時点で1施設も指定していないことが分かりました。

 

未指定のままでは避難誘導に混乱が生じる恐れがあるとして、内閣府は早期の指定を呼び掛けています。
「避難促進施設」は、2014年9月27日の御嶽山の噴火を受けて制度化されているもので、噴火や火砕流の被害が想定される地域で、ホテルや飲食店、病院などの集客・公共施設を市町村が指定し、施設ごとに避難経路や備蓄品などを定めた避難確保計画の作成が義務づけられています。(2015年活動火山対策特別措置法)
ただ、いつも思うのが各市町村の財政難であり、何か対策を講じるにしても予算が必要となります。
専門知識を持った人員の確保や人件費、その地域での企業・施設の理解とその活動に対する補助金、自治体にとっては問題山積みではないかと思います。
特に旅館・観光施設に関しては風評被害になりかねないという懸念があるようで、施設設置が進まない大きな理由になっています。
集客だけの問題ではなく、訪れた観光客の安全確保は当然の義務なので、施設設置は急ぐべきです。

雲仙普賢岳の噴火、1991年の大惨事

雲仙普賢岳1991年の火砕流

上の画像を見ていただければわかると思いますが、雲仙普賢岳の火砕流発生直後の画像です。

あれから24年の月日が経つわけですが、日本が火山国であるということを、まざまざと見せつけられた出来事でした。

雲仙普賢岳大火砕流」、亡くなられた方は40名、行方不明者3名、負傷者9名、建物被害179棟という火山災害では非常に大きな被害をもたらせました。

また火砕流の後の土石流で家屋2500棟が倒壊し、大惨事となった自然災害です。

このように火砕流による多数の犠牲者が発生したのは、その危険性について当時、充分な認識が広まっていなかったことが背景にありました。

気象庁臨時火山情報にて火山学者や専門家が議論の末、「24日の崩落は小規模な火砕流」と発表したものの、住民の混乱を恐れたため火砕流の危険性について具体的な言及が一切無く、報道関係者には本来の「地質学的に小規模」の意味が「人的被害を出さない程度の規模」と受け取られたことによるもでした。

すべての認識の甘さから起こった人的災害と言ってもいいと思います。

この死亡した中には火山学者が4人もいました。

危険性については、一般の人よりもはるかに理解しているのにも関わらず、逃げ道を失い火砕流に飲み込まれてしまいました。

1791年の大噴火、「島原大変肥後迷惑」

平成新山
さて、「島原大変肥後迷惑」という記述ですが、寛政3年(1791年)10月8日の小地震に始まり、半年後の大災害につながったという事例です。

1991年の噴火も「橘湾群発地震」がきっかけだとされていますが、ほぼ同じ地域で同じことが過去にも起こっていたわけです。

1791年に起きた大噴火は雲仙岳史上最大なものとされています。この記述の書いていることが現代で起きたら、と思うと計り知れない恐ろしさを感じてしまいます。

この「島原大変肥後迷惑」をすべて記載していくと膨大な字数になるので、今回は私が読んだ中でまとめた、簡易的なものとして記していくようにします。

多分すべてを書いてもだれも完読はしないだろうと思います。

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島原大変肥後迷惑の概要記述

雲仙普賢岳火砕流
小地震は3ヶ月以上も続いており小浜村(長崎県小浜温泉で有名な現在の雲仙市小浜町)の山番小屋に住む老夫婦が、地震による山崩れで家もろとも圧し潰されて亡くなっていると、最初は記しています。

この時、小規模ではあるが、橘湾群発地震はすでに3ヶ月以上も続いていたことを記していますが、この小範囲の地域だけではなく、島原半島全体に地震の影響が出始めていたみたいですね。

寛政4年1月18日に雲仙岳のひとつである普賢岳が噴火して、火口からは泥土を噴出しつづけ、日を追って激しくなり20日には島原城下にも灰が降ってくるようになったと記されています。

2月に入るとこの噴火は小康状態に入り、収まったかに見えた矢先に違う場所で新たな噴火が始まり、焼石(溶岩ドーム)が現れて崩れ落ちる様は壮観であったと記されてますが、1991年の時と同じ状況であったことがわかります。

人々は最初恐れていたみたいだが、次第に慣れてくると噴火を見物に行くようになり、噂を聞きつけた遠方からの観光客も大勢集まり、茶屋も新しく建てられて、まるで神社仏閣のお祭りのようだったと書かれています。

現代のように観測技術が発達していたら、もう少し危機感がもてたのかもしれないが、ここでも1991年と比べても人の考え方や認識というのは、さほど変わっていないように感じます。

人々はここ数か月間地震や噴火の中で生活をしていたため、慣れが生じてあまり怖さを実感できなくなってしまったのでしょう。ただ、まともな商売や仕事ができず、藩から米の配給を受けて暮らしていたみたいですね。

不思議なのは、これだけ地震や火山噴火を目の当たりにしても、ほとんどの人が逃げないで日常の生活を続けているという点です。

慣れ、というものは人間の恐怖感までも屈してしまっています。

記述の中でも記していますが、激しくなると離れた場所に避難し、小規模の活動になるとまた地元に帰ってきて生活する、ということを繰り返しています。

こうして人々が不安のうちに一喜一憂して噴火や地震の推移も予見できずに、その日暮らしのような生活をしている時に、寛政4年(1992年)4月1日に大災害が発生しました。

島原城の西の前山が突然崩れ、3億4000万立方メートル(はっきり言って想像もつかない数字)もの土砂が島原城下を襲い、町すべてを飲み込み有明海に注ぎました。

崩れ落ちた土砂の流入で海岸線を870メーターも進ませ、これによる大津波が有明海で発生し、対岸の熊本天草地方に押し寄せています。

津波の高さは15~20メートルに達し、三角町大田尾では最高の22.5メートルに達し、島原側は布津大崎鼻で57メートルを超えたとの記録が残っています。

これが「島原大変肥後迷惑」という記述に書かれた内容です。

あまり難しいことを書いても仕方がないので、超抜粋で書きましたが、これだけを見ても当時の災害の大きさがわかると思います。

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雲仙普賢岳の噴火まとめ

この大災害で亡くなられた方は15000人を超えています。

1991年の時は幸いにしてここまで至らなかったのですが、現在の島原市の人口44000人、もし同じ状況下でこの災害が起きたと考えると身が震える思いですね。

がまかすドーム
1990年11月より約5年間にもおよぶ雲仙普賢岳の噴火。

島原市にある「がまかすドーム」では自然の驚異と災害の教訓を風化させることなく後世へ残しながら、火山や防災、ジオパークまで、幅広く学ぶことができます。

島原市にお越しの際は、絶対に見ておきたい場所ですね。

自然災害は、いつでも起こりゆることだと思わなければなりません。

日本列島の火山は今、活動期に入りつつあると言われています。

全国に49ヶ所ある活火山、やはりできるだけ早く避難設備の確立とハザードマップの作成ではないでしょうか。

3年以内で80%の確率でやってくるという南海トラフの大地震、昨日もこのことについてニュースでやっていましたが、まさに「天変地異」になりかねないことだと理解していただければと思います。

一度、自然災害が発生すると、とてつもない力ですべてのものを飲み込んでしまいます。

それに対しての人間の力なんて、たかがしれています。

だからこそ、少しでも被害を少なくするための努力をしなくてはなりません。

また、ご機会があればお寄りいただければ幸いです。今日は最後までお読みいただきありがとうございます。

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